高尾山麓日誌

東京、高尾山麓付近に暮らす日常から、高尾山の状況や、高尾山・八王子周辺地域で気付いたこと、周辺鉄道情報などを掲載

飯田線北部線用運用に就いていた、クハニ67901 (蔵出し画像)

2016-03-29 00:30:08 | 旧型国電
 こちらは伊那松島機関区のクハニ67901です。
 ご存じのようにオリジナルのクハ67は、飯田線に移ったものはクハユニ56に改造、そしてオリジナルのまま残ったものの内、67007が三河島事故(1962)で粉砕大破、その後最後まで残ったクハ67006が1969年に中野区で廃車になって、70年代には一両も残っていませんでした。70年代に残っていたのはすべてクハ55から改造したもので、そのうち新前橋区にいた67900, 67902は既に紹介しました。
 本車は平岡以北に限定されていた伊那松島区91, 92運用 (1975-78年)に就いていた車輌で、ほかに67903, 60905がいました。方向はすべて上り豊橋向き(奇数向き)でした。当時の運用はこちらに掲載しました (http://blog.goo.ne.jp/yasuo_ssi/e/bd3a09e9b5529c8c21e2b776b088d1c3) 。91運用は83運用と連結して朝平岡から出て、伊那松島で83運用と分かれて入区。92運用は、82運用と共に伊那松島区を出て天竜峡に向かい、さらに飯田との間を往復した後しばらく天竜峡で昼寝、そして午後になって辰野に向かい、さらに平岡に折り返すという運用でした。この91, 92運用は、かつて1950年代に富士身延からの転入車、モハ1200+クハニ7200が担当した運用の名残といえるでしょう。
 本車は元々松戸区にいたクハ55093を横浜線用にクハニ67に改造したもの。1959年に903, 905と共に飯田線に移りました。そのころ伊那松島区の荷物合造車はクハニ19が4輌いましたが、それらを直ちに置換えた訳ではなかったようで、クハニ19は63~66年に掛けて廃車になっています。それだけ当時伊那北部の手荷物輸送需要が高かったのか、それとも横浜線の手荷物輸送がクモニに置換えられてとりあえずということだったのか。
 また、検査間合いか故障車の代走で、単純にTcMcの代わりに7,80番台運用に就いていることもありました。

 同じ方向ですが2枚(上77年, 下75年)ご覧下さい。

(1977.7.30 伊那松島機関区)


(1975.5.4 飯田駅)

 前面貫通路部分の塗り分けが、非貫通車に準じて直線に塗り分けられています。貫通路は形態的には残存しても、おそらくはめ殺しになっていたでしょうからそのようになっていたものと推測されます。ただこの塗り分けは以前紹介した新前橋区のクハニ67900代とは異なっています。

そして床下です。

(1977.7.30)

 最近ローカルバス存続のため、バスに人だけではなく宅配の荷物を載せるという取り組みが新聞で紹介されていましたが、鉄道からバスとはいえ昔の荷物合造車のコンセプトが復活しているように思います。
 一旦は合理化のため荷物、郵便輸送を全廃したJRですが、ローカル線における荷物扱いや合造車の復活が検討されても良いのでは、とも思えたり。

本車の車歴です。

1941.3 川崎車輌製造 (クハ55093)→1941.3.25使用開始 (東鉄)...(1947 東カノ在籍) → (1954 東マト在籍)→1955.12.1改造(クハニ67901 東ヒナ)→1959.12.23静ママ→(全検77-1浜松工)→1978.10.19静トヨ→1978.11.28廃車

 なお本車は、最初の配置が東鉄であったことは間違いありませんが、中野だったのかどうかは不明です。またいつ松戸に移ったのかも不明です。ともあれ、クハニ改造前は常磐線にいました。クハ55として新製されたなかではもっとも遅いグループです。横浜線用に改造されたにもかかわらず、横浜線にいたのは4年と短く、大半を飯田線伊那北部で過ごしました。他の車両の検査時にはクハ代用としてクモハ61とコンビを組んで南部を走ったこともありました。

データ出所: 『旧型国電台帳 - 決定版』(1997), 『鉄道ピクトリアル』バックナンバー、『終戦直後 東京の電車』(ないねん出版)、一部現車確認




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