『禅の教室』を読みました。読後感を簡潔にまとめると、仏教がリアルな文脈に落とし込められた、と言えば良いのでしょうか。
この本は禅僧の藤田一照さんと詩人の伊藤比呂美さんの対話が形になった新書です。
藤田さんが何気なく使う仏教語(自分も読み流してしまう言葉)に対して敏感に「それは何?」と返します。
藤田一照さんはそれに対して丁寧に日常語に変換して応えてくれる。
そんな応酬が始終続いていて、読んでいる人間にとって高踏な印象を持たせる仏教の言葉が変わっていきます。
内容として一番興味深かったのは、半眼についてです。
坐禅中は目を半眼にしろと言われる。目を閉じるのでもなく、見開くのでもない。
坐禅会に来てくれた友人から「目を閉じたほうがよかった」と言われたが、半眼の意味を自分自身が説明できていませんでした。お恥ずかしいです…
伊藤比呂美さんはこの半眼と乗馬における眼の状態をつなげて言葉に表してくれました。
人間の集中状態こそが半眼の状態なのだと。
半眼は坐禅会で友人に指摘されるまえから自分の中の疑問の一つとしてありました。
「寝てはいけない」という人がいる。
ではなぜ目を見開かないのか。
「姿勢づくりの結果そうなる」という人もいる。これは藤田一照さんもおっしゃっている。状態のリラックスの結果としての半眼です。
けれど、これも結局目を閉じても構わないのではないか、という疑問に対しては応えてくれていません。
人間の集中状態の発露としての半眼。これがこの本から得ることができた概念です。
もちろん自分の坐禅中にも無意識的にやっていたのだが、それがようやく言語化できたという思いがします。
読書をする際も、集中しているのはこの半眼、他の所作を行っている時でも、この半眼が最も神経を研ぎ澄ました状態になっているのですね。
半眼と薄ら目の違いについても思い至ることができました。
薄ら目は目を閉じた状態から薄ら目を開けた状態である一方、半眼は開けた状態から絞っていく感覚があります。
半眼は、一点を力むことなく(もしくは絶妙な力みで)凝視することだとも言えますね。
向こうから来る光と、自分の見るという行為が釣り合っているようなポイント、それを体現したのが半眼だ!
…というのは言い過ぎでしょうか。
この本を読んで感じた事として、もっと体を動かさなくては…ということですね。
最近自分の体と対話出来ていない気がします。
この本は禅僧の藤田一照さんと詩人の伊藤比呂美さんの対話が形になった新書です。
藤田さんが何気なく使う仏教語(自分も読み流してしまう言葉)に対して敏感に「それは何?」と返します。
藤田一照さんはそれに対して丁寧に日常語に変換して応えてくれる。
そんな応酬が始終続いていて、読んでいる人間にとって高踏な印象を持たせる仏教の言葉が変わっていきます。
内容として一番興味深かったのは、半眼についてです。
坐禅中は目を半眼にしろと言われる。目を閉じるのでもなく、見開くのでもない。
坐禅会に来てくれた友人から「目を閉じたほうがよかった」と言われたが、半眼の意味を自分自身が説明できていませんでした。お恥ずかしいです…
伊藤比呂美さんはこの半眼と乗馬における眼の状態をつなげて言葉に表してくれました。
人間の集中状態こそが半眼の状態なのだと。
半眼は坐禅会で友人に指摘されるまえから自分の中の疑問の一つとしてありました。
「寝てはいけない」という人がいる。
ではなぜ目を見開かないのか。
「姿勢づくりの結果そうなる」という人もいる。これは藤田一照さんもおっしゃっている。状態のリラックスの結果としての半眼です。
けれど、これも結局目を閉じても構わないのではないか、という疑問に対しては応えてくれていません。
人間の集中状態の発露としての半眼。これがこの本から得ることができた概念です。
もちろん自分の坐禅中にも無意識的にやっていたのだが、それがようやく言語化できたという思いがします。
読書をする際も、集中しているのはこの半眼、他の所作を行っている時でも、この半眼が最も神経を研ぎ澄ました状態になっているのですね。
半眼と薄ら目の違いについても思い至ることができました。
薄ら目は目を閉じた状態から薄ら目を開けた状態である一方、半眼は開けた状態から絞っていく感覚があります。
半眼は、一点を力むことなく(もしくは絶妙な力みで)凝視することだとも言えますね。
向こうから来る光と、自分の見るという行為が釣り合っているようなポイント、それを体現したのが半眼だ!
…というのは言い過ぎでしょうか。
この本を読んで感じた事として、もっと体を動かさなくては…ということですね。
最近自分の体と対話出来ていない気がします。
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