若僧ひとりごと

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『学道用心集聞解』を読む#2 〜序文2〜

2020-03-16 14:52:23 | 仏教・禅
 前回は序文の途中で終わりました。このブログは更新頻度は確定させていませんが、大体週に2回ほどは更新していきたいと思っています。
 まず、前回の本文と書き下しを再掲しておきます。書き下しは少しふりがなを足してあります。

【本文】
竊以八萬四千之法蔵者係其機熟。一千七百公案亦導彼根利。至今機生根鈍。則恰同嬰童聞大雅焉。豈得辨別其曲折之妙哉。我祖学道用心也。苦口鄭重宜可導機生之凡嬰。丁寧告誡可暁根鈍之愚童。

【書き下し】
竊(せつ)に以(おもんみれ)ば八萬四千の法蔵は其の機熟に係る。一千七百の公案も亦彼の根利を導く。今に至って根の鈍きに生じるに至らば則ち恰(あたか)も嬰童(えいどう)の大雅を聞くに同じかな。豈に其曲折の妙を辨別(べんべつ)することを得んや。我が祖の学道用心や。苦口鄭重(くこうていちょう)宜しく機生の凡嬰を導くべく、丁寧告誡(ていねいこっかい)は根鈍(こんどん)の愚童に暁す可し。

 ここは道元禅師の述べているところではなく、面山瑞方さんの記述だというところは注意しなくてはなりません。初回はほぼ進んでおらず、今回は「一千七百公案〜」から進めていきます。

一千七百公案亦導彼根利
 公案とは禅の問答や問題のことで、公府の案牘 (あんとく)という言葉が省略されたものです。公案集として有名なものは『碧巖録(へきがんろく)』や『無門関(むもんかん)』、曹洞宗では『従容録(しょうようろく)』がよく用いられます。正式にはこれらは評唱録と言われるものです。
 公案自体として有名なものは「狗子無仏性」と言われるもので、犬に仏性があるかどうか、というものです。これは趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)という唐代の禅僧とその弟子の問答だと伝えられています。こういった公案の数が1700あると言われていて、それがここでは「一千七百公案」という表現になっているのです。なぜ1700なのかはまた調べてみなくては定かなところではありません。
 公案が「彼の根利を導く」と言われています。根利は機熟と同様の意味になります。修行に向かう力量に優れているということです。禅の問答である公案はお釈迦様の教えと同じように、力量に優れた人を導くものとしてある、ということがこの二文で言われています。

至今
 「今に至って」で、そのままです。ここでは時間が変わっています。法蔵と公案のところでは対象が先人になっていた一方で、この「至今」ではその対象が面山さんの時代、つまり江戸の時代(1760年頃)に移ったとみるべきでしょう。

機生根鈍
機というのは前回もあったように機根の話です。仏教学では「鈍根」という表現はよくありますが、これをひっくり返した形で書かれているのがこの「根鈍」になります。

則恰同嬰童聞大雅焉
 嬰童とは幼子です。大雅というのは詩経の分類の一つのようですが、単純に気高いもの、という意味もあるようです。幼子が(詩経のような)気高いものを聞くのと同じようなことだ、とここでは言っています。
 ただ、嬰童にはポジティブな意味もあるようです。弘法大師空海の『十住心論』では「嬰童無畏住心」というものがあり、人間世界の苦しみから離れた状態のことを指しています。
 大雅の後に「焉」がありますが、文末に来る場合は「かな」という、感嘆の意味を示します。つまりは、幼子が詩経の一部を聞くようなもので、わかるはずもないというような意味に取れます。

我祖学道用心也
 我が祖とは道元禅師のことで、学道用心は『学道用心集』のことになります。

苦口鄭重宜可導機生之凡嬰
 苦口は辞書で引くと「にがくち」と訓読みされますが、ここでは音読みした方がリズムが良いと思われます。「くこうていちょう」ですね。苦口はそのまま「にがにがしい物の言い方」ですが、「にくまれぐち」と言った意味もあります。鄭重は丁重と同じです。注意が行き届いていて丁寧なことです。ちょっと矛盾しているようですが、教師が憎まれようとも大切なことを伝えていこうとする精神を思い浮かべれば納得がいくところでしょう。
 機生之凡嬰とは凡とは平凡な様であり、嬰とは先ほども出ましたが、子供のことです。これは根鈍と同じ意味に取れば良いところです。

丁寧告誡可暁根鈍之愚童
 丁寧はそのまま、告誡は戒めるという意味。根鈍之愚童も前出と同じです。

ここまでの小結
 公案や経典は機根の優れた者、修行の能力に秀でたものに向けられたものであり、それに対して道元禅師の『学道用心集』は修行の能力の低い、鈍根の者に向けられた懇切丁寧なものなのだ、という内容になります。

 ここまでが前回引用した部分。次からは新しいところです。
【本文】
古人謂禁童子之暴謔則師友之誡不如傳婢之指揮。止凡人之鬭䦧則尭舜之道不如寡妻誨諭。

【書き下し】
古人謂く童子の暴謔を禁ずるは則ち師友の誡も傳婢(でんぴ)の指揮に如かず。凡人の鬭䦧(とうげい)を止むるは則ち尭舜の道も寡妻の誨諭に如かず。

 この古人とは誰かをというのを調べたところ、顔之推(がんしすい)という人のようです。謂く以下に書かれているのはこの顔之推によって著された『顔氏家訓(がんしかくん)』です。2年前(2018年)に林田慎之助氏による訳が講談社学術文庫から出ているので、ここの訳文を参照したいと思います。
 
「さて同じことをいっても、信じてくれるのは近親の者の言葉であり、同じことを命じても、従ってくれるのは心服する者のいいつけである。だから子供のいたずらを禁ずるには、師友の忠告よりも、子守や女中の指図のほうが効果的である。凡人のいさかいをやめさせるには、尭や舜といった古代の聖人の説く教えよりも、女房の説教のほうがよほどこたえるというものである」(p15-16)
 この下線部分が『学道用心集聞解』に引用されている部分です。

 簡単に語釈も加えていきます。
暴謔
 暴謔は「いたずら」と訳されています。一般的に見る暴虐は暴力的なものですが、謔にはいたずらといった意味があります。

鬭䦧
 鬭䦧の鬭は「闘」の旧字体です。この漢字が旧字体とされる過程についてこんなブログがあったのでご参考までに。https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/%E7%AC%AC8%E5%9B%9E%E3%80%8C%E9%97%98%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E9%AC%AA%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E9%AC%AD%E3%80%8D
 「もんがまえ」だけでなく、「とうがまえ」もあったのですね。

傳婢
 この言葉ははっきりとはわからなかったのですが、祖傳婢がの一種であり、それが下人を指す言葉として使われていたようです。

尭舜之道
 尭も舜も中国の伝説的な君主を指します。道は文字通り道の意味もありますが、思想や学説、道理、規律といった意味でも使われ、動詞としては「語る」といった意味にも使われます。ここでは君主が語ったこと、その道理といった意味に取れば良いでしょう。

寡妻
 寡婦は未亡人の意味がありますが、寡妻は正夫人のこと。奥さんです。


 とっくに3000字も超えてしまっているのですが、せっかくなので残りの部分も書いておきたいと思います。

【本文】
今我以此集擬其傳婢之指揮、寡妻之誨諭云爾
【書き下し】
今我此の集を以って其の傳婢の指揮、寡妻の誨諭に擬する云爾(のみ)

 この『学道用心集聞解』を述べる面山さん自身が下人や妻のような親しい存在となって懇々と説いていこうという宣言が述べられているのです。またこの『学道用心集聞解』が書かれたのは明和三年、すなわち1766年であることがこの序文の終わりに示されています。

 次回はまだ学道用心集自体の本文にもはいることはできませんが、漢文では無く、漢字とカタカナによって書かれているので、直接原文を引く理由が無くなります。そのため、内容解説を中心にし、適宜本文の内容を示すという形にとどめていくこととします。

 ここまでご覧いただき、誠にありがとうございます。
 訂正や疑問などをご指摘をいただければ幸いに存じます。
 それではまた次回お会いできますよう。


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