【はじめに】
先日、『上達論』という本を読みました。これは武術家である方条遼雨(ほうじょうりょうう)氏が甲野善紀(こうのよしのり)氏に影響を受けながら培った武術を習う心得について平易に書かれたものが前半にあり、後半はこの両者の対話の形になっています。
禅と武術の関係はオイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』に代表されるように密接な関係があるとされています。武術は禅の影響を受けているということがよく言われますが、禅もまた武術に習うところが多いのではないかと思わされました。
禅において「ありのまま」や「あるがまま」ということが言われていますが、それが具体的にどういうことなのか、なかなか言語化が難しいと感じていましたが、この『上達論』ではそこの言語化が巧みになされていたのです。
【上達論における解釈の問題、アナログの必要】
まず、あるがまま、ありのままに受け入れないことについての問題点について、次のように述べられています(実際にありのままといった言葉ではなく、解釈の問題として述べられています)。
人間の能力の一つとして、カテゴライズ(分類)するというものがあります。今起きている出来事が過去のどのような事象と類似しているのかを見つけ、同類項で結びつけるのです。出来事だけではなく、他人に対しても、それが過去に出会った好ましい人間と似た特徴があるのなら好意的に、嫌なタイプの人間と似ていたら、嫌なタイプにまず振り分けられると言ったようなものです。
それは無意識的に行われることもありますが、言語の形で行われることもあります。「男はこう」「女はこう」といったものになることもありますし、それが人種だったり、出身地域であったりもします。それはカテゴライズと呼ばれ、認知の負担を少なくし、効率を高めることができたと言われているものです。しかし、それは時として細かい情報を見落とすことになり、「エラー」を起こすことにも繋がってきます。エラーの最たるものが差別や偏見といったものになるでしょう。
ではカテゴライズのエラーを少なくするにはどうすれば良いのかというと、データをまずは収集することです。何かを分析する時に大事なのは、その元データが豊かであることです。それが言語などのようなもので単純化されたものでしか受け入れられなければ、分析もまた貧相なものになってしまいます。
こうした元データについて、方条氏は「アナログ」と読んでいます。アナログの対はデジタルですが、次のような表現をされています。
このように言語化、解釈を経ない状態で受け入れることの重要性が説かれています。私たちは単純な言葉で物事をくくってしまいがちです。「かわいい」とか「綺麗」とか、「やばい」とかいった言葉もそうですね。もっとも、精緻な言葉で表現できるようになっていれば良いのでしょうが、私たちは往々にして曖昧なレベルの言葉で世界を認識しているのです。
【坐禅の考察】
さて、ここからは坐禅指導の考察になります。現代の坐禅指導においては指導が型にはまり、その理屈などが何も説明されないということが一つの問題として挙げられることがままあります。確かに姿勢を伸ばして足を組んで手を組んで、「はい始めます」というのは問題です。しかし、あまり説明されないことにも意味があるのではないでしょうか。解釈の仕方は色々あるのだけれど、それは坐禅をする人が後々やっていけば良いこと。
確かに足を組む、手を組む、それについてどのような理屈が存在しているのかについては、少なくとも自身で最低一つは解釈を持っておいた方が良いでしょうし、それを伝えた方が有効である場合はあるでしょう。しかし、それを伝えると他のところに目が向かなくなってしまうことは問題になってくるのではないでしょうか。
足を組んだ時に自分に生じる感覚、それは単に「痛い」かもしれないし、下の充実感かもしれない。言葉にして伝えるのも大事ですが、まずはその作法を実践し、そこから生じてくる自分の感覚に目を向けていく態度を伝えなくてはいけないのだと思います。
アメリカ人などに指導する際、彼らは合理主義的なので、どうしてそれをやるのかを示さなければやってもらえないという話を聞いたことがあります。その合理主義に答えられるような形で坐禅を示すことはとても意義深いのでしょうが、それと同時に坐禅が与えてくれる微妙(みみょう)なところもあるのだということも示さなければならないはずです。
そして同時に、何かを得ようとする態度も戒められるべきものです。何かを得るというのは、基本的に自分に何かしらポジティブな状態ないし能力が与えられることを意味してきます。そしてそれは自分の意識上に上がってくるようなものでなくてはなりません。坐禅の功徳はそういう、意識には上がってこないような微かなものであることがあるのではないでしょうか。
【坐禅の考察】
只管打坐という言葉があり、これはともすれば単に坐禅をすれば良いということが言われてしまいがちですが、この上達論における「アナログ」な部分を坐禅は重視しているのです。ただ坐るというのは単に坐ればそれでOKというものではなく、坐禅をしていく中で、他の人の作った言葉や感覚に惑わされず、自分の解釈にも惑わされず、ただその時その場所で坐る自分に対して色眼鏡ナシで向き合っていくことなのだと思います。
先日、『上達論』という本を読みました。これは武術家である方条遼雨(ほうじょうりょうう)氏が甲野善紀(こうのよしのり)氏に影響を受けながら培った武術を習う心得について平易に書かれたものが前半にあり、後半はこの両者の対話の形になっています。
禅と武術の関係はオイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』に代表されるように密接な関係があるとされています。武術は禅の影響を受けているということがよく言われますが、禅もまた武術に習うところが多いのではないかと思わされました。
禅において「ありのまま」や「あるがまま」ということが言われていますが、それが具体的にどういうことなのか、なかなか言語化が難しいと感じていましたが、この『上達論』ではそこの言語化が巧みになされていたのです。
【上達論における解釈の問題、アナログの必要】
まず、あるがまま、ありのままに受け入れないことについての問題点について、次のように述べられています(実際にありのままといった言葉ではなく、解釈の問題として述べられています)。
「解釈」する事自体は良いのです。目の前で起きたことを、起きたまま受け入れられているのならば。一番の問題は、新たな情報を受け入れようとしている最中から「解釈」のフィルターを通す事により、「元の情報」の形をどんどん変形させてしまっている点です。つまり、「解釈する事により、解釈の精度を自ら落としてしまっている」のですp46
人間の能力の一つとして、カテゴライズ(分類)するというものがあります。今起きている出来事が過去のどのような事象と類似しているのかを見つけ、同類項で結びつけるのです。出来事だけではなく、他人に対しても、それが過去に出会った好ましい人間と似た特徴があるのなら好意的に、嫌なタイプの人間と似ていたら、嫌なタイプにまず振り分けられると言ったようなものです。
それは無意識的に行われることもありますが、言語の形で行われることもあります。「男はこう」「女はこう」といったものになることもありますし、それが人種だったり、出身地域であったりもします。それはカテゴライズと呼ばれ、認知の負担を少なくし、効率を高めることができたと言われているものです。しかし、それは時として細かい情報を見落とすことになり、「エラー」を起こすことにも繋がってきます。エラーの最たるものが差別や偏見といったものになるでしょう。
ではカテゴライズのエラーを少なくするにはどうすれば良いのかというと、データをまずは収集することです。何かを分析する時に大事なのは、その元データが豊かであることです。それが言語などのようなもので単純化されたものでしか受け入れられなければ、分析もまた貧相なものになってしまいます。
こうした元データについて、方条氏は「アナログ」と読んでいます。アナログの対はデジタルですが、次のような表現をされています。
「豊かな情報」とは、「アナログ」です。例えばこの世に「五センチ」という長さの物は存在しません。物差しが正確に五センチを示していても、拡大してみれば数ミクロンずれているかもしれません。
デジタルは「区切り目を明確にする代わりに、その「外側」、「端数」を次々と削ってゆきます。
しかし、この世の事象はすべて「アナログ」であり、「端数」なのです。にもかかわらず世界を「数値化されたもの」「言語化されたもの」ばかりで捉えていると、膨大な情報を見失うことになります。
失われた「アナログ」を取り戻すためには、「アナログ」をアナログのまま取り込む能力が必要になります。
それを育むのに、「未加工のシンプルさ」と、「無限の情報量を有している「自然環境」は「豊か」で適しているということです。
デジタルは「区切り目を明確にする代わりに、その「外側」、「端数」を次々と削ってゆきます。
しかし、この世の事象はすべて「アナログ」であり、「端数」なのです。にもかかわらず世界を「数値化されたもの」「言語化されたもの」ばかりで捉えていると、膨大な情報を見失うことになります。
失われた「アナログ」を取り戻すためには、「アナログ」をアナログのまま取り込む能力が必要になります。
それを育むのに、「未加工のシンプルさ」と、「無限の情報量を有している「自然環境」は「豊か」で適しているということです。
このように言語化、解釈を経ない状態で受け入れることの重要性が説かれています。私たちは単純な言葉で物事をくくってしまいがちです。「かわいい」とか「綺麗」とか、「やばい」とかいった言葉もそうですね。もっとも、精緻な言葉で表現できるようになっていれば良いのでしょうが、私たちは往々にして曖昧なレベルの言葉で世界を認識しているのです。
【坐禅の考察】
さて、ここからは坐禅指導の考察になります。現代の坐禅指導においては指導が型にはまり、その理屈などが何も説明されないということが一つの問題として挙げられることがままあります。確かに姿勢を伸ばして足を組んで手を組んで、「はい始めます」というのは問題です。しかし、あまり説明されないことにも意味があるのではないでしょうか。解釈の仕方は色々あるのだけれど、それは坐禅をする人が後々やっていけば良いこと。
確かに足を組む、手を組む、それについてどのような理屈が存在しているのかについては、少なくとも自身で最低一つは解釈を持っておいた方が良いでしょうし、それを伝えた方が有効である場合はあるでしょう。しかし、それを伝えると他のところに目が向かなくなってしまうことは問題になってくるのではないでしょうか。
足を組んだ時に自分に生じる感覚、それは単に「痛い」かもしれないし、下の充実感かもしれない。言葉にして伝えるのも大事ですが、まずはその作法を実践し、そこから生じてくる自分の感覚に目を向けていく態度を伝えなくてはいけないのだと思います。
アメリカ人などに指導する際、彼らは合理主義的なので、どうしてそれをやるのかを示さなければやってもらえないという話を聞いたことがあります。その合理主義に答えられるような形で坐禅を示すことはとても意義深いのでしょうが、それと同時に坐禅が与えてくれる微妙(みみょう)なところもあるのだということも示さなければならないはずです。
そして同時に、何かを得ようとする態度も戒められるべきものです。何かを得るというのは、基本的に自分に何かしらポジティブな状態ないし能力が与えられることを意味してきます。そしてそれは自分の意識上に上がってくるようなものでなくてはなりません。坐禅の功徳はそういう、意識には上がってこないような微かなものであることがあるのではないでしょうか。
【坐禅の考察】
只管打坐という言葉があり、これはともすれば単に坐禅をすれば良いということが言われてしまいがちですが、この上達論における「アナログ」な部分を坐禅は重視しているのです。ただ坐るというのは単に坐ればそれでOKというものではなく、坐禅をしていく中で、他の人の作った言葉や感覚に惑わされず、自分の解釈にも惑わされず、ただその時その場所で坐る自分に対して色眼鏡ナシで向き合っていくことなのだと思います。