若僧ひとりごと

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『上達論』と坐禅指導の考察〜「解釈」の問題と「アナログ」の必要性

2020-04-05 12:41:20 | その他
【はじめに】
 先日、『上達論』という本を読みました。これは武術家である方条遼雨(ほうじょうりょうう)氏が甲野善紀(こうのよしのり)氏に影響を受けながら培った武術を習う心得について平易に書かれたものが前半にあり、後半はこの両者の対話の形になっています。

 禅と武術の関係はオイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』に代表されるように密接な関係があるとされています。武術は禅の影響を受けているということがよく言われますが、禅もまた武術に習うところが多いのではないかと思わされました。

 禅において「ありのまま」や「あるがまま」ということが言われていますが、それが具体的にどういうことなのか、なかなか言語化が難しいと感じていましたが、この『上達論』ではそこの言語化が巧みになされていたのです。

【上達論における解釈の問題、アナログの必要】
 まず、あるがまま、ありのままに受け入れないことについての問題点について、次のように述べられています(実際にありのままといった言葉ではなく、解釈の問題として述べられています)。

「解釈」する事自体は良いのです。目の前で起きたことを、起きたまま受け入れられているのならば。一番の問題は、新たな情報を受け入れようとしている最中から「解釈」のフィルターを通す事により、「元の情報」の形をどんどん変形させてしまっている点です。つまり、「解釈する事により、解釈の精度を自ら落としてしまっている」のですp46

 
 人間の能力の一つとして、カテゴライズ(分類)するというものがあります。今起きている出来事が過去のどのような事象と類似しているのかを見つけ、同類項で結びつけるのです。出来事だけではなく、他人に対しても、それが過去に出会った好ましい人間と似た特徴があるのなら好意的に、嫌なタイプの人間と似ていたら、嫌なタイプにまず振り分けられると言ったようなものです。

 それは無意識的に行われることもありますが、言語の形で行われることもあります。「男はこう」「女はこう」といったものになることもありますし、それが人種だったり、出身地域であったりもします。それはカテゴライズと呼ばれ、認知の負担を少なくし、効率を高めることができたと言われているものです。しかし、それは時として細かい情報を見落とすことになり、「エラー」を起こすことにも繋がってきます。エラーの最たるものが差別や偏見といったものになるでしょう。

 ではカテゴライズのエラーを少なくするにはどうすれば良いのかというと、データをまずは収集することです。何かを分析する時に大事なのは、その元データが豊かであることです。それが言語などのようなもので単純化されたものでしか受け入れられなければ、分析もまた貧相なものになってしまいます。

 こうした元データについて、方条氏は「アナログ」と読んでいます。アナログの対はデジタルですが、次のような表現をされています。

「豊かな情報」とは、「アナログ」です。例えばこの世に「五センチ」という長さの物は存在しません。物差しが正確に五センチを示していても、拡大してみれば数ミクロンずれているかもしれません。

デジタルは「区切り目を明確にする代わりに、その「外側」、「端数」を次々と削ってゆきます。

しかし、この世の事象はすべて「アナログ」であり、「端数」なのです。にもかかわらず世界を「数値化されたもの」「言語化されたもの」ばかりで捉えていると、膨大な情報を見失うことになります。

失われた「アナログ」を取り戻すためには、「アナログ」をアナログのまま取り込む能力が必要になります。

それを育むのに、「未加工のシンプルさ」と、「無限の情報量を有している「自然環境」は「豊か」で適しているということです。


 このように言語化、解釈を経ない状態で受け入れることの重要性が説かれています。私たちは単純な言葉で物事をくくってしまいがちです。「かわいい」とか「綺麗」とか、「やばい」とかいった言葉もそうですね。もっとも、精緻な言葉で表現できるようになっていれば良いのでしょうが、私たちは往々にして曖昧なレベルの言葉で世界を認識しているのです。

【坐禅の考察】
 さて、ここからは坐禅指導の考察になります。現代の坐禅指導においては指導が型にはまり、その理屈などが何も説明されないということが一つの問題として挙げられることがままあります。確かに姿勢を伸ばして足を組んで手を組んで、「はい始めます」というのは問題です。しかし、あまり説明されないことにも意味があるのではないでしょうか。解釈の仕方は色々あるのだけれど、それは坐禅をする人が後々やっていけば良いこと。

 確かに足を組む、手を組む、それについてどのような理屈が存在しているのかについては、少なくとも自身で最低一つは解釈を持っておいた方が良いでしょうし、それを伝えた方が有効である場合はあるでしょう。しかし、それを伝えると他のところに目が向かなくなってしまうことは問題になってくるのではないでしょうか。

 足を組んだ時に自分に生じる感覚、それは単に「痛い」かもしれないし、下の充実感かもしれない。言葉にして伝えるのも大事ですが、まずはその作法を実践し、そこから生じてくる自分の感覚に目を向けていく態度を伝えなくてはいけないのだと思います。

 アメリカ人などに指導する際、彼らは合理主義的なので、どうしてそれをやるのかを示さなければやってもらえないという話を聞いたことがあります。その合理主義に答えられるような形で坐禅を示すことはとても意義深いのでしょうが、それと同時に坐禅が与えてくれる微妙(みみょう)なところもあるのだということも示さなければならないはずです。

 そして同時に、何かを得ようとする態度も戒められるべきものです。何かを得るというのは、基本的に自分に何かしらポジティブな状態ないし能力が与えられることを意味してきます。そしてそれは自分の意識上に上がってくるようなものでなくてはなりません。坐禅の功徳はそういう、意識には上がってこないような微かなものであることがあるのではないでしょうか。

【坐禅の考察】
 只管打坐という言葉があり、これはともすれば単に坐禅をすれば良いということが言われてしまいがちですが、この上達論における「アナログ」な部分を坐禅は重視しているのです。ただ坐るというのは単に坐ればそれでOKというものではなく、坐禅をしていく中で、他の人の作った言葉や感覚に惑わされず、自分の解釈にも惑わされず、ただその時その場所で坐る自分に対して色眼鏡ナシで向き合っていくことなのだと思います。

菩提心とは「やるか、やらないか」〜『学道用心集聞解』を読む#5

2020-04-02 20:58:04 | 仏教・禅
前回は可発菩提心事について、前半の説明でした。心地観経についての説明でしたね。ここでは空というのは固定した存在はない、実体的な存在はないということなのだけれど、それが行き過ぎてしまうと因果の道理を無視した邪見に陥ってしまう。空というのはあくまでも「有の病」に対する薬として処されるものである。そして邪見から離れれば悟りの心が自ずから働き出すのだ、というのがおおまかな内容となっていました。今回は前回の引用の残りの部分です。こちらに再掲しておきます。

それ自性清浄の心を菩提心と名づく。六道の群生みな具えたり。ただ発と未発との差別なり。諺に喩を説かば、人の臥したると起きたるとのごとし。未発は臥(ね)てらるなり。発は起るなり。なにほど勝れた器量芸能ある人でも臥(ね)て居た分では一切の事業死人と同じ。もし起きてなれば我に有るほどの智慧才覚少しもつかえず用う。今もこれと同じ。本具の菩提心を発しだにすれば、その功徳の働きにて六度万行の器量芸能にもあらわれ、三明六通の智慧才覚も用いられて一超直入如来地なり。ゆえに華厳には初発心便成正覚と説かれ、涅槃には発心畢竟に無別と説かる。菩提と云うは、阿耨多羅三藐三菩提の略語なり。梵語を翻すれば、無上正偏智とも無上等正覚とも称す。果満如来の徳号なり。

ここに示した引用部分は経典ではなく、面山さん(面山瑞方)の解説になっています。本文は漢文ではなく書き下されたものになっていますが、ひらがなになっている部分はカタカナで記されています。

さて、最初のところから見ていきます。
それ自性清浄の心を菩提心と名づく。六道の群生みな具えたり。

自性清浄という言葉が出てきました。『唯識 仏教辞典』には「自性清浄心」の項目があり、ここでは次のように出てきます。

「本来的に清らかな心。煩悩は心に付着した日本来的なもの(客塵煩悩)であり、心の本性は清らかであるという考えをいう」

本来ある清らかな心、つまり悟りの心があるということを菩提心というのだというのがここの部分です。それを六道の群生、つまり天・人間・阿修羅・地獄・餓鬼・畜生にある存在が全てその悟りの心を持っているというのです。みんな本来的に悟っているんだ、というのが天台では「本覚思想」と言われ、堕落の原因ともなったのですが、ここでは単に本覚思想に終わることはありません。次の文章です。

諺に喩を説かば、人の臥したると起きたるとのごとし。未発は臥(ね)てらるなり。発は起るなり。なにほど勝れた器量芸能ある人でも臥(ね)て居た分では一切の事業死人と同じ。もし起きてなれば我に有るほどの智慧才覚少しもつかえず用う。

本来清浄な悟りの心なのだけれど、どうして違いがあるのかと言うと、それは寝ているか起きているというような違いにあるのだと言われています。未発、つまり発心していない状態は寝ていること、そして発心している状態は起きていることに例えられます。

どれほどの器量芸能、簡単に能力のことと解釈しておきますが、そうした能力のある人でも、寝ているだけではなすこと(事業)は死人と変わらない。つまり何の作用も起こさないということが言われます。「やればできる」と言いながらぐーたらしている人間は結局のところ何にもならないというのと同じことですね。

それに対して、起きていれば自分にある智慧・才覚が邪魔されることなく使うことができるのだとされます。これは簡単には同意しかねるところではあります。起きていてもなかなか自分の能力を発揮できないところはいくらでもあるからです。面山さんの指摘する「起きる」というのは単純に起きているというよりは、本当の意味で「目覚めている」ことを指すのでしょう。

本具の菩提心を発しだにすれば、その功徳の働きにて六度万行の器量芸能にもあらわれ、三明六通の智慧才覚も用いられて一超直入如来地なり。

本具の菩提心、つまり元々備わっている清浄な心が働きさえすれば、その功徳が働いて六波羅蜜という行いが現れ、三明六通という智慧を使えるようになり、如来と立つところを同じくするというのです。

六度万行とは六波羅蜜のことです。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つですね。元々仏教で重視されていた行いに関する教えとしては八正道というものがありましたが、大乗仏教になると布施に代表されるように他者性を重視するようになりました。

三明六通についてですが、まずは六神通は以下のものになります。

① 神足通(じんそくつう)。欲する所に自由に現れることができる能力。
② 天眼通(てんげんつう)。人々の未来を予知する能力。
③ 天耳通(てんにつう)。世間一切の苦楽の言葉、遠近の一切の音を聞くことができる能力。
④ 他心通(たしんつう)。他人の考えていることを知る能力。
⑤ 宿命通(しゅくみょうつう)。自己や他人の過去のありさまを知る能力。
⑥ 漏尽通(ろじんつう)。煩悩ぼんのうを滅尽させる智慧。宿命通、天眼通、漏尽通

引用元は以下のページです。

浄土真宗の親鸞聖人に関するデータベースのようですが、手元にある辞書とも大差が無いようなので掲載しておきます。

これは六神通について、つまり三明六通の六通に当たる部分ですが、三明と言うのは天眼通、宿命通、漏尽通を別に取り上げたもののようです。

よく仏教は合理主義的な教えだ、宗教だと言われることが多いのですが、仏典の中では度々超能力のような出来事が取り上げられています。お釈迦様の十大弟子の中にも神通第一と言われた目連尊者がいます。この方は神通力を使った亡くなったお母様が今どこにいるのかを見たそうです。すると天でも人間界でもなく、餓鬼として苦しんでいたというのです。

お釈迦様も水の上を歩いたり、お釈迦様のいるところからはるか遠くのところから香を焚いてお釈迦様に教えを求めたところ、そこにすぐさま現れたといった逸話が仏典に残っています。こうしたものが神通力と言われるのですね。菩提心を発せばそうしたことが全て行えるようになるかというと、それはまた疑問が残るところではありますが。

一超直入如来地(いっちょうじきにゅうにょらいち)とは、本来は黄檗希運(おうばくきうん)という、唐代の禅僧が使っていた言葉です。悟りの境地はステップ・バイ・ステップではなく、場面が転換するようにガラッと変わることをここでは示されています。

今回はここまでと致します。
読み進めていくのも良いですが、もう少しテーマオリエンティッドなスタンスで書いていくのも良いかなと思い始めています。

それではまたお会いできますよう。

ほんの少しずつ部屋を綺麗に。

2020-03-30 21:38:51 | 掃除
どうして部屋が汚くなるんだろう。

僕はずっと部屋を片付けるのが苦手でした。いや、今でも十二分に苦手です。
修行道場ではそこまで汚くなりませんでした。修行の同期からは汚いと散々罵られましたが、自分の中では奇跡的なほどに綺麗でした。

それはなぜかというと、そもそも物が少ないからです。最低限の着物と薬用品を持っているだけなので、そもそも散らかしようがあまり無いのです。それでも汚いと言われていた僕は相当だったのだと思います。

道場からの修行から帰ってくると、部屋にあるのは雑多な物たち。汚す余地はいくらでもあります。
一回綺麗にしたところですぐに汚くなります。

自分で自分の部屋が嫌いになっていきます。

物をそもそも少なくすれば良いのですが、なかなかそうもいきません。捨てる意志が足りないだけなのかもしれませんが。


そんな僕でも、今は多少片付けができるようになっています。何をやっているかというと、「5コ片付ける」のです。
一日に一回、部屋の物を少し片付ける習慣を作る。5コだけで良いのです。出しっぱなしにしていたペンだったり、しまい損なっていたカバンだったり、不要になったプリント類だったり。とりあえず、5コ片付ける。

僕はなんとなく語呂が良いので「5コ片し」と呼んでいます。

それだけでは、もちろん綺麗になることはありません。これの大事なことは、まず片付けるという行動を起こすということなのです。とりあえず5コ片付けていきます。いつやっても良いですが、朝ご飯の後はどうでしょうか。家に帰ってからとかにすると、何かする気にならないですから。

片付け始め、1,2,3,4,5とやっていきます。すると気づくはずです。これも片付けなきゃ。あれも片付けなきゃ、と。そこからは基本的に自由です。どれだけ片付けても、もちろん5コでやめても。ひとまず最初のハードルをできる限り下げておくことが大切になってきます。

部屋を見て、「これを完全に綺麗にしなくては…!」と意気込むと、途端にやる気を失いますよね。小さいことから少しずつやっていくのです。
以前に読んだ掃除に関する本の中では、動かずにその場でやれる片付けをするというものがありました。あっちにいってこれを片付け、こっちに行ってはまた片付け、とやるのではなく、ひとまず机の上だったら机の上、クローゼット周辺だったらクローゼット周辺と、場所についても限定してしまうと楽になります。

まめな人は大丈夫なのでしょうが、僕のようにズボラなくせに完璧主義という、ひねくれた性格をしている人間にとっては片付けを始めるという最初のハードルがやたら高く感じてしまうのです。

もう一つ、大事なことは「記録をつける」ことです。個人的にはバレットジャーナルというやり方が気に入っているのですが、とりあえずはその日にやるべきこと、つまり5コ片しをやれたかどうかを書いていきます。できたらチェックをつけ、できなければバツをつける。バツをつける時は赤とかの方が一層目立って良いかもしれませんね。でも極力バツがつかないような目標に設定すべきです。

この考えの参考になったのは、『小さな習慣』という本です。ここでは寝る前のちょっとした時間で達成できるような形で習慣を設定しなさいということが書かれています。部屋の片付けも同じです。小さなことをとりあえずこなせるようにしていく。実際に片付けなくても、ちょっと本棚の本を整えてみるとか、そうした、本当に小さなことから始めていけば良いのだと思います。


「それができれば苦労はしないよ」と言われるかもしれませんが、大事なのは苦労ではなく、工夫です。まずは掃除の本でも、このやり方でも、なんでも良いから自分で試してみる。それがダメだったら、じゃあ自分にはどういうやり方が向いているのを考えていきます。

何かのやり方を自分に当てはめてそのまま大成功という人はあまりいないのではないでしょうか。「うまくいく」と言われて出回っているものの大半、ほぼ全てが「その成功者にとって最適化されたやり方」だからです。それを育った環境や持っている遺伝子(神経質さは特に遺伝しやすいと言われています)、性格や能力が違う人間がそのまま使おうと思ってもできるはずがありません。

大事なのは素朴に言われているトライ&エラー、PDCAサイクルというようなものです。まずはやってみるのです。そしてうまくいかないから俺はだめだ、ではなく、俺にはどういう形だったらできるのだろうかを考え、工夫し、再挑戦することです。


こう言いながら片付けをさぼってしまうこともやっぱりあります。そしてそうなると記録もつける気にならなくなってくるんですね。堕落でしか無いと思ってしまいますが、これも一つの学びです。「さぼってしまったけれど、しっかり記録につけておこう」と思うことにより、記録にちゃんと汚点を残し、次の日からの戒めにしておきましょう。

自戒を込めて。

どうか明日はほんの少しでも、良い自分になっていますよう。

『 『学道用心集聞解』を読む#5 〜可発菩提心〜』

2020-03-29 07:00:00 | 仏教・禅
今回は「第一可発菩提心」に入っていきますまずはこの「可発菩提心」についての解説がなされます。

以下に全文を示します。

心地観経巻八に発菩提心品あり。文略す取意に謂く、
文殊仏に白して言わく、世尊仏所説の如く三世所有の一切心法皆空。何を説いて発と名づく。
仏文殊に告ぐ。諸々の心法中、諸の邪見を起こす。故に心と心所法と我説いて空と為す。若し空義に執して究竟と為すは、諸法皆無因無果(の)路伽耶陀と何の差別(しゃべつ)か有らん。本(もと)空の薬は有の病を除くが為に、空の薬を服して邪見を除き已(おわ)って自覚悟の心能(よ)く菩提を発(おこ)す。此の覚悟心すなわち菩提心。二相有ること無し。

それ自性清浄の心を菩提心と名づく。六道の群生みな具えたり。ただ発と未発との差別なり。諺に喩を説かば、人の臥したると起きたるとのごとし。未発は臥(ね)てらるなり。発は起るなり。なにほど勝れた器量芸能ある人でも臥(ね)て居た分では一切の事業死人と同じ。もし起きてなれば我に有るほどの智慧才覚少しもつかえず用う。今もこれと同じ。本具の菩提心を発しだにすれば、その功徳の働きにて六度万行の器量芸能にもあらわれ、三明六通の智慧才覚も用いられて一超直入如来地なり。ゆえに華厳には初発心便成正覚と説かれ、涅槃には発心畢竟に無別と説かる。菩提と云うは、阿耨多羅三藐三菩提の略語なり。梵語を翻すれば、無上正偏智とも無上等正覚とも称す。果満如来の徳号なり。



 前半部分に示された心地観経の引用部分を読んでいきます。心地観経の部分は本来は漢文なのですが、ここでは書き下しのみを示すこととします。心地観経はマイナーな経典だと思っていたのですが、ネットで公開されている辞書にもヒットするものでした。さすがにそれを引用するのは忍びないので、『岩波仏教辞典』による解説を紹介します。

「詳しくは〈大乗本生心地観経〉といい、出家して閑静な処に住し、心を観察して仏道を成就すべきことを説く。8巻。この経典は、父母・衆生・国王・三宝の四恩を説くことで有名で有る。中に自性身、受用身(自受用身・他受用身)、変化身の三身を説き、大円鏡智などの四智を説き、無漏法爾種子の説を出し、さらには月輪観や三密も説かれるなどしており、唐の般若訳とされるが、かなり後代に制作されたものと考えられている」

 仏教の様々な用語をテーマにして説かれている経典のようで、特に四恩(父母・衆生・国王・三宝)について説かれているようですが、今回の引用部分で扱われているのは空と発菩提心の関係についてのところです。それではこの心地観経の引用部分、まずは文殊菩薩が仏、つまりお釈迦様に質問をする場面になります。

文殊仏に白して言わく世尊仏所説の如く三世所有の一切心法皆空。何を説いて発と名づく

 ここでは全ての心法、すなわち心(八識)に生起することが全て空である、つまり実体を持たない、他に依った存在であるとされます。それが菩提心を「発(おこ)す」ということはどういうことか。実体が無いのならば何かを発すこともできないのではないかという問いかけです。空については本記事の最後に参考にした辞書の引用を載せてあります。


 続いてお釈迦様の答えです。
諸々の心法中、諸の邪見を起こす。故に心と心所法と我説いて空と為す。

 心法とは心のこと(八識)、そして心と心所法とは心の主体と働きを指す言葉です。心法などの心の概念の説明について、本記事の最後に辞書からの引用部分を挙げておきます。


 「心法中、諸の邪見を起こす」の中で邪見とありますが、邪見として代表的なものは何かを固定的なものとして認識するというものです。様々な説がありますが、因・縁・果の法則を否定する考えであるとしておきます。太田久紀先生の『凡夫のための唯識』には「仏教の基本にある存在の法則は、因果の理法だといわれるが、因果だけでなく、〈縁〉をその法則の中に持ちこみ、〈縁〉の作用を重視するのが大きな特徴である」p329と述べ、因を植物の種子(植物の成長における直接的原因)、縁を周囲の様々な環境(植物の成長における間接的な原因)に分けて論じ、一つの植物が様々な条件に依って成り立っていることに言及します。そして「そうした存在の真相を否定すること、それが〈邪見である〉」p330と述べています。この邪見は唯識などにおいてはより詳細に論じられているところではありますが、ここでは以上の説明で次に入っていきたいと思います。

 お釈迦様の答えの続きです。
若し空義に執して究竟と為すは、諸法皆無因無果(の)路伽耶陀と何の差別(しゃべつ)か有らん。


 これは空の理解が「無い」というものに偏ってしまった場合の邪見であると理解できます。無因無果というのは原因と結果の結びつきも否定しているわけですから、これも因果の法則を無視しているものになります。路伽耶陀(ろかやだ)は元の発音ではローカーヤタであり、意訳としては「順世(間)」とも記されるようです。その教えについて、『岩波仏教辞典』次のような解説がされています。

「実在するのは4元素のみで、不滅の霊魂も来世も神も因果応報の道理も存在せず、感覚のみが唯一確かな認識方法で、推理も宗教聖典もあてにはならない。現世を満喫するのが最高善である」

 同辞典では「唯物論的快楽主義」とも表現されているのですが、刹那的な発想であることがわかります。空であるということは「何にもない」「空っぽ」であるという解釈もされますが、それに対して間違った解釈をしてしまうと、路伽耶陀の唯物論的快楽主義に陥ってしまうというのです。

 そして「差別」とありますが、仏教的には「しゃべつ」と読むことが多く、ここでは区別や相違といった意味になります。「何の差別かあらん」というのはここでは区別はない、一緒であるという意味になってきます。

 お釈迦様の答えで、引用部分の最後です。
本(もと)空の薬は有の病を除くが為に、空の薬を服して邪見を除き已(おわ)って自覚悟の心能(よ)く菩提を発(おこ)す。此の覚悟心すなわち菩提心。二相有ること無し。

 ここでは空が薬であるとされています。何のための薬かというと、「有」の病のためだとされます。自分や周囲の環境が変わらないと考えてしまう、「常」だと考えてしまうことに対して「無常」を説き、自分という魂や人格が確としてあると考えてしまうことに対しては「無我」を説く。仏教の教えは応病与薬だとされますが、まさにこの部分に当てはまる言葉だと言えます。

 この空の薬を飲み、邪見を取り除くと、覚悟の心が菩提を発すとされます。覚悟というのは日常会話では腹をくくるというようなニュアンスで使われますが、ここでは悟りの意味です。そして、菩提も「悟り」で、これが菩提心の省略であったならば「悟りを求める心」です。なんだかわからなくなってきますね。

 しかし、この直後に「此の覚悟心すなわち菩提心。二相有ること無し」と出てきます。結局は同じであるということが言われるのです。僕はこの言葉は「悟りが働き始める」というように受け取っておきたいと思います。自分を含めた世の中に対して固定的なものであるという邪見から離れることによって、自ずから悟りが働き始めるというのがここで示されている教えなのでしょう。

 今回はここまでで、次回は残りの部分についての簡単な解説を行なっていきます。

【心法・心・心所法】
太田久紀先生の『「唯識」の読み方 凡夫が凡夫に呼びかける唯識』によると、次のように出てきます。
「〈心王〉は〈心法〉ともいい、ただ単に〈心〉とだけいうこともある。〈心所有法〉も、略して〈心所法〉〈心所〉などと呼ぶ。〈こころ〉の体用全体を表す場合、二つを合わせて〈心・心所法〉という。」

【空】
空については様々な議論がされていますが、ここでは辞書的な定義を紹介しておきます。
横山紘一先生の『唯識 仏教辞典』においては次のような定義が載せられています(一部抜粋)
・あらゆるものが存在しないこと
・苦聖諦(非常・苦・空・非我の四行相)の一つ。自己のものという見解(我所見)と相違しているありよう、あるいは人・人間という思いがないありよう、あるいは自己がないありようをいう。自己のものという見解(我所見)をなくすために空という行相を修する。

結跏趺坐が組めるまで

2020-03-26 12:08:35 | 仏教・禅

坐禅のイメージ

「坐禅のイメージってどういうものがありますか?」

 そう聞いてみると「痛い」とか「我慢しなきゃいけない」といったものが挙げられることが多いです。警策(きょうさく)という木の棒で叩かれるのが坐禅のお決まりの絵になっているからではないでしょうか。
 それともう一つは、足を組むことが挙げられます。坐禅の正式な坐り方は2種類あると言われています。結跏趺坐と半跏趺坐です。道元禅師の『普勧坐禅儀』には次のように示されています。

 「或いは結跏趺坐(けっかふざ)、或いは半跏趺坐(はんかふざ)。謂(いわ)く、結跏趺坐は先(ま)づ右の足を以って左の䏶(もも)の上に安じ、左の足を右の䏶の上に安ず。半跏趺坐はただ左の足を以て右の䏶を壓すなり」

 簡単に言えば、両足を組む時は右の足を左腿の上、左足を右腿の上に置く。片足を組む時は左足を右の腿の上に置くということです。もっとも、どちらも組む足を反対側にしても構わないという意見もあります。


最初の坐禅
 
 僕が最初に坐禅を習った時は中学生の頃でした。中学・高校は禅宗系の学校で、授業の中で年に4回ほど坐禅の時間があり、また毎週金曜日は朝7時から早朝坐禅の時間がありました。学校に入ると嫌が応でも坐禅を何度も体験することになるため、新入生は全員最初に坐禅の作法について学ぶことになります。

 坐禅のオリエンテーションでは、坐禅堂で先生が丁寧に教えてくれました。坐禅堂への入り方だったり、どこで頭を下げるのかといった説明を受け、とうとう足を組む段になります。先生が最初に見せてくれたのは両足を組む、結跏趺坐。先生が組む結跏趺坐を見て、正直「不可能だ」と思いました。体の固さには自信があったので、そんな芸当はとてもできないと、怖気づいてしまうほどです。
 次にはもう一つ片足を組む半跏趺坐も教わりました。これならかろうじて組めると思い、強引に片足を反対側の腿に乗せました。それもでも相当キツく、坐禅の時間は痛みとの戦いが大半を占めることになりました。


結跏趺坐での坐禅
 高校に入ると本格的な修行を2週間程度経験することにもなりました。そこでももちろん坐禅の時間はたくさんありました。もちろんずっと半跏趺坐で行なっていたのですが、ある時、ある和尚さんにこう言われました。

「途中で崩しても良いから結跏趺坐で坐禅をしてみなさい」。


 普通だったら「嫌だ」と断ってしまいたくなるようなところだったのですが、その和尚さんの凜とした佇まい、落ち着いて、それでいて芯の通った語り口から「よし、やってみようかな」とひとまずやってみることにしました。
 最初は不可能だと思っていた結跏趺坐も、中学の3年間で、右を上にして組んだり左を上にして組んだりを繰り返していたおかげもあり、一応短い時間であれば組めるようになっていました。片足を両手でガッツリともち、反対側の腿へと半ば力づくで載せます。
 この時結局足を組んだまま坐禅を終えたのか、それとも崩して半跏趺坐に戻した状態で坐禅を続けたのかは覚えていません。一回の坐禅が40分もあることや、自分の意志が弱いことを鑑みると、やっぱり崩してしまったのかもしれません。それでも正式な坐禅の時間中に初めて結跏趺坐で坐ることができたことで、なんだか一人前への一歩を踏み出したような気持ちになりました。

永平寺での修行
 大学を卒業してすぐに、福井にある大本山永平寺での修行に入りました。以前は強制されていた結跏趺坐でしたが、僕が修行に行った際には結跏趺坐で坐るかどうかは個々人に委ねられているようでした。

 しかし修行に行く前、師匠に「永平寺の坐禅は結跏趺坐ですか」と聞いたら「当たり前だろ」と言われたこともあり、結跏趺坐で臨もうと意気込み両足を組みました。大学に入ってからほとんど坐禅はしなかったので、久しぶりの結跏趺坐です。

 猛烈な痛みがありました。体感時間では長く組んでいましたが、実際に組んでいられたのは5分とか、10分程度だったのではないでしょうか。どうしてもっと練習したり柔軟体操をしておかなかったのかと、修行前に遊び呆けていた自分を恨みました。

 修行道場に入って1週間は他の修行僧からは隔離された状況での修行生活になり、監督役の先輩僧侶がたまに見にくる程度だったのを良いことに、そっと足を解いていました。情けないことですが。

 それでも、長い時間結跏趺坐を組むことに憧れはあったので、可能な限り結跏趺坐を組んでいました。限界がきたらそっと解く。見つからないように。

結跏趺坐に変化が
 結跏趺坐を一回の坐禅の時間中組み続けられるようになったのはある日の夜の坐禅の時でした。結跏趺坐を組んでいる時、両足がぐあっと下に降りる感覚がありました。うまく言語化ができていないのですが、右腿と左腿が床に近く感じ、骨盤が開く感じとも言い換えることができるかもしれません。

 半跏趺坐の説明のところに「左の足を以て右の腿を壓(お)す」という一句がありましたが、ここの「壓す」を体感できた時だったと思います。この時、足を組んでいても痛みがいつもより感じられず、むしろ穏やかな心持ちになったことを覚えています。

 人間の体の関節、特に股関節などは本当に固くなっている場合もあるようですが、実際には自分で固めてしまっていることが多いようです。坐禅をしていく中でこの無意識的なこわばりが解けた時、腿がしっかりと下に向かって押されるのを受け入れてくれるようになったのでしょう。

 それでも坐禅の時間の中では痛みが強くなってきます。だいたい30分を過ぎると、ピリリと痛みが走ってきます。40分の坐禅の時間を終え、「ふぅ」と足を解き、足のしびれを取っていきます。

 ある日、老師のお話を伺っていた時何かの流れで「結跏趺坐で2時間はもちますね」と言われました。衝撃でした。ようやく結跏趺坐が組めるようになってもまだまだ道が遠いな、と思わされた一言です。

結跏趺坐が絶対ではないけれど
 最近は足の柔軟性の問題や、足の具合が悪い人のために椅子坐禅というものもあります。正座で行う坐禅もあるようですし、ヨガで言われる安楽坐(スッカアーサナ)で坐ることも奨励される場合もあります。事実、自分で坐禅指導を行う時はむしろ結跏趺坐を無理に組まなくとも良い、組まない方が良い場合もあるということもお伝えしています。

 結跏趺坐が坐禅の全てではないでしょうし、結跏趺坐にこだわることを執着だという人も、中にはいるかもしれません。確かに一理ある考えです。しかし、それでも「崩しても良いから結跏趺坐をしてみなさい」と言ってくれた高校時代に出会った和尚さんや、「2時間は組める」と話していただいた老師たちに、憧れに近いものを感じています。それは単に結跏趺坐が組めるからではなく、それを通じで体得ないし表現している人間性のためです。

 自分も結跏趺坐を行じ続けていく中で、この人たちと同じ景色が見えるのかもしれない。そう思い、今はもう少し、結跏趺坐を組むことに執われていたいと思っています。