若僧ひとりごと

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結跏趺坐が組めるまで

2020-03-26 12:08:35 | 仏教・禅

坐禅のイメージ

「坐禅のイメージってどういうものがありますか?」

 そう聞いてみると「痛い」とか「我慢しなきゃいけない」といったものが挙げられることが多いです。警策(きょうさく)という木の棒で叩かれるのが坐禅のお決まりの絵になっているからではないでしょうか。
 それともう一つは、足を組むことが挙げられます。坐禅の正式な坐り方は2種類あると言われています。結跏趺坐と半跏趺坐です。道元禅師の『普勧坐禅儀』には次のように示されています。

 「或いは結跏趺坐(けっかふざ)、或いは半跏趺坐(はんかふざ)。謂(いわ)く、結跏趺坐は先(ま)づ右の足を以って左の䏶(もも)の上に安じ、左の足を右の䏶の上に安ず。半跏趺坐はただ左の足を以て右の䏶を壓すなり」

 簡単に言えば、両足を組む時は右の足を左腿の上、左足を右腿の上に置く。片足を組む時は左足を右の腿の上に置くということです。もっとも、どちらも組む足を反対側にしても構わないという意見もあります。


最初の坐禅
 
 僕が最初に坐禅を習った時は中学生の頃でした。中学・高校は禅宗系の学校で、授業の中で年に4回ほど坐禅の時間があり、また毎週金曜日は朝7時から早朝坐禅の時間がありました。学校に入ると嫌が応でも坐禅を何度も体験することになるため、新入生は全員最初に坐禅の作法について学ぶことになります。

 坐禅のオリエンテーションでは、坐禅堂で先生が丁寧に教えてくれました。坐禅堂への入り方だったり、どこで頭を下げるのかといった説明を受け、とうとう足を組む段になります。先生が最初に見せてくれたのは両足を組む、結跏趺坐。先生が組む結跏趺坐を見て、正直「不可能だ」と思いました。体の固さには自信があったので、そんな芸当はとてもできないと、怖気づいてしまうほどです。
 次にはもう一つ片足を組む半跏趺坐も教わりました。これならかろうじて組めると思い、強引に片足を反対側の腿に乗せました。それもでも相当キツく、坐禅の時間は痛みとの戦いが大半を占めることになりました。


結跏趺坐での坐禅
 高校に入ると本格的な修行を2週間程度経験することにもなりました。そこでももちろん坐禅の時間はたくさんありました。もちろんずっと半跏趺坐で行なっていたのですが、ある時、ある和尚さんにこう言われました。

「途中で崩しても良いから結跏趺坐で坐禅をしてみなさい」。


 普通だったら「嫌だ」と断ってしまいたくなるようなところだったのですが、その和尚さんの凜とした佇まい、落ち着いて、それでいて芯の通った語り口から「よし、やってみようかな」とひとまずやってみることにしました。
 最初は不可能だと思っていた結跏趺坐も、中学の3年間で、右を上にして組んだり左を上にして組んだりを繰り返していたおかげもあり、一応短い時間であれば組めるようになっていました。片足を両手でガッツリともち、反対側の腿へと半ば力づくで載せます。
 この時結局足を組んだまま坐禅を終えたのか、それとも崩して半跏趺坐に戻した状態で坐禅を続けたのかは覚えていません。一回の坐禅が40分もあることや、自分の意志が弱いことを鑑みると、やっぱり崩してしまったのかもしれません。それでも正式な坐禅の時間中に初めて結跏趺坐で坐ることができたことで、なんだか一人前への一歩を踏み出したような気持ちになりました。

永平寺での修行
 大学を卒業してすぐに、福井にある大本山永平寺での修行に入りました。以前は強制されていた結跏趺坐でしたが、僕が修行に行った際には結跏趺坐で坐るかどうかは個々人に委ねられているようでした。

 しかし修行に行く前、師匠に「永平寺の坐禅は結跏趺坐ですか」と聞いたら「当たり前だろ」と言われたこともあり、結跏趺坐で臨もうと意気込み両足を組みました。大学に入ってからほとんど坐禅はしなかったので、久しぶりの結跏趺坐です。

 猛烈な痛みがありました。体感時間では長く組んでいましたが、実際に組んでいられたのは5分とか、10分程度だったのではないでしょうか。どうしてもっと練習したり柔軟体操をしておかなかったのかと、修行前に遊び呆けていた自分を恨みました。

 修行道場に入って1週間は他の修行僧からは隔離された状況での修行生活になり、監督役の先輩僧侶がたまに見にくる程度だったのを良いことに、そっと足を解いていました。情けないことですが。

 それでも、長い時間結跏趺坐を組むことに憧れはあったので、可能な限り結跏趺坐を組んでいました。限界がきたらそっと解く。見つからないように。

結跏趺坐に変化が
 結跏趺坐を一回の坐禅の時間中組み続けられるようになったのはある日の夜の坐禅の時でした。結跏趺坐を組んでいる時、両足がぐあっと下に降りる感覚がありました。うまく言語化ができていないのですが、右腿と左腿が床に近く感じ、骨盤が開く感じとも言い換えることができるかもしれません。

 半跏趺坐の説明のところに「左の足を以て右の腿を壓(お)す」という一句がありましたが、ここの「壓す」を体感できた時だったと思います。この時、足を組んでいても痛みがいつもより感じられず、むしろ穏やかな心持ちになったことを覚えています。

 人間の体の関節、特に股関節などは本当に固くなっている場合もあるようですが、実際には自分で固めてしまっていることが多いようです。坐禅をしていく中でこの無意識的なこわばりが解けた時、腿がしっかりと下に向かって押されるのを受け入れてくれるようになったのでしょう。

 それでも坐禅の時間の中では痛みが強くなってきます。だいたい30分を過ぎると、ピリリと痛みが走ってきます。40分の坐禅の時間を終え、「ふぅ」と足を解き、足のしびれを取っていきます。

 ある日、老師のお話を伺っていた時何かの流れで「結跏趺坐で2時間はもちますね」と言われました。衝撃でした。ようやく結跏趺坐が組めるようになってもまだまだ道が遠いな、と思わされた一言です。

結跏趺坐が絶対ではないけれど
 最近は足の柔軟性の問題や、足の具合が悪い人のために椅子坐禅というものもあります。正座で行う坐禅もあるようですし、ヨガで言われる安楽坐(スッカアーサナ)で坐ることも奨励される場合もあります。事実、自分で坐禅指導を行う時はむしろ結跏趺坐を無理に組まなくとも良い、組まない方が良い場合もあるということもお伝えしています。

 結跏趺坐が坐禅の全てではないでしょうし、結跏趺坐にこだわることを執着だという人も、中にはいるかもしれません。確かに一理ある考えです。しかし、それでも「崩しても良いから結跏趺坐をしてみなさい」と言ってくれた高校時代に出会った和尚さんや、「2時間は組める」と話していただいた老師たちに、憧れに近いものを感じています。それは単に結跏趺坐が組めるからではなく、それを通じで体得ないし表現している人間性のためです。

 自分も結跏趺坐を行じ続けていく中で、この人たちと同じ景色が見えるのかもしれない。そう思い、今はもう少し、結跏趺坐を組むことに執われていたいと思っています。


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