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『 『学道用心集聞解』を読む#5 〜可発菩提心〜』

2020-03-29 07:00:00 | 仏教・禅
今回は「第一可発菩提心」に入っていきますまずはこの「可発菩提心」についての解説がなされます。

以下に全文を示します。

心地観経巻八に発菩提心品あり。文略す取意に謂く、
文殊仏に白して言わく、世尊仏所説の如く三世所有の一切心法皆空。何を説いて発と名づく。
仏文殊に告ぐ。諸々の心法中、諸の邪見を起こす。故に心と心所法と我説いて空と為す。若し空義に執して究竟と為すは、諸法皆無因無果(の)路伽耶陀と何の差別(しゃべつ)か有らん。本(もと)空の薬は有の病を除くが為に、空の薬を服して邪見を除き已(おわ)って自覚悟の心能(よ)く菩提を発(おこ)す。此の覚悟心すなわち菩提心。二相有ること無し。

それ自性清浄の心を菩提心と名づく。六道の群生みな具えたり。ただ発と未発との差別なり。諺に喩を説かば、人の臥したると起きたるとのごとし。未発は臥(ね)てらるなり。発は起るなり。なにほど勝れた器量芸能ある人でも臥(ね)て居た分では一切の事業死人と同じ。もし起きてなれば我に有るほどの智慧才覚少しもつかえず用う。今もこれと同じ。本具の菩提心を発しだにすれば、その功徳の働きにて六度万行の器量芸能にもあらわれ、三明六通の智慧才覚も用いられて一超直入如来地なり。ゆえに華厳には初発心便成正覚と説かれ、涅槃には発心畢竟に無別と説かる。菩提と云うは、阿耨多羅三藐三菩提の略語なり。梵語を翻すれば、無上正偏智とも無上等正覚とも称す。果満如来の徳号なり。



 前半部分に示された心地観経の引用部分を読んでいきます。心地観経の部分は本来は漢文なのですが、ここでは書き下しのみを示すこととします。心地観経はマイナーな経典だと思っていたのですが、ネットで公開されている辞書にもヒットするものでした。さすがにそれを引用するのは忍びないので、『岩波仏教辞典』による解説を紹介します。

「詳しくは〈大乗本生心地観経〉といい、出家して閑静な処に住し、心を観察して仏道を成就すべきことを説く。8巻。この経典は、父母・衆生・国王・三宝の四恩を説くことで有名で有る。中に自性身、受用身(自受用身・他受用身)、変化身の三身を説き、大円鏡智などの四智を説き、無漏法爾種子の説を出し、さらには月輪観や三密も説かれるなどしており、唐の般若訳とされるが、かなり後代に制作されたものと考えられている」

 仏教の様々な用語をテーマにして説かれている経典のようで、特に四恩(父母・衆生・国王・三宝)について説かれているようですが、今回の引用部分で扱われているのは空と発菩提心の関係についてのところです。それではこの心地観経の引用部分、まずは文殊菩薩が仏、つまりお釈迦様に質問をする場面になります。

文殊仏に白して言わく世尊仏所説の如く三世所有の一切心法皆空。何を説いて発と名づく

 ここでは全ての心法、すなわち心(八識)に生起することが全て空である、つまり実体を持たない、他に依った存在であるとされます。それが菩提心を「発(おこ)す」ということはどういうことか。実体が無いのならば何かを発すこともできないのではないかという問いかけです。空については本記事の最後に参考にした辞書の引用を載せてあります。


 続いてお釈迦様の答えです。
諸々の心法中、諸の邪見を起こす。故に心と心所法と我説いて空と為す。

 心法とは心のこと(八識)、そして心と心所法とは心の主体と働きを指す言葉です。心法などの心の概念の説明について、本記事の最後に辞書からの引用部分を挙げておきます。


 「心法中、諸の邪見を起こす」の中で邪見とありますが、邪見として代表的なものは何かを固定的なものとして認識するというものです。様々な説がありますが、因・縁・果の法則を否定する考えであるとしておきます。太田久紀先生の『凡夫のための唯識』には「仏教の基本にある存在の法則は、因果の理法だといわれるが、因果だけでなく、〈縁〉をその法則の中に持ちこみ、〈縁〉の作用を重視するのが大きな特徴である」p329と述べ、因を植物の種子(植物の成長における直接的原因)、縁を周囲の様々な環境(植物の成長における間接的な原因)に分けて論じ、一つの植物が様々な条件に依って成り立っていることに言及します。そして「そうした存在の真相を否定すること、それが〈邪見である〉」p330と述べています。この邪見は唯識などにおいてはより詳細に論じられているところではありますが、ここでは以上の説明で次に入っていきたいと思います。

 お釈迦様の答えの続きです。
若し空義に執して究竟と為すは、諸法皆無因無果(の)路伽耶陀と何の差別(しゃべつ)か有らん。


 これは空の理解が「無い」というものに偏ってしまった場合の邪見であると理解できます。無因無果というのは原因と結果の結びつきも否定しているわけですから、これも因果の法則を無視しているものになります。路伽耶陀(ろかやだ)は元の発音ではローカーヤタであり、意訳としては「順世(間)」とも記されるようです。その教えについて、『岩波仏教辞典』次のような解説がされています。

「実在するのは4元素のみで、不滅の霊魂も来世も神も因果応報の道理も存在せず、感覚のみが唯一確かな認識方法で、推理も宗教聖典もあてにはならない。現世を満喫するのが最高善である」

 同辞典では「唯物論的快楽主義」とも表現されているのですが、刹那的な発想であることがわかります。空であるということは「何にもない」「空っぽ」であるという解釈もされますが、それに対して間違った解釈をしてしまうと、路伽耶陀の唯物論的快楽主義に陥ってしまうというのです。

 そして「差別」とありますが、仏教的には「しゃべつ」と読むことが多く、ここでは区別や相違といった意味になります。「何の差別かあらん」というのはここでは区別はない、一緒であるという意味になってきます。

 お釈迦様の答えで、引用部分の最後です。
本(もと)空の薬は有の病を除くが為に、空の薬を服して邪見を除き已(おわ)って自覚悟の心能(よ)く菩提を発(おこ)す。此の覚悟心すなわち菩提心。二相有ること無し。

 ここでは空が薬であるとされています。何のための薬かというと、「有」の病のためだとされます。自分や周囲の環境が変わらないと考えてしまう、「常」だと考えてしまうことに対して「無常」を説き、自分という魂や人格が確としてあると考えてしまうことに対しては「無我」を説く。仏教の教えは応病与薬だとされますが、まさにこの部分に当てはまる言葉だと言えます。

 この空の薬を飲み、邪見を取り除くと、覚悟の心が菩提を発すとされます。覚悟というのは日常会話では腹をくくるというようなニュアンスで使われますが、ここでは悟りの意味です。そして、菩提も「悟り」で、これが菩提心の省略であったならば「悟りを求める心」です。なんだかわからなくなってきますね。

 しかし、この直後に「此の覚悟心すなわち菩提心。二相有ること無し」と出てきます。結局は同じであるということが言われるのです。僕はこの言葉は「悟りが働き始める」というように受け取っておきたいと思います。自分を含めた世の中に対して固定的なものであるという邪見から離れることによって、自ずから悟りが働き始めるというのがここで示されている教えなのでしょう。

 今回はここまでで、次回は残りの部分についての簡単な解説を行なっていきます。

【心法・心・心所法】
太田久紀先生の『「唯識」の読み方 凡夫が凡夫に呼びかける唯識』によると、次のように出てきます。
「〈心王〉は〈心法〉ともいい、ただ単に〈心〉とだけいうこともある。〈心所有法〉も、略して〈心所法〉〈心所〉などと呼ぶ。〈こころ〉の体用全体を表す場合、二つを合わせて〈心・心所法〉という。」

【空】
空については様々な議論がされていますが、ここでは辞書的な定義を紹介しておきます。
横山紘一先生の『唯識 仏教辞典』においては次のような定義が載せられています(一部抜粋)
・あらゆるものが存在しないこと
・苦聖諦(非常・苦・空・非我の四行相)の一つ。自己のものという見解(我所見)と相違しているありよう、あるいは人・人間という思いがないありよう、あるいは自己がないありようをいう。自己のものという見解(我所見)をなくすために空という行相を修する。


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