若僧ひとりごと

禅やら読書やら研究やら

『禅の教室』から学ぶ半眼

2016-03-31 11:55:45 | 日記
『禅の教室』を読みました。読後感を簡潔にまとめると、仏教がリアルな文脈に落とし込められた、と言えば良いのでしょうか。

この本は禅僧の藤田一照さんと詩人の伊藤比呂美さんの対話が形になった新書です。
藤田さんが何気なく使う仏教語(自分も読み流してしまう言葉)に対して敏感に「それは何?」と返します。
藤田一照さんはそれに対して丁寧に日常語に変換して応えてくれる。
そんな応酬が始終続いていて、読んでいる人間にとって高踏な印象を持たせる仏教の言葉が変わっていきます。

内容として一番興味深かったのは、半眼についてです。
坐禅中は目を半眼にしろと言われる。目を閉じるのでもなく、見開くのでもない。

坐禅会に来てくれた友人から「目を閉じたほうがよかった」と言われたが、半眼の意味を自分自身が説明できていませんでした。お恥ずかしいです…

伊藤比呂美さんはこの半眼と乗馬における眼の状態をつなげて言葉に表してくれました。
人間の集中状態こそが半眼の状態なのだと。

半眼は坐禅会で友人に指摘されるまえから自分の中の疑問の一つとしてありました。

「寝てはいけない」という人がいる。
ではなぜ目を見開かないのか。

「姿勢づくりの結果そうなる」という人もいる。これは藤田一照さんもおっしゃっている。状態のリラックスの結果としての半眼です。
けれど、これも結局目を閉じても構わないのではないか、という疑問に対しては応えてくれていません。

人間の集中状態の発露としての半眼。これがこの本から得ることができた概念です。
もちろん自分の坐禅中にも無意識的にやっていたのだが、それがようやく言語化できたという思いがします。

読書をする際も、集中しているのはこの半眼、他の所作を行っている時でも、この半眼が最も神経を研ぎ澄ました状態になっているのですね。


半眼と薄ら目の違いについても思い至ることができました。
薄ら目は目を閉じた状態から薄ら目を開けた状態である一方、半眼は開けた状態から絞っていく感覚があります。
半眼は、一点を力むことなく(もしくは絶妙な力みで)凝視することだとも言えますね。

向こうから来る光と、自分の見るという行為が釣り合っているようなポイント、それを体現したのが半眼だ!
…というのは言い過ぎでしょうか。


この本を読んで感じた事として、もっと体を動かさなくては…ということですね。
最近自分の体と対話出来ていない気がします。

火葬について〜『メメント・モリ』から考える

2016-03-15 08:43:29 | 日記
『メメントモリ』という藤原新也さんの写真集を読んだ。これは特に最初の方が衝撃的だった。
野焼きの様子が、その遺体も含めて写真に収められている。

普通日本で火葬というと、火葬場があり棺をそこの金属製の扉をあけた小部屋に収める。遺体の焼却はその小部屋の中で行われる。遺体が焼けていく様子は隠され、人の目に触れることはない。火葬中は他の部屋に待機して1時間程度で係りの人間が呼びに来る。扉を開けると、骨の原型はなく、所々に大きな白い塊が存在するだけになる。アバラ骨とか頭蓋骨が見えることはない。火葬前の肉を有した遺体から、原型をとどめない骨へ。ある意味ではショックで、またある意味ではあっけない死者の変質がそこでなされる。

でも、元々の火葬はそんな風に行われるものではない。この『メメント・モリ』が映し出している火葬の光景は、もっともっと、生々しいものだった。
青空のした、焼かれる人を見守る人々がいる。それは家族だろうか。友人だろうか。
これはもちろん日本ではあり得ない。
ゆっくり焼かれていくその様子を、どんな気持ちで見守っているのだろうか。

「葬式は自分の死を学ぶところだ」という人類学者の言葉を思い出す。
この人たちは、こうして人間が最後どうなるのかを学んでいるんだろう。


理科室の標本のような白骨遺体も映し出される。
それは浜辺に横たわっている。
それは自分が想像していたよりも、ずっとずっと「キレイ」なものだった。

散骨というのが流行っているが、そんなことしなくても、自然とこの身は大地に、大気に、大洋に帰っていく。
生にも死にも、そんな豊かな、エコロジカルな考えを昔の日本人も持っていたのだろう。

「メメント・モリ」ー「死を想う」というのは、ただ単に人が死ぬというポイントだけを言うのではない。
人が死んだ後、その人はどうなるのか。
霊や魂というのは見えないが、遺体は見える。
その遺体はどうなっていくのか。

近代的な火葬の導入によってわからなくなったのが、この部分だろう。
遺体は骨になる。という単純な話ではない。
どうやって骨になっていくのか。そこが問題だ。

扉の中に閉まって、見えない形で火葬していくことは、遺体を肉体から骨にコンバートするだけになっている。
死を想うというのはどういうことなのか。
この写真に映されている人達から学ぶに、それは遺体と向き合い、死後も続く死の過程と向き合うことなのだろう。