若僧ひとりごと

禅やら読書やら研究やら

合掌で宇宙とつながる?

2019-05-02 20:43:33 | 読書感想・書評
『身体知 身体が教えてくれること』という本を最近読んだ。これは神戸女子大学教授の内田樹と疫学者の三砂ちづるの対談本だ。内田樹はレヴィナスという現象学というジャンルに分類される哲学者の研究が専門だが、合気道7段という武道家の顔も持っている。三砂ちづる津田塾大学国際関係学科教授で、女性にとっての出産の重要性を説いている。著書に『オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す』などがある。

この本を読むきっかけになったのはある女性との会話だ。ある勉強会の後の懇親会で話した女性となぜか紐トレの話になった。これは体の特定の部分に紐を軽く巻いておくだけで体が楽に使えるというものなのだが、その話題の延長でこの本を教えてもらった。着物などが身体にどのような影響を与えてくれるのかについてなどが書かれていた、ということを教えてもらった。本の名前をメモして、家に帰ってすぐamazonでポチった。

着物に関する記述ももちろん面白かったのだが、それよりも興味をそそられたのが合掌についてだった。合掌とは文字通り掌を合わせることだが、これが宇宙とつながる感覚を引き出すというのだ。内田はこの感覚を宇宙感覚と呼んでいる。この部分について簡単に引用を交えながら説明していきたい。

まず宇宙感覚とは「自分が生まれる前も、自分が死んだあとも含むような、時空をつらぬく流れがあって、自分はその『広大なるもの』の一つの構成要素であって、自分の前にもあとにも「何か」があって、自分もそれにつながっているという感覚」(p37)だそうだ。

単純にスピリチュアルなものではなく、また空間に限定されたものでもない。結局堅い言葉になってしまうが、時間も空間も超えたものであると実感できるような感覚がこの宇宙感覚だと言って良いだろう。この宇宙感覚と似たような意味で「霊的な感覚」という表現もしている。その箇所では「正しい時間に、正しい場所にいるということ、いるべき場所に、いるべき時に、いるべき人とともにいる、ということを実感するということ」と内田は言う。

この感覚を合掌している時に感じるのだという。その箇所では次のように述べられている。
「武道の前にまず合掌しますが、合掌するのは、宇宙を貫くその一筋の流れと自分の体軸を合わせる、ある種の「アラインメント」なんじゃないかとぼくは思っているんです。」
「宇宙的な無限の時間と、自分が生きているごく限定的な時間が「つながる」感じ、それがカチリと合ったときに、たぶん「絶対的な自己肯定」が到来するんだと思うんです。」
まず上の方の引用部分だが、このアライメントというのは単純に整えるという意味で使っていると考えられる。下の文章では一人の人間の生という限定的な時間が無限の時間につながるのだという。ここでは自分が生きている時間だと言われているが、合掌をしているその瞬間が無限の時間につながると考える方が納得がいく。合掌をしたその瞬間に自分がある種の広さを獲得する。無心と近い経験なのだろうか。

これによって「絶対的な自己肯定」が得られる。これは他者より優れた能力を持っているとか、特定の資格やら見栄えの良い容姿を持っているということとは無関係なのだろう。私自身はこういう体験をしていないので断定的なことを言えないが、これはおそらく人間の思考、価値観からの解放も示しているはずだ。思考のレベルは常に何かしらの評価に基づいた判断を行うが、身体知のレベルではそうした他者との境界を前提とした意識は薄れていく。自他の境界がどこまでも平らかなものになっていく経験がこの「絶対的な自己肯定」なのではないか。つまり自己も肯定も問題になっていない状態、それがこの「絶対的な自己肯定」なのだろう。

ではどうやったらこの身体知、合掌による「絶対的な自己肯定」の感覚を養うことができるのだろうか。
内田は「アラインメントを整えるには、鉛直方向のものが身体のそばにあると良い」と述べる。ペンダントや十字架などのように「重力の方向にまっすぐ伸びるているものがあると、それを基準にして体軸が調整される」という。

着物にも同等の効果があるそうだ。着物の裾や袖は下の方向に向かっている。三砂は着物を着ることによって意識が後ろの方にいくことの重要性を本書の中で指摘する。
もちろん時間に余裕があれば武道をやるのも良いのだろうが、武道も身体知の伝統を失ってきていると内田は述べている。

それには二つの契機があった。
一、明治維新によって武士階級が消失。西南戦争以降復活した武道は単なる殺人技術に矮小化されたものだった。殺人技術、格闘術となった武道は昭和には軍国主義イデオロギーと親和することになる。
二、GHQによって武道は全面禁止される。これに対して武道関係者は武道が殺傷技術、宗教、思想に無関係なものであると主張した。そして筋肉や骨格を鍛えるためのエクササイズであり、勝敗を競うゲームであることを強調した。


これによって武道はスポーツとしての色彩を濃くした状態で現在まで続いている。もっともこれは必ずしも適当ではないだろう。伝統的な道場では以前のように身体知を重んじている師範は残っている可能性はあるだろうし、そもそも明治以前の形、戦前の形を明確に知ることは叶わないからだ。

それでも武道がスポーツの延長線上の価値観の下で語られることは非常に多いし、身体知を強調するのはマイノリティーだろう。
巷で流行っているヨガ(正式にはヨーガ)も西洋の価値観と混ざってテクニカルでポーズを取れるかどうかの競技のようなものになっているところもある。

そういった中でも、伝統的な価値観を含めたヨーガを伝えようとしている人もいるし、それは武道や他の道についても同じだと思う。
結局大事なのは良き師に出会うことなのかもしれない。何をもって良き師とするのかを話し始めるとまた堂々巡りになってしまう。
けれど本書で語られているような身体知が良き師と出会うための一つの指標となっていくのではないか。身体知によって深められた体を体現しているような人との出会いを大切にしていきたい。そうやって自分の身体知を磨き続けていく。いつか合掌をした時に「つながった!」と感じられる日がくるかもしれない。

夢をかなえるゾウ

2019-04-30 16:35:49 | 読書感想・書評
『夢をかなえるゾウ』を読んだ。
あちらこちらで宣伝されている本で興味を持っていたのだが、いちいち買うのもためらっていた。ちょうど旅行中に読む本が無くなってkindleの読み放題の中で面白そうなものを探していたところ、この本を見つけたので読むことにした。
著者の水野敬也は1976年、愛知県生まれ。愛知の名門東海中学・高校を卒業して、出身大学は慶應義塾だ。この人の本は初めて読んだつもりだったが、『人生はニャンとかなる!』の著者でもあったらしい。というわけで2冊目となる。そして『温厚な上司の怒らせ方』にも関わっているらしい。意外なところでお世話になっていた。

この本の流れについて簡単に書いておく。なおネタバレもあるのでご注意。

「自分を変えたい」と悩む主人公は突如現れたガネーシャ(像の姿をしたインドの神)から様々なお題を出されていく。なかなかに無茶振りが多いお題を主人公は渋々ながらこなしていく。靴を磨いたり、他の人のことを褒めたり、手伝ったり…。いつもは変われていなかったのに、今回は変われているという実感も得ていき、充実した日々を送り始める。けれどガネーシャから衝撃の事実を聞かされる。実はこのガネーシャが主人公にやれと言っていたことは、その多くがすでに主人公が持っている本の中に書いてあることだった。ガネーシャはこのままでは変われない、と伝え、最後のお題を出すことになる。


この本の中では成功する上では他人のために何かをすることが大切であると繰り返し強調される。気に入ったのはここだ。

「成功したいんやったら絶対誰かの助けもらわんと無理やねん。そのこと分かってたら、人のええところ見つけてホメるなんちゅうのは、もう、なんや、大事とかそういうレベル通り越して、呼吸や。呼吸レベルでやれや!」

成功するために人をホメるということはこの手の本をあまり読まない人間にとっては意外なものなのかもしれない。人間は本来利他的な動物だとも言われる。自分が孤独感を感じている時などは自分が何かをされるよりもむしろ自分が何かをする方が良いということを聞いたことがある。

こんな話もある。ある高齢の女性が施設に入り、手取り足取り身の回りの世話をしてもらうことになった。彼女はその都度「ありがとう」と伝えていた。けれど元気がなくなっていったそうだ。そして彼女は理由を尋ねられると、「私はありがとうといってもらえるようなことをしたい」と答えたそうだ。


話を元に戻す。

もっとも、成功するために人のことをホメる、というのは違和感がある。人のことをホメるということも自分の成功が頭の中にちらついていたらうまくいかないだろう。成功につながるような「ホメ」は、成功というノイズを捨てて相手のことをホメなくては成立しない。おそらくそうした矛盾した構造を持っているのは確かだ。


そもそも成功するとはどういうことなのだろうか。経済的に裕福であること、社会的に良い地位につくこと、良い配偶者と結ばれること、子宝に恵まれること、様々なものが「成功」として語られる。ある人にとっての成功は他の人にとっての成功ではなくなるかもしれない。



話がラストに向かうと課題の質が変わる。自分が本当にやりたいこと、やりたかったことをするというのが課題になるのだ。
ガネーシャはこんな励ましの言葉もかける。

「自分には何か才能がある、自分にしかできない仕事がある、そのことに関してはあきらめたらあかん。見つかるまでそれを探し続けなあかん。自分自身に対してはあきらめたらあかん」

自分のやりたいことを見つけたり、やるべきことを見つけることなのだろう。やりたいことはいくらでも見つかる。けれどやるべきことというのを見つけるのは難しいのかもしれない。けれどそれを見つけていくこと、見つかる可能性を諦めてはいけない。

最終盤に至ってはこんなことも言う。
「成功だけが人生やないし、理想の自分あきらめるのも人生やない。ぎょうさん笑うて、バカみたいに泣いて、死ぬほど幸福な日も、笑えるくらい不幸な日も、世界を閉じたくなるようなつらい日も、涙が出るような美しい景色も、全部全部、自分らが味わえるために、この世界創ったんやからな」

ここに至ってはもはや成功は絶対の価値を持っていない。成功することだけが人生ではない。けれども自分の理想を追うことを諦めてはいけない。ここでは問題が「成功」から「生きがい」に変わっているということができるのではないか。経済的な成功や社会的地位や世間的認知度などが成功の尺度として捉えられがちだが、そこを目指しても仕方がない。実際にその尺度で振り切れるところまで行ける人間はごくごく少数だろう。けれど、そこを目指すプロセスの中には誰もが入れる。

少し文脈を無視するが、この文章の「自分らが味わ」うというところもとても大事だと思う。僕らは理想の自分を他の人のサクセスストーリーで埋めてしまいがちになる。学校教育、偏差値至上主義の教育などへの反発が結局は他の価値観に擦り寄ることになってしまうことがあるのだ。他人のレールから他人のレールに飛び移っただけ、と表現することもできるだろう。
自己啓発本やネットニュースが発達している現在ではなおさらこの傾向は強まっているのかもしれない。けれど自分の理想は自分の中に求めなくてはいけない。自分の悔しさ、もどかしさ、後悔、こうであったら良いのにという葛藤などのネガティブな感情にこそ自分らしさのヒントがある。それを単純に覆い隠してはいけない。

今の世の中では「生きがい」が問題になっている。生きがいを失った社会というのは何かしらの形で均質化してしまったのだろう。このような世の中だからこそ、自分が本当に好きなことを見つけていかなくてはならない。
ただ、そうした理想の自分を追い求めることは難しい。理想がはっきり分かっていれば苦労はしない。やりたかったことがあった人はまだ良いが、それすらもわからない人にとってはこの本は救いになっていない。そうした人はまず自分の理想は何かという問いに対してもがかなくてはならないのだろう。それも含めて人生なのだろうが、充実した生というのは難しいものだと改めて考えさせられた。