若僧ひとりごと

禅やら読書やら研究やら

文章を書くって難しい

2019-01-09 00:15:46 | 日記
 今年はマメにブログを更新しよう!と思っていたのだが、結局なかなか書けていない。メモとかはちょろちょろと書いているのだが、公開するまでは至っていない。風呂に入っている時に何でだろうか、と考えてみた。そうしてみると、自分は何か良いことを書こうとしているということに気づいた。承認欲求というか、他の人から悪く思われたくないとか、変な文章を書いて頭が悪いと思われたくないといった気持ちが自分の中にあるみたいだ。

 そういえば大学の頃、mixiの日記で結構頭の良さがわかるといったことを話していた友人がいた。そのことを聞いた時はドキッとしたものだ。自分の文章はどう思われているんだろう、という不安感に襲われた。きっとそういう経験が積もり積もって自分の文章へのハードルが高く設定されてしまったのだろう。マーフィー重松という人の著作の中にも高学歴な大学に通っている学生は頭の良いことを言わなくてはいけない、というプレッシャーにさらされているということが報告されていた。自分も似たような状況なのかもしれない。

 他者からどう見られるのだろうか、ということを意識しすぎると、自分のアウトプットは進まない。卒論や修論も同じような構造があるように思われる。学生時代の友人で酒を飲むと論文が書けるという特殊体質の人間がいたが、これは「良い文章を書きたい」という思いを抑制して、自分が思ったままにひとまず書き続けていくことを可能にしたのではないか。

 自分は酒を飲むと文章を書くなんてできない体質なので、シラフでなんとかしなくてはならない。その上で大事なのは、まずは自分に正直になることだと思う。自分がどう感じたか、どのように考えたのかということをとりあえずそのまま書いてみる。人の目を気にするのはその後だ。そうしていかなくては文章は書けない。

 そもそも頭の良い文章とかはなんだろう。ベストセラーになっている文章とか、バズっているネットの記事とかあるが、基本的に書き方はバラバラだ。多少はルールがあるにしても、明確なものなんてない。しかもどんな文章を良い文章だと判断するのかは人による。自分が書いた文章に対してどういうジャッジが下されているのかなんて自分にはわかる由もない。だったら思ったものをとりあえず書いていこう。重要な基準はただ、自分が納得しているかどうかだ。もっとも納得というと、結局他の人からどう思われるか、ということも入ってきてしまう恐れはある。ここでの納得というのは、自分に正直になれているかどうか、という意味での納得だ。本当に自分が思ったことを表現できているか、ということだ。

 人からの評価、批評を恐れず、自分が思ったことを正直に書き、納得していく。そんな心持ちでこのブログを更新していきたい。

「だらだらしてます」への応答

2018-12-16 10:05:18 | 日記
休日は何しているの?
「だらだらしてる」

こう言われたとき、正直困ってしまう。
「良いよね、だらだらするの」と返すことがあれば、「動画見たりとか?」と聞いてみることもある。

聞いてみたところで「いや、だらだらしてる」と返されることもある。
昨日はそうだった。

そうか、とそれ以上何も聞くことができなかった。
これで良かったんだろうか。


だらだらしているっていうのは寝ることなのか、ぼーっと物思いに耽ることなのか、写真集でも見ているのか、SNSを見ているのか。考えてみれば、「だらだらしている」っていうことが何か一つのことに結びつくことはない。
だらだらしているっていうのは、だらだらしているように感じているだけであって、だらだらするという行為は存在していないんじゃないか。

つまり、だらだらしているって返されることは、何も答えられていないのと同じだ。
その人が何をやっているのか、という事実に対して関心を寄せていくくのがコミュニケーションの第一歩なのかもしれない。

人と話しているときは、話していること、話を続けることに気が行ってしまい、本当に目の前の人に気持ちを向けられていないような感覚があることもある。
無理に会話を続けることに意識を持っていくのではなく、その人自身にフォーカスを当て続けていくあり方をキープするのもまた大事なことだろう。
なんとなくわかった気にならず、「それってどういうこと?」「あなたはどういう人?」という疑問・関心を、少なくとも頭の中にはしつこいくらいに持っていかなくてはならないんだろう。


自立死

2017-10-04 21:57:49 | 日記
矢部武さんの本を読んだ。タイトルは『ひとりで死んでも孤独じゃない: 「自立死」先進国アメリカ 』(新潮新書)だ。

この本は自立を重んじるアメリカにおいて高齢者がどのように自らの老後を営んでいるのか、そして社会から孤立することなくどうやって死を迎えていくのかについて書かれている。
アメリカの価値観で面白いのは、家族はそれぞれが自立した人間だ、ということだ。アメリカはパートナー文化で二人で一つという価値観があるという記事をどこかで見たが、子供についてはむしろ親から離れて暮らすように教育する。それが自立という価値観に結びついている。子供は自立するので、必ずしも親の面倒をみる必要がない。本書の中にも度々登場するが、一緒に暮らしていると嫌になる時があるという。これは真実なのだろう。上野千鶴子が『おひとりさまの最期』の中で言及しているのが、高齢者の中で幸せそうなのは一人暮らしの人であって、子供世帯と同居しているような人は不満を漏らすような傾向にあるそうだ。アメリカでは一方で別居している子供世帯と会うことは日本以上に頻繁だという。お互いが自立した存在であって、その中で関わっていくというのがそれぞれの安定して安心した暮らしに必要なのだろう。

この本の最後の方で印象的な箇所がある。それはサンフランシスコでソーシャルワーカーをしているという女性の言葉だ。
「(日本は)スーパーやデパートなどで店員がなんどもお辞儀したりして、すごく親切なことだ」
「その一方、道で人とすれ違っても目をあわせなかったり、電車の中で足を踏んでも何も言わなかったりする。このギャップはなんだろうと思います。仕事の制服や帽子をとると、なぜあんなに無表情でアンフレンドリーになってしまうのか。日本へ行ったことのある外国人はよく、日本人はとてもフレンドリーでいろいろと助けてもらったという話をする。でも日本人同士ではそうならない。何も欧米人のように振る舞う必要はないが、知らない人に対してもっと気軽に話をしてもいいのではないでしょうか」p164

役割がある人間はそれに期待する行為をするが、役割の取れたオフの状態では、日本人は何も役割が課せられていないと感じ、このような傾向に繋がっているのだろう。以前は地域住民という役割があったのだろうが、今はそれが役割として認識されることは希薄なのだろう。

著者が他に紹介しているものとして興味深いのは、どれだけのコミュニティに所属しているか、と言うものだ。
OECDの調査で、教育、文化、人権、スポーツ、ボランティアなどの社交団体のうち、平均して幾つの団体に所属しているのか、という調査でアメリカは3.3団体、それに対して日本は0.8団体だったそうだ。
もちろんこのコミュニティという概念が日本でどう捕らえられているかは難しい。習い事はしているが、その集団がコミュニティかはわからない。ボランティアには行っているがコミュニティかと言われると断言できない、といったケースもあるだろう。
しかしここで考えなくてはならないのが、自分が所属するコミュニティが仕事しかない、もしくは家族しかないと考える人が多いということだ。
自分自身もそうだが、地域の何かしらの集会に集まるようなことをしていないと自分が所属している仕事のコミュニティからは定年になり、いつかは抜け出さなくてはならいない。
家族もまたどちらかが先立つ可能性、離婚の可能性、また子の巣立ちなど、決して固定的なコミュニティではない。むしろ流動的なものだとも言える。離婚については昨今ますます増えてきているようだから、家庭が頑健なコミュニティとして成り立つのはこれから一層難しくなるだろう。

『勝者の呼吸法』

2017-10-04 21:42:00 | 日記
久しぶりの投稿です。
『勝者の呼吸法 横隔膜の使い方をスーパー・アスリートと赤ちゃんに学ぼう!』を読みました。
ワニブックスの新書で250ページ足らずで割とすぐに読むことができます。

さて、私がこの本から得られたことは次のことになります。
①呼吸における無駄な筋肉の使用があり、それは男女で異なる。
②パラドックス呼吸という吸う吐くに対応しないような胸の緊張は呼吸を妨げる。


呼吸がうまくできないということは、横隔膜がうまく使えていないということです。男性の場合は胸を張るという動作が固定化されて、胸が張りっぱなしになることがあるようです。そうすると息を吐くときに横隔膜がうまく使えず、結果として息が吐ききれません。よく「胸を張れ!」と言われますが、文字通りに胸をぐっと貼って鳩胸のようにし続けることは実は呼吸にとっては妨げになっているようです。
女性の場合はまた事情が違います。首や肩の筋肉には副呼吸筋と言われる部位があるそうです。本来は補助的な位置づけのこの筋肉を使いすぎることで横隔膜が使えないばかりか、肩や首が凝る原因にもなるそうです。

あくまで傾向なので、男性でも後者のように首や肩が凝る場合もあるでしょうし、女性でも胸を固定させているような人もいるのだと思います。

私の場合は肋骨が呼吸のときに降りてきていなかったり、肩が凝りがちになっているのでこの上記のものは両方該当しているかもしれません。特に息を吐くときはあまり肋骨が降りている感じがしていなかったのです。デスクワークなどをしているときは胸が固定されているような感覚を持っていました。普段は「姿勢良いね」と言われる方なのですが、呼吸の為の姿勢としては窮屈だったのかもしれません。

パラドックス呼吸というのは上に書いた通り、吸うときに膨らむはずの胸や腹が膨らまない、また息を吐くとに縮んでいくはずの胸や腹が縮まないような呼吸を指します。腹式呼吸というと腹だけ膨らませるものという印象がありますが、そうではなくて一緒に胸も膨らまないといけないんですね。当たりまえといえば当たり前なんですが、変にこだわりを持ってしまうと本来うまく行っているはずの呼吸が窮屈なものになっていってしまいます。

具体的に何ページだったかが今はわからないのですが、腰痛ついての指摘もなされていました。首や肩の筋肉は副呼吸筋と言われていますが、腰も同じような働きをしていて、吸ったときに腰が反るようにして呼吸を補助するような癖がついている人も少なくないかもしれません。そうすると腰に余計な負担ばかりがかかってしまうので、呼吸の際はなるべくそうしたプラスαの動きは入れずに横隔膜を十分に使ってできるようにした方が良さそうです。

この本を読んでからまだ数日ですが、少し腰が軽くなったように感じます。何より普段の呼吸が深くなったようにも感じますし、横隔膜がしっかり動いているのを感じられるようになりました。この勢いで冷え性とかも治って欲しいものですが・・・それは望みすぎかもしれません。

『禅の教室』から学ぶ半眼

2016-03-31 11:55:45 | 日記
『禅の教室』を読みました。読後感を簡潔にまとめると、仏教がリアルな文脈に落とし込められた、と言えば良いのでしょうか。

この本は禅僧の藤田一照さんと詩人の伊藤比呂美さんの対話が形になった新書です。
藤田さんが何気なく使う仏教語(自分も読み流してしまう言葉)に対して敏感に「それは何?」と返します。
藤田一照さんはそれに対して丁寧に日常語に変換して応えてくれる。
そんな応酬が始終続いていて、読んでいる人間にとって高踏な印象を持たせる仏教の言葉が変わっていきます。

内容として一番興味深かったのは、半眼についてです。
坐禅中は目を半眼にしろと言われる。目を閉じるのでもなく、見開くのでもない。

坐禅会に来てくれた友人から「目を閉じたほうがよかった」と言われたが、半眼の意味を自分自身が説明できていませんでした。お恥ずかしいです…

伊藤比呂美さんはこの半眼と乗馬における眼の状態をつなげて言葉に表してくれました。
人間の集中状態こそが半眼の状態なのだと。

半眼は坐禅会で友人に指摘されるまえから自分の中の疑問の一つとしてありました。

「寝てはいけない」という人がいる。
ではなぜ目を見開かないのか。

「姿勢づくりの結果そうなる」という人もいる。これは藤田一照さんもおっしゃっている。状態のリラックスの結果としての半眼です。
けれど、これも結局目を閉じても構わないのではないか、という疑問に対しては応えてくれていません。

人間の集中状態の発露としての半眼。これがこの本から得ることができた概念です。
もちろん自分の坐禅中にも無意識的にやっていたのだが、それがようやく言語化できたという思いがします。

読書をする際も、集中しているのはこの半眼、他の所作を行っている時でも、この半眼が最も神経を研ぎ澄ました状態になっているのですね。


半眼と薄ら目の違いについても思い至ることができました。
薄ら目は目を閉じた状態から薄ら目を開けた状態である一方、半眼は開けた状態から絞っていく感覚があります。
半眼は、一点を力むことなく(もしくは絶妙な力みで)凝視することだとも言えますね。

向こうから来る光と、自分の見るという行為が釣り合っているようなポイント、それを体現したのが半眼だ!
…というのは言い過ぎでしょうか。


この本を読んで感じた事として、もっと体を動かさなくては…ということですね。
最近自分の体と対話出来ていない気がします。