若僧ひとりごと

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『学道用心集聞解』を読む#1 〜序文〜

2020-03-12 16:34:18 | 仏教・禅
道元禅師が書かれたものに『学道用心集』というテキストがあります。これは禅師が35歳(数え年)の時に書かれたものです。全部で十則に分かれていて、それは以下のものになっています。
第一則 菩提心を発(おこ)すべき事
第二則 正法を見聞して必ず修習すべき事
第三則 仏道は必ず行に依りて証入すべき事
第四則 有所得心を用って仏法を修すべからざる事
第五則 参禅学道は正師を求むべき事
第六則 参禅に知るべき事
第七則 仏法を修行して出離を欣求する人は須く参禅すべき事
第八則 禅僧行履の事
第九則 道に向かって修行すべき事
第十則 直下承当の事
これらは本来は漢文の形で書いてあるので、送り仮名は本来ありません。

ちなみに第一則の「菩提心を発すべき事」は元の形では「可発菩提心事」となっていて、福井にある曹洞宗の大本山永平寺では「発菩提心」として読誦されています。意味が分からなくとも読んでいるだけで心が凛としていくような心持ちになる、修行中からとても好きな一節でした。改めて読んでみると音の調子だけではなく、内容としても素晴らしいことが言われていることに気づき、深く学んでみたいと思うようになりました。

「只管打坐」という言葉で矮小化されてしまいがちな曹洞禅の修行のあり方をこのテキストから見つめなおしてみたいと昨年から強く考えていたところ、ようやく読み進めていくことができるようになりました。ただ、テキストだけを読むのも自分の心もとない知識と経験に基づくのではあまりにも土台が弱いと感じ、注釈書を読んでいくこととしました。


これから読んでいくのは『学道用心集聞解』という、江戸時代の曹洞宗の学僧である面山瑞方により書かれたものです。面山さんは当時乱れていた宗風を再び道元禅師の流れに戻したことで有名な方です。他にも『正法眼蔵』や『参同契』『宝鏡三昧』などの注釈書を書いています。後者二つは接する機会があったのですが、これは両方全て漢文で書かれており、なかなか難解です。注釈書の注釈書が欲しくなります。ただ、これらの本を沢木興道老師も勉強されていたということで、読んでみる価値のあることだと思います。今後余裕があったら取り組みたいと思います。いつになるかはわかりませんが…。もちろん面山さんの著作はこれらだけでなく、他にも沢山の著書を残されています。

さて、『学道用心集』に対する注釈書である『学道用心集聞解』は出だしの部分は漢文ではありますが、それ以降はカナ混じりで書いてあるので比較的読みやすくなっています。もっとも経典の引用は原文のまま引かれているので、定期的に漢文に遭遇することにはなりますが。それでも漢文は全て返り点や送り仮名などがあり、白文よりははるかに読みやすいです。送り仮名などが判読不能だったり、返り点が抜け落ちているような場合ももちろんあるので油断はできないのですけれど。



最後までいけるのかは、とても不安なところではありますが、なんとか続けていきたいと思っています。ちなみに本文中の漢字はなるべく原著の通りにしていきますが、中には表示できない異体字もあります。ご容赦ください。また、之を「の」と読む場合や、者を「は」と読むような場合はそれぞれ平仮名の状態で直します。
区切りの良いところと考えるときりがなくなりそうなので、原則2000字程度の更新としていこうと思います。唐突に終わるところもあるかもしれませんが、よろしくお願いします。

では内容に入っていきます。
まず最初の部分です。
表紙をめくると「学道用心集聞解序」と出てきて、序文が書かれています。ここが全て漢文になっているところですね。
【本文】
竊以八萬四千之法蔵者係其機熟。一千七百公案亦導彼根利。至今機生根鈍。則恰同嬰童聞大雅焉。豈得辨別其曲折之妙哉。我祖学道用心也。苦口鄭重宜可導機生之凡嬰。丁寧告誡可暁根鈍之愚童。

【書き下し】
竊(せつ)に以(おもんみれ)ば八萬四千の法蔵は其の機熟に係る。一千七百の公案も亦彼の根利を導く。今に至って根の鈍きに生じるに至らば則ち恰(あたか)も嬰童(えいどう)の大雅を聞くに同じかな。豈に其曲折の妙を辨別することを得んや。我が祖の学道用心や。苦口鄭重宜しく機生の凡嬰を導くべく、丁寧告誡は根鈍の愚童に暁す可し。

【解説】
竊以
竊というのは「窃」の旧字体のようです。現行の回向などでは「切に以ば」といったように「切」を使うことが多いのですが、本来は「窃」だったのがさらに略される形で根付いたのかもしれません。
「窃」は窃盗とか剽窃といった、比較的ネガティブな言葉に使われます。実際に「ぬすむ」という意味もあるのですが、他にも「ひそかに」という意味もあります。
「以」には考えるという意味があります。おもんみる、と読みます。

次のところ、「八萬四千之法蔵」に入ります。仏教の教えが膨大にあることを「八万四千の法門」という言い方をしますね。八万四千は別にこの数通りあるわけではなく、膨大であるということの比喩的表現です。限りないという表現の場合は「無量恒河沙数」といったものが使われる場合もあります。もっともこれは仏典の数を表現する時にはあまり使われないかもしれません。

法門の部分が法蔵で表現されているのもあるのだということをここで初めて知りました。蔵というと、三蔵が有名ですね。三蔵法師でも使われますが、経蔵・論蔵・律蔵がその内容となります。ここでの法蔵は「お釈迦様の教え」として言い換えて構わないでしょう。


「者」は助詞としての「は」と同じです。書き下される場合は平仮名になることが多いようです。

係其機熟
機とは、機根の意味ですね。『岩波仏教辞典』によると、「仏道の教えを聞いて修行しうる能力. さらに, 衆生各人の根性・性質を意味する」とあります。この機根が熟している状態、つまり修行に向かう能力が高いという状態、もしくはその人ということになるでしょう。お釈迦様の教えとは、熟した人に関わってくるのだ、というのがこの部分であると言えましょう。

本日はここまでとさせていただきます。次回は序文の続きから。

不足している点、誤っている点などがございましたら是非ご指摘賜りたいと存じます。身の程をわきまえずにこのような形で拝読を進めていくこと、どうぞご容赦ください。


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