若僧ひとりごと

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火葬について〜『メメント・モリ』から考える

2016-03-15 08:43:29 | 日記
『メメントモリ』という藤原新也さんの写真集を読んだ。これは特に最初の方が衝撃的だった。
野焼きの様子が、その遺体も含めて写真に収められている。

普通日本で火葬というと、火葬場があり棺をそこの金属製の扉をあけた小部屋に収める。遺体の焼却はその小部屋の中で行われる。遺体が焼けていく様子は隠され、人の目に触れることはない。火葬中は他の部屋に待機して1時間程度で係りの人間が呼びに来る。扉を開けると、骨の原型はなく、所々に大きな白い塊が存在するだけになる。アバラ骨とか頭蓋骨が見えることはない。火葬前の肉を有した遺体から、原型をとどめない骨へ。ある意味ではショックで、またある意味ではあっけない死者の変質がそこでなされる。

でも、元々の火葬はそんな風に行われるものではない。この『メメント・モリ』が映し出している火葬の光景は、もっともっと、生々しいものだった。
青空のした、焼かれる人を見守る人々がいる。それは家族だろうか。友人だろうか。
これはもちろん日本ではあり得ない。
ゆっくり焼かれていくその様子を、どんな気持ちで見守っているのだろうか。

「葬式は自分の死を学ぶところだ」という人類学者の言葉を思い出す。
この人たちは、こうして人間が最後どうなるのかを学んでいるんだろう。


理科室の標本のような白骨遺体も映し出される。
それは浜辺に横たわっている。
それは自分が想像していたよりも、ずっとずっと「キレイ」なものだった。

散骨というのが流行っているが、そんなことしなくても、自然とこの身は大地に、大気に、大洋に帰っていく。
生にも死にも、そんな豊かな、エコロジカルな考えを昔の日本人も持っていたのだろう。

「メメント・モリ」ー「死を想う」というのは、ただ単に人が死ぬというポイントだけを言うのではない。
人が死んだ後、その人はどうなるのか。
霊や魂というのは見えないが、遺体は見える。
その遺体はどうなっていくのか。

近代的な火葬の導入によってわからなくなったのが、この部分だろう。
遺体は骨になる。という単純な話ではない。
どうやって骨になっていくのか。そこが問題だ。

扉の中に閉まって、見えない形で火葬していくことは、遺体を肉体から骨にコンバートするだけになっている。
死を想うというのはどういうことなのか。
この写真に映されている人達から学ぶに、それは遺体と向き合い、死後も続く死の過程と向き合うことなのだろう。

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