若僧ひとりごと

禅やら読書やら研究やら

『上達論』と坐禅指導の考察〜「解釈」の問題と「アナログ」の必要性

2020-04-05 12:41:20 | その他
【はじめに】
 先日、『上達論』という本を読みました。これは武術家である方条遼雨(ほうじょうりょうう)氏が甲野善紀(こうのよしのり)氏に影響を受けながら培った武術を習う心得について平易に書かれたものが前半にあり、後半はこの両者の対話の形になっています。

 禅と武術の関係はオイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』に代表されるように密接な関係があるとされています。武術は禅の影響を受けているということがよく言われますが、禅もまた武術に習うところが多いのではないかと思わされました。

 禅において「ありのまま」や「あるがまま」ということが言われていますが、それが具体的にどういうことなのか、なかなか言語化が難しいと感じていましたが、この『上達論』ではそこの言語化が巧みになされていたのです。

【上達論における解釈の問題、アナログの必要】
 まず、あるがまま、ありのままに受け入れないことについての問題点について、次のように述べられています(実際にありのままといった言葉ではなく、解釈の問題として述べられています)。

「解釈」する事自体は良いのです。目の前で起きたことを、起きたまま受け入れられているのならば。一番の問題は、新たな情報を受け入れようとしている最中から「解釈」のフィルターを通す事により、「元の情報」の形をどんどん変形させてしまっている点です。つまり、「解釈する事により、解釈の精度を自ら落としてしまっている」のですp46

 
 人間の能力の一つとして、カテゴライズ(分類)するというものがあります。今起きている出来事が過去のどのような事象と類似しているのかを見つけ、同類項で結びつけるのです。出来事だけではなく、他人に対しても、それが過去に出会った好ましい人間と似た特徴があるのなら好意的に、嫌なタイプの人間と似ていたら、嫌なタイプにまず振り分けられると言ったようなものです。

 それは無意識的に行われることもありますが、言語の形で行われることもあります。「男はこう」「女はこう」といったものになることもありますし、それが人種だったり、出身地域であったりもします。それはカテゴライズと呼ばれ、認知の負担を少なくし、効率を高めることができたと言われているものです。しかし、それは時として細かい情報を見落とすことになり、「エラー」を起こすことにも繋がってきます。エラーの最たるものが差別や偏見といったものになるでしょう。

 ではカテゴライズのエラーを少なくするにはどうすれば良いのかというと、データをまずは収集することです。何かを分析する時に大事なのは、その元データが豊かであることです。それが言語などのようなもので単純化されたものでしか受け入れられなければ、分析もまた貧相なものになってしまいます。

 こうした元データについて、方条氏は「アナログ」と読んでいます。アナログの対はデジタルですが、次のような表現をされています。

「豊かな情報」とは、「アナログ」です。例えばこの世に「五センチ」という長さの物は存在しません。物差しが正確に五センチを示していても、拡大してみれば数ミクロンずれているかもしれません。

デジタルは「区切り目を明確にする代わりに、その「外側」、「端数」を次々と削ってゆきます。

しかし、この世の事象はすべて「アナログ」であり、「端数」なのです。にもかかわらず世界を「数値化されたもの」「言語化されたもの」ばかりで捉えていると、膨大な情報を見失うことになります。

失われた「アナログ」を取り戻すためには、「アナログ」をアナログのまま取り込む能力が必要になります。

それを育むのに、「未加工のシンプルさ」と、「無限の情報量を有している「自然環境」は「豊か」で適しているということです。


 このように言語化、解釈を経ない状態で受け入れることの重要性が説かれています。私たちは単純な言葉で物事をくくってしまいがちです。「かわいい」とか「綺麗」とか、「やばい」とかいった言葉もそうですね。もっとも、精緻な言葉で表現できるようになっていれば良いのでしょうが、私たちは往々にして曖昧なレベルの言葉で世界を認識しているのです。

【坐禅の考察】
 さて、ここからは坐禅指導の考察になります。現代の坐禅指導においては指導が型にはまり、その理屈などが何も説明されないということが一つの問題として挙げられることがままあります。確かに姿勢を伸ばして足を組んで手を組んで、「はい始めます」というのは問題です。しかし、あまり説明されないことにも意味があるのではないでしょうか。解釈の仕方は色々あるのだけれど、それは坐禅をする人が後々やっていけば良いこと。

 確かに足を組む、手を組む、それについてどのような理屈が存在しているのかについては、少なくとも自身で最低一つは解釈を持っておいた方が良いでしょうし、それを伝えた方が有効である場合はあるでしょう。しかし、それを伝えると他のところに目が向かなくなってしまうことは問題になってくるのではないでしょうか。

 足を組んだ時に自分に生じる感覚、それは単に「痛い」かもしれないし、下の充実感かもしれない。言葉にして伝えるのも大事ですが、まずはその作法を実践し、そこから生じてくる自分の感覚に目を向けていく態度を伝えなくてはいけないのだと思います。

 アメリカ人などに指導する際、彼らは合理主義的なので、どうしてそれをやるのかを示さなければやってもらえないという話を聞いたことがあります。その合理主義に答えられるような形で坐禅を示すことはとても意義深いのでしょうが、それと同時に坐禅が与えてくれる微妙(みみょう)なところもあるのだということも示さなければならないはずです。

 そして同時に、何かを得ようとする態度も戒められるべきものです。何かを得るというのは、基本的に自分に何かしらポジティブな状態ないし能力が与えられることを意味してきます。そしてそれは自分の意識上に上がってくるようなものでなくてはなりません。坐禅の功徳はそういう、意識には上がってこないような微かなものであることがあるのではないでしょうか。

【坐禅の考察】
 只管打坐という言葉があり、これはともすれば単に坐禅をすれば良いということが言われてしまいがちですが、この上達論における「アナログ」な部分を坐禅は重視しているのです。ただ坐るというのは単に坐ればそれでOKというものではなく、坐禅をしていく中で、他の人の作った言葉や感覚に惑わされず、自分の解釈にも惑わされず、ただその時その場所で坐る自分に対して色眼鏡ナシで向き合っていくことなのだと思います。

『学道用心集聞解』を読む#4 〜乾巻2〜

2020-03-25 02:42:52 | その他

 『学道用心集聞解』は道元禅師が35歳で書かれた『学道用心集』の注釈書で、面山瑞方禅師(以下面山さん)により書かれたものです。

 前回は「学道用心集」の字義についてが主なテーマとなりました。今回扱う部分ではこの学道用心集の十段がそれぞれどのような意味を持っているのかについての面山さんの解説から入っていきます。まず十段について確認します。

第一 可発菩提心事
第二 見聞正法必可修習事
第三 仏道必依行可証入事
第四 用有所得心不可修仏法事
第五 参禅学道可求正師事
第六 参禅可知事
第七 修行仏法欣求出離人須参禅事
第八 禅僧行履事
第九 可向道修行事
第十 直下承当事

 書き下しは以下のようになります。
第一 菩提心を発(おこ)すべき事
第二 正法を見聞して必ず修習すべき事
第三 仏道は必ず行に依りて証入すべき事
第四 有所得心を用って仏法を修すべからざる事
第五 参禅学道は正師を求むべき事
第六 参禅に知るべき事
第七 仏法を修行して出離を欣求する人は須く参禅すべき事
第八 禅僧行履の事
第九 道に向かって修行すべき事
第十 直下承当の事


 さて、まず十段あることの意義としては、「大海に入るごとく、次第次第に甚深なり」と説明されています。別々に立てられているものというよりは、読み進めていくうちに仏法の深い部分に親しんでいくことができるということです。ここからは十段それぞれがどのような役割を果たしているのか、どのような意義があるのかについて述べられていきます。

 まずは第一の「可発菩提心事(菩提心を発すべき事)」です。最初にこれが来ていることについては、発菩提心が「三世諸仏の成正覚の根本なるゆえ」であるとされます。三世諸仏というのは過去現在未来の仏のことです。成正覚はひとまず悟りのこととしておきます。この「可発菩提心事」は「この一段が無ければ後の九章も戯事なり」とされ、特に重要視していることが分かります。戯事は「ざれごと」とも読み、実を伴わない事であるということと受け取れます。もちろん、これは面山さんの解釈であり、道元禅師ご自身もそう考えられていたと短絡的に結びつけることはできないかもしれませんが、大いに参考になる部分です。

 私は福井にある曹洞宗の大本山永平寺にて安居(修行)していましたが、そこではこの「可発菩提心事」が「発菩提心」という題目で読誦されていたのですが、『学道用心集』という10章からなる著作の1章だけ切り取って読まれているのかが釈然としない思いがありました。しかしこの面山さんの「可発菩提心事」が無ければ他の章は詭弁にしかならないということが言われていることからも、修行全般の中で最も肝要な部分であるから取り上げられたのだろうと納得することができました。

 第二の「見聞正法必可修習事(正法を見聞して必ず修習すべき事)」については「菩提心を発してからは仏祖単伝の正師を尋ねて正法を見聞して修習するが菩提心の潤色ゆえ」とされています。潤色というのは「彩りを添えていくこと」といった意味がある言葉です。菩提心の彩りとして、正しい師匠を訪ねて正法を見聞きし、実践していくことが肝要であるということがここでは示されることになります。また、修習するとは行のこと、すなわち「坐禅三昧」のことであるといいます。

 「行ぜねば菩提心に証入することならぬゆえ」に第三の「仏道必依行可証入事(仏道は必ず行に依りて証入すべき事)」があるとされます。そしてその証入が「有所得の心」によって行われてしまってはならないことを示すため、第四の「用有所得心不可修仏法事(有所得心を用って仏法を修すべからざる事)」があると続きます。そして誤った師のもとでは有所得に堕してしまうことから、第五の「参禅学道可求正師事(参禅学道は正師を求むべき事)」を示されたとされます。

 第六は「参禅可知事(参禅に知るべき事)」で、「参禅と云うには古徳の先蹤があるを知ってその例とせねばならぬ(ゆえ)」、第七「修行仏法欣求出離人須参禅事(仏法を修行して出離を欣求する人は須く参禅すべき事)」「日本に自身初めて伝来せられしゆえに、今まで諸宗で仏法は娑婆を出離して浄土を欣求すると思う人もそれよりは参禅の自己に帰るほどはやみちはなきこと」

 第八「禅僧行履事(禅僧行履の事)」「坐禅僧なればその日用の行履を識得する為」、第九「可向道修行事(道に向かって修行すべき事)」「行履の了然不生の所も修行ゆるくしてはならぬゆえに、刹那も油断せず菩提を目かれず見よ」
という教えを示すためであるとされます。また、ここでは修行とは坐禅と聞法であることもまた示されています。

そして第十段に入る前に、「発心とは四弘誓」であると述べられています。四弘誓とは、四弘誓願文のことです。「衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成」の四句からなるのがこの四弘誓願文です。
これについて、面山さんは次のように釈しています。

衆生無辺誓願度=「化他の為」
煩悩無尽誓願断=「自行の為」
法門無量誓願学=「聞法」
仏道無上誓願成=「正身端坐」

 仏教の中では自利利他という言葉がありますが、この利他が最初の「衆生無辺誓願度」、自利が「煩悩無尽誓願断」に当たるとされているのです。そして第九で示された、修行は「坐禅と聞法」というところが今度は「法門無量誓願学 仏道無上誓願成」に関わってきます。法門無量誓願学は聞法であり、仏道無上誓願成は坐禅であるのです。

 この正身端坐が「佛佛祖祖の直下承当」であるために第十「直下承当事(直下承当の事)」があるのだとされ、そして「第十の時に最初の発菩提心が円成する」とされます。最初に発菩提心が無ければ後の九段は全てが「戯事」であるとされていましたが、ここではその菩提心が第十をもって円成するとされているのです。円成するとは「仏行として満ち足りたものになる」と受け取っておきたいと思います。
菩提心を発し、正しい師を求め、教えを聞き、坐禅をし、誤った見解に落ちずにひたむきに精進を重ねていくことを懇ろに説かれているのでしょう。


ここまでお読みいただき誠にありがとうございます。学びの身ですでありますので、どうか誤った点などございましたらご指摘いただけると幸いに存じます。


次回からは実際に学道用心集の本文へと入っていきます。
またお会いできますよう。



仏教ランキング