小さな旅を愉しむための情報PLUS

生活圏での小さな旅を愉しむために、暮らしの歴史に目を向けた情報発信を目指します。

大御食神社😐😐😐神代文字による「神代文字社伝記」を社宝として伝える神社

2020-09-15 18:00:00 | 神社仏閣

中央自動車道「駒ヶ根インターチェンジ」から車約10分の「美女ヶ森(びじょうがもり)」と通称される「大御食神社(おおみけじんじゃ)」は、神代文字による「神代文字社伝記(じんだいもじしゃでんき)」を社宝として伝える旧社格「郷社」で、「献幣使(けんぺいし)参向(さんこう)指定神社」だ。
◇ ◇ ◇
その由緒は、第12代「景行天皇(けいこうてんのう)」の皇子で、九州「熊襲(くまそ)」東国「蝦夷(えぞ)」の征伐を行ったという記紀伝説の英雄「日本武尊(やまとたけるのみこと)」(「古事記」では「倭建命」)東征の帰途、当処で饗応した里長「赤須彦」が、118(景行天皇48/皇紀778)年に「日本武尊」を祀り、「大御食ノ社(おおみけのやしろ)」と名付けたことに始まるという。「清々しく弥栄えて丈高く奇杉なり」と愛でた大杉の元で、「日本武尊」は酒餞の饗応を受けたとされ、以来「御蔭杉」と称す御神木として、現在まで3代にわたって植え継がれて来ているという。
◇ ◇ ◇
地元が「美女ヶ森」と呼ぶ所以は、「日本武尊」が東征の帰途尾張で娶った「宮簀姫(みやずひめ)」(「古事記」では「美夜受比賣」「五郎姫」とも)を、307(応神天皇38/皇紀967)年に迎えて祀ったことによるという。さらに879(元慶3)年には、「応神天皇」の諡号で武運の神とされる「誉田別尊(ほんだわけのみこと)/八幡大神(ハチマンダイジン/ヤハタノオオカミ)」を、山城国より迎えて合祀しているという。
◇ ◇ ◇
9月第3日曜日には、旧赤須村の9行政区を5年番区に編成して、獅子練りが大規模に行われる例大祭がある。なお、柳田國男「一目小僧その他」(昭和9年7月 小山書店)に、「上伊那郡赤穂の美女森の社の神を五郎姫神といひ、即ち日本武尊に侍かれた熱田の宮簀姫の御事だと申してゐるが、これなどは姫神を五郎といふので殊に珍しく感ぜられる。」の記述がある。
 ❖ 拝殿  現在の「拝殿」は、「平之内大隅守(へいのうち おおすみのかみ)」がおこした流派で、神社仏閣などの楼閣建築を飾る装飾彫刻の宮彫を流派として最初に完成させ、「日光東照宮」「湯島聖堂」などの造営にあたったという「大隅流」の棟梁「小口平助」により、1923(大正12)年10月22日に竣工したという。1911(明治44)年辛亥改築のものと、構造様式は凡そ同じと記録されているという。現地に「流し造入母屋、唐破風御拝入母屋、千鳥破風、間口二十九尺七寸六分、奥行二十三尺五寸二分」の案内がある。
◇ ◇ ◇
なお、宮大工集団として並び立つ「江戸立川流」は、大隅流から分かれた流派で、のち幕府御用になったという。

 ❖ 本殿  1733(享保18)年癸丑6月造営、1748(寛延元)年戊辰10月改築遷営された「本殿」は、さらに1864(元治元)年甲子10月に改築遷営されて、現在に至っているという。
◇ ◇ ◇
間口が4.2メートルの母屋正面に、4本の柱を用いて柱間が三つある「三間社(さんげんしゃ)」、屋根の前が長く伸びて向拝を覆い庇と母屋を同じ流れで葺く「流造(ながれづくり)」で、現在は「銅版葺」だが、元は屋根を木の薄板で葺く「杮葺(こけらぶき)」、軒の一部について中央部は弓形で両端が反り返った曲線状の屋根「軒唐破風(のきからはふ)」の社殿だが、2011(平成23)年12月27日「駒ヶ根市有形文化財」に指定されているという。
◇ ◇ ◇
見るべきものとして、正面や繋ぎに立川流による彫刻があるが、建物造営の由緒などを記して棟木に打ち付ける木札「棟札(むなふだ)」は、1枚に1863(文久3)年9月の「釿始め」が、もう1枚には1864(元治元)年4月の「地鎮祭」が、記録されているという。その「大工キソ斉藤常吉 彫工下スワ立木音四郎」の記述から、「諏訪大社下社秋宮」の社殿建築により、競合する「大隅流」を圧倒する評判を得た「立川流」棟梁「立川和四郎冨棟(たてかわ わしろう とみむね)」の子どもで、卓越した彫刻技術により、単なる装飾彫刻を芸術性高い彫刻へ押し上げたといわれる「立川和四郎冨昌(たてかわ わしろう とみまさ)」の高弟「斎藤常吉英知(さいとう つねきち ひでとも)」が大工棟梁、同じく弟子の「立木音四郎種清(たつぎ おとしろう たねきよ)」が彫工で上棟したことが確かめられるという。
 ❖ 神饌殿  「拝殿」奥の左手にある檜造りの建物が、間口十一尺六寸、奥行八尺三寸の「神饌(しんせん)所」だ。「御饌(みけ)/御贄(みにえ)」とも言われる神前に供える供物「神饌」を、調理し格納する所をいう語が「神饌所」だが、天皇と皇后の写真「御真影」と、「教育勅語」などを納めていた太平洋戦争までの「赤穂小学校」の建物「奉安殿(ほうあんでん)」として、大隅流の棟梁「小口平助」が、1926(大正15)年に造営したものを、戦後の1947(昭和22)年に「神饌所」として移築した社殿だという。
 ❖ 神楽殿  「拝殿」手前で右手奥にある社殿が「神楽殿(かぐらでん)」で、神の来臨や神託を願って、神と人が酒食をともにし、歌舞する鎮魂呪術と、この時行われる神事芸能をいう「神楽」を奏するために、神社の境内に設けた社殿をいう。1920(大正9)年に旧「拝殿」を改造し「神楽殿」としたが、2009(平成21)年に現在の「神楽殿」に改築したという境内で最も新しい建物だ。
 ❖ 御神木 御蔭杉  「日本武尊」(「古事記」では「倭建命」)東征の帰路の112(景行天皇42)年、里長「赤須彦」が杉の大樹の元に仮宮を設けて、酒饌を饗したというその杉について、現地で「『尊 大いに悦ばれ この杉の樹蔭 清々しく弥栄えて丈高く 奇杉なりと愛で給ひぬ 以後 この杉を御蔭杉と称せし』と社宝『神代文字社伝記』に記述される」と案内される。
◇ ◇ ◇
しかし、204(神功皇后4)年春に枯れて、翌年春に中枝の大虚に実生の杉の植継を行ったとされ、さらに856(斉衡3)年5月に枯れて、858(天安2)年春に再び植継を行って現在に至ると伝えられている。3代目だが伝「樹齢千百余年」というみごとな大樹だ。
 ❖ 二木社  境内社「二木社/日本岐社」の祭神は、天地開闢時に最初に現れた神で「造化三神(ぞうかさんしん)」のひとり「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と「清和源氏」の祖となった平安中期の武将「六孫王経基(ろくそんおうつねもと)」だ。
◇ ◇ ◇
さらに境内社としてミシャクジ信仰に端を発したものが多いと言われる「社宮司社(しゃぐうじしゃ)」のほか「神若衆社」「甲子社」「齊殿社」「清和荒神社」が祀られる。
 ❖ 天神地祇  境内の「覆屋(おおいや)/鞘堂(さやどう)」に「天神地祇(てんじんちぎ)」額が架かる。その「天神地祇」とは、天界「高天原(たかまがはら)」に属する神とその子孫をいう「天津神/天つ神(あまつかみ)」(「つ」は古語で所属・位置を表す語)と、記紀神話で「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の命を受けた「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」が、記紀神話での地上界であり我が国の古称である「葦原中国(あしはらのなかつくに)」を治めるため、「高天原」から「日向国(ひゅうがのくに)」の「高千穂峰(たかちほのみね)」に天降ったことをいう「天孫降臨(てんそんこうりん)」の以前から、「葦原中国」を治めていた土着の神「国津神/国つ神」とをいう。
◇ ◇ ◇
「天神」は「天照大神」「素戔嗚尊(すさのおのもこと)」など、「地祇」は「大物主神(おおものぬしのかみ)」「猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)」などをさし、「天神地祇」ですべての神々を言う。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿