「真っ暗」の話題だが、一筋の光明を投げかける明るいニュースだ。
「“闇メシ”レストラン登場 店員全員が盲人」(産経新聞1月12日夕刊)
ハリウッドの話。「店内が真っ暗闇で、ウエーターやウエートレスは全員が盲人という珍しいレストランが登場して大人気になっている。店名は「ダイニング・イン・ザ・ダーク」。闇ナベならぬ闇メシといった意味。相手の顔はもちろん、出てきた料理も見えない。」
100g 5万円の本マグロのトロと、1パック500円のスーパーの冷凍マグロパックとを区別できるかというバラエティーの企画があるが、目隠しして試食する。純粋に「舌」だけで味わうのは案外難しい。そもそも注文した料理なのかどうかも判断できないと思うのだが、メニューはひれ肉のステーキなど三セットに限られているので、まあ大丈夫。店内は真っ暗だが厨房には明かりはあるので調理まで暗闇でやっているのではないという。
しかし厨房をのぞいて店員全員が盲人なのはなぜか。「真っ暗闇で最も的確に仕事をこなしてくれるのは、彼ら以外にはいない」。まさしく”逆転の発想”だ。「健常者」ではぶつかって料理をひっくり返したり、お客の頭に皿を乗せたりで、とても使い物にならない。
障害者雇用の促進法では、事業主に対し、法定雇用率(1.8%)以上の身体障害者の雇用を義務付けているが、このレストランではそのような「義務」は不要だ。ここでは「健常」者と「障害」者の立場が逆転するという「価値の転換」が起こっている。
このニュースを読んで思い出したのが江戸時代の大学者、盲人であった塙保己一(はなわほきいち1746-1821)の有名なエピソードだ。
或夜弟子をあつめて,書物を教へし時,風にはかに吹きて,ともし火きえたり。保己一はそれとも知らず,話をつゞけたれば,弟子どもは「先生,少しお待ち下さいませ。今風であかりがきえました。」と言ひしに,保己一は笑ひて,「さてさて,目あきといふものは不自由なものだ。」と言ひたりとぞ。(尋常小學國語讀本(昭和三年) 巻八 第十七 塙保己一 より)
この「讀本」、文部省の執筆だが当時の意識を反映して「差別用語」も出てくるが、「障害」は必ずしもいつもハンディではないという”逆転の発想”のメッセージがある。
保己一は一度聞いた文章を完全に諳んじることが出来たという(今で言う「サヴァン症候群」なのか)驚異的な記憶力の持ち主として、よく引き合いに出される。彼の最も大きな仕事は『群書類従』の編纂。江戸以前の基本国書1,277種を複写し板木に彫り込んだ。今で言う文献学だから本や資料との格闘だ。実際の作業は助手と言うか弟子たちがやったにしても、資料の中味と所在については監修者の保己一自身が精通していなくてはならない。
彼は数千冊の資料の置き場所をすべて記憶しており、弟子たちに「三番目の棚の二段目の右から三冊目の書物」というように指示して資料を持って来させたという。つまりちょうど現在の図書館の検索コンピューターの仕事をしているわけである。彼は目が不自由な故に「コンピューター」に徹せざるを得なかった。そのことが検索と、物理的な資料の移動という作業を完全に分離させ、作業の効率化が図れたのでないか。
保己一は5歳の時に失明して、当時のいわば職業訓練として琴や三味線、鍼灸を習ったが覚えが悪く絶望して自殺まで考えた。しかしその抜群の頭脳を見出されて、学者として育てられることになる。目の見えない人に「文字の羅列」の漢籍を教えこむのは無茶なようだが、当時は音読中心の勉強法だったのでそれが幸いした。ここでも”逆転の発想”。黙読中心の現在の環境ではハンディだが、学習は音読であった江戸時代ではそうでなかった。
考えてみれば、江戸時代の照明設備は貧弱なもので、夜間の文献整理作業は目を痛めるし能率は低下したはずだ。その点保己一は、睡眠を除けば昼夜を問わず同一のペースで仕事が進められたはずだ。盲人である”メリット”を最大限に活かす仕事を選んだと言える。
また保己一が「便利な」現在に生まれていたとしたら、彼のよい記憶力もコンピューターにはかなわないので、その才能をフルに活用できなかったはずだ。ここでも逆転の発想。「不便な」江戸時代に生まれたことはラッキーだった。
保己一の生涯を知ると、当時の障害者「職業教育」がかなり充実したものであったことがうかがえるが、それでも保己一を指導した先生たちが現在のように画一的な考えしか取れないような人ばかりで、「盲人は三味線」と無理強いしていたら、彼はやはり死を選ぶしかなかったろう。”文部省”の存在しなかった江戸時代の教育の柔軟性に感謝である。
保己一は大学者として世間の尊敬を集めるようになってからも、謙虚で常に周りへの感謝を表していた。
身にあまるめぐみある世は/よむ文のすくなきのみぞ/なげきなりける
と詠じている。若い頃に生害を思いとどまった故に、「障害」を長所に転換し、学者として幸せな生涯を全うしたのである。戒名は「和學院心眼明光居士」。彼のすべてを言い尽くしている。
「“闇メシ”レストラン登場 店員全員が盲人」(産経新聞1月12日夕刊)
ハリウッドの話。「店内が真っ暗闇で、ウエーターやウエートレスは全員が盲人という珍しいレストランが登場して大人気になっている。店名は「ダイニング・イン・ザ・ダーク」。闇ナベならぬ闇メシといった意味。相手の顔はもちろん、出てきた料理も見えない。」
100g 5万円の本マグロのトロと、1パック500円のスーパーの冷凍マグロパックとを区別できるかというバラエティーの企画があるが、目隠しして試食する。純粋に「舌」だけで味わうのは案外難しい。そもそも注文した料理なのかどうかも判断できないと思うのだが、メニューはひれ肉のステーキなど三セットに限られているので、まあ大丈夫。店内は真っ暗だが厨房には明かりはあるので調理まで暗闇でやっているのではないという。
しかし厨房をのぞいて店員全員が盲人なのはなぜか。「真っ暗闇で最も的確に仕事をこなしてくれるのは、彼ら以外にはいない」。まさしく”逆転の発想”だ。「健常者」ではぶつかって料理をひっくり返したり、お客の頭に皿を乗せたりで、とても使い物にならない。
障害者雇用の促進法では、事業主に対し、法定雇用率(1.8%)以上の身体障害者の雇用を義務付けているが、このレストランではそのような「義務」は不要だ。ここでは「健常」者と「障害」者の立場が逆転するという「価値の転換」が起こっている。
このニュースを読んで思い出したのが江戸時代の大学者、盲人であった塙保己一(はなわほきいち1746-1821)の有名なエピソードだ。
或夜弟子をあつめて,書物を教へし時,風にはかに吹きて,ともし火きえたり。保己一はそれとも知らず,話をつゞけたれば,弟子どもは「先生,少しお待ち下さいませ。今風であかりがきえました。」と言ひしに,保己一は笑ひて,「さてさて,目あきといふものは不自由なものだ。」と言ひたりとぞ。(尋常小學國語讀本(昭和三年) 巻八 第十七 塙保己一 より)
この「讀本」、文部省の執筆だが当時の意識を反映して「差別用語」も出てくるが、「障害」は必ずしもいつもハンディではないという”逆転の発想”のメッセージがある。
保己一は一度聞いた文章を完全に諳んじることが出来たという(今で言う「サヴァン症候群」なのか)驚異的な記憶力の持ち主として、よく引き合いに出される。彼の最も大きな仕事は『群書類従』の編纂。江戸以前の基本国書1,277種を複写し板木に彫り込んだ。今で言う文献学だから本や資料との格闘だ。実際の作業は助手と言うか弟子たちがやったにしても、資料の中味と所在については監修者の保己一自身が精通していなくてはならない。
彼は数千冊の資料の置き場所をすべて記憶しており、弟子たちに「三番目の棚の二段目の右から三冊目の書物」というように指示して資料を持って来させたという。つまりちょうど現在の図書館の検索コンピューターの仕事をしているわけである。彼は目が不自由な故に「コンピューター」に徹せざるを得なかった。そのことが検索と、物理的な資料の移動という作業を完全に分離させ、作業の効率化が図れたのでないか。
保己一は5歳の時に失明して、当時のいわば職業訓練として琴や三味線、鍼灸を習ったが覚えが悪く絶望して自殺まで考えた。しかしその抜群の頭脳を見出されて、学者として育てられることになる。目の見えない人に「文字の羅列」の漢籍を教えこむのは無茶なようだが、当時は音読中心の勉強法だったのでそれが幸いした。ここでも”逆転の発想”。黙読中心の現在の環境ではハンディだが、学習は音読であった江戸時代ではそうでなかった。
考えてみれば、江戸時代の照明設備は貧弱なもので、夜間の文献整理作業は目を痛めるし能率は低下したはずだ。その点保己一は、睡眠を除けば昼夜を問わず同一のペースで仕事が進められたはずだ。盲人である”メリット”を最大限に活かす仕事を選んだと言える。
また保己一が「便利な」現在に生まれていたとしたら、彼のよい記憶力もコンピューターにはかなわないので、その才能をフルに活用できなかったはずだ。ここでも逆転の発想。「不便な」江戸時代に生まれたことはラッキーだった。
保己一の生涯を知ると、当時の障害者「職業教育」がかなり充実したものであったことがうかがえるが、それでも保己一を指導した先生たちが現在のように画一的な考えしか取れないような人ばかりで、「盲人は三味線」と無理強いしていたら、彼はやはり死を選ぶしかなかったろう。”文部省”の存在しなかった江戸時代の教育の柔軟性に感謝である。
保己一は大学者として世間の尊敬を集めるようになってからも、謙虚で常に周りへの感謝を表していた。
身にあまるめぐみある世は/よむ文のすくなきのみぞ/なげきなりける
と詠じている。若い頃に生害を思いとどまった故に、「障害」を長所に転換し、学者として幸せな生涯を全うしたのである。戒名は「和學院心眼明光居士」。彼のすべてを言い尽くしている。
ごめんなさい。
わたしもTB失敗してしまいました・・。お許しを・・
日本にも、古来(?)から闇なべがありますが、こちらは貧弱な具材をごまかすことと、平等に食べるチャンスを参加者に与えるのが、暗さの理由でしょうか。
関係ありませんが、どこかで、歌手のはなわと、この塙保己一は血縁関係だと聞きました。ガセであれば、ごめんなさい。