おもしろニュース拾遺

 BC級ニュースが織り成す可笑しくも愛しい『人間喜劇』。おもしろうてやがて悲しき・・・

「クマと逢ったら」を教えるビデオ製作

2006-01-24 10:43:00 | 動物・ロボット・植物
ある日森の中 くまさんに 出会った
花咲く森の道 くまさんに 出会った
くまさんの 言うことにゃ お嬢さん おにげなさい
スタコラ サッササノサ スタコラ サッササノサ

  -「森のくまさん」(訳詞:馬場祥弘)

 森の中でクマに出会ったら誰でも動揺する。でもこの童謡の「クマさん」はご存じのように親切で落とし物まで届けてくれた。同様の幸運はしかしいつでも期待できるわけではない。そこで、「ヒグマと遭遇した場合の対処方法などを解説したビデオを北海道内1400の全小学校に配布しようと」今最終仕上げの段階というニュース(毎日新聞1月23日)。

◆「クマと逢ったらむやみに逃げるな」

 ビデオは10分ずつの3部構成で、一部はクマの生態、二部が実際にクマと遭遇しない、あるいは遭遇したときの対処方法、三部がクマとの共生の取り組みを紹介するというから、単なるハウツービデオではない。
 「ヒグマは人間の食べ物の不始末に引き付けられて人里に現れるケースが多い。逃げるものを追う習性があり、むやみに逃げるのも危険だ。」などと説明しているという。

 異常気象のせいで食べ物が少なくなっているせいか、北海道だけでなく本州でもクマが人里に降りてくることが多くなった。日本ではクマが最強の野生動物だから人間を守るためにどうするという議論が当然起きてくる。
 「クマと共生できるように環境整備するべきだ」という自然保護派の意見がマスコミでは紹介されるが、「そんな甘っちょろいことを言ってたら人が殺される。猟師を大量に山に送ってクマの数を減らさないとダメだ」という「武力行使」派の人も結構多い。単なる安全策の議論でなく、どうやらその人の「クマ観」と言うか、世界観、イデオロギー問題になってくる。

 アメリカと違って、日本では我々「フツーの人」は丸腰だ。その普通の人がクマにあったらどうすればいいのか。日本で最も熊を知る人の証言がある。
 ズバリ、『クマにあったらどうするか』(木楽舎2002年刊)という本がある。これは「アイヌ民族最後の狩人」である姉崎等氏の話を書き留めたもの。「65年間」狩りをしてきたクマ狩りの巨匠がヒグマを語っている。
 姉崎氏によると一番大事なことはクマと遭遇しないことだ。「クマも、人間を恐れています。クマも人間が通り過ぎるのを、待っているんです」。ああだから鈴をつけたり、ラジオを鳴らしたりするんですね。でもそれでもばったり出会ったら? 「クマの目をじっと見据えてください。自分より強い相手には向かってきませんから」。すぐに背中を向けて逃げるのが間違いなのですね。気合いでクマを圧倒するというのはいいですね。しかしそれでも襲ってくる凶暴なやつはいませんか? 「その場合は、あきらめてください」。

◆「平和共存」か「武力行使」か-「クマ観」の相克

 「ほーれ見ろ!、だから武力行使だというんだ。山に入るときは銃を持てと」。ちょ、ちょっと、横から口を出さないで。それなら銃刀法を改正して「国民皆兵」にしろというの?アメリカみたいな銃社会になってそっちの方がよっぽど危ないでしょ。第一、クマじゃなくてイノシシだけど、ベテラン猟師が手負いの猪に逆襲されて死亡するという事件が22日に起きている(読売)。武装は命の保証にはならないんだ。

 クマを「殺るか殺られるか」の不倶戴天の敵と考えるか、共存できる相手と見るか、自然観の違いで対応は全く異なる。姉崎氏のようなアイヌの人達はクマ狩りを続けてきたわけだが、別に憎い敵と考えているのでなく、「クマはアイヌにとってもっとも偉い神のひとつです。クマ神の国は山奥にあって、そこでは人間と同じ姿をし、人間と同じような生活をしているのです。クマ神が人間の前に姿を現すのは、人間と交易をするためだと考えられていました。」(アイヌ民族博物館より)
 大切な「交易相手」をむやみに殺生することはあり得ない。アイヌの人でも確かにヒグマに襲われて殺される人はあったが、それは「その人間がクマ神から好かれているかどうか」の問題で、すぐに「報復攻撃」という発想とは無縁だった。

◆本当は怖い「森のくまさん」

 日本で歌われている「森のクマさん」の歌詞はなにか不自然だと誰でも思う。最初「お嬢さん」はクマから逃げたのに、最後にはいっしょに歌を歌っている。
 この疑問はアメリカ民謡である原詩"The Bear"を読めば氷解する。つまり共通なのはクマとの遭遇の場面だけで、後は日本人的価値観に合うように中味が全く変えられているのだ。
 原詩では、クマが最初に「お前はなぜ逃げない。銃もないのに」、と話しかけてくる。「それはもっとも」と「私」が逃げると、クマが追ってくる。私は目の前にある木の枝に飛びつこうとするが失敗。今度は別の枝にしがみついて一命を取り留めた、という内容で、クマさんとの和解など微塵もない。そして「私」は恐らく「お嬢さん」と言うより、成人男子だ。

 日本ではこれは最初NHKの「みんなの歌」で紹介されたという。この時に訳詞をされた馬場氏が子どもにも歌える「平和的」な内容に書き換えたということだが、当然アメリカでは子供たちがこのまま歌っているわけだ。最後の部分はいくつかのバージョンがあって、「教訓」で結ばれるのだが、それが、「木の枝のない森には入らないようにしましょう」か、「テニスシューズでクマに話しかけないようにしましょう」か、ちょっとずらした「教訓」もアメリカ的だ。いずれにしてもクマと人間の非和解性を説いているところは同じで、アメリカ人の自然観というか世界観をよく表している。

 なお、Webで調べると、結末部分が以下のような内容のアメリカバージョンが存在すると指摘している_日本人の_ページが複数あった。ただし現在のところ、果たしてこれがアメリカ人の作詞なのか確認できなかった。と言うのも、内容があまりにもアメリカ的で、パロディの可能性が高いと思われる。帰ってから今度は森に戻ってクマに報復する「私」は、アフガン・イラク戦争に出かけたアメリカ人と重なる。さすがにアメリカでも子どもに歌わせるのは憚られるのでないか。

これで話は終わり
もう続きはないよ
私がもう一度あのクマに出会わない限り
それでもう一度ホントに出会ったのさ
今ではクマは私の部屋の敷物さ

this is the end
there ain't no more
unless I meet that bear once more
and so I met that bear once more
now he's a rug on my cabin floor



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