昭和40年代(1965~)のジャイアンツ(巨人)は強かった。
長嶋・王のON砲に加えて川上監督が就任し、昭和40年から48年にかけて日本シリーズ9連覇(V9)を成し遂げた。
もう一つ(一人)強かったのが大鵬だ。
昭和36年11月場所で横綱に昇進してから昭和46年5月場所で引退するまで、優勝32回(6連覇2回)、45連勝などを記録した。
「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉が流行るほど、とにかく強かった。
その年も巨人・大鵬は強かった。
巨人は、二位の中日に13ゲーム差をつけて優勝。三位阪神とは25ゲーム差だった。日本シリーズでも4勝2敗で南海を下してV2優勝した。
大鵬は、初場所こそ柏戸に負けたものの、その後6連覇を果たしている。
その年の九州場所の千秋楽、14勝0敗の大鵬と10勝4敗の横綱柏戸との結びの一番をテレビで見ている時だった。
「ごめんやで?」と玄関で声がした。
一緒にテレビを視ていたオトンが、
「今、ええとこや! 上がって来て」と言った。
「じゃまするで」と言ってフスマを開けたのは春やんだった。
「おお、千秋楽か。大鵬の全勝優勝がなるかならんかやな!」
行司式守伊之助の軍配が上がる。はっけよーいのこったの声がして、両横綱ががっぷり四つに組んだ。
しかし、そのまま大鵬がぐいぐいと寄って、あっけなく柏戸を寄り切った。
「大鵬は強いなあ! しかし、春やんとこの兄さんもえらい強かったらしいな!」
「ああ、あいつかいな。大鵬とまではいかんでも明武谷(小結)くらいはいってたやろなあ」
「ええ、川面に相撲取りがいたんかいな!」と私が言うと、
「四股名を篠ヶ峰(しのがみね)というてな、わしの兄貴や!」
オカンが気をきかせて、コップ酒と里芋の炊いたのを持ってきた。
コップの酒を一口飲み、春やんが話し出した。
わしは七人兄弟の六番目や。篠ヶ峰はわしより四番上で次男あった。
兄貴は背の高い人で、15歳の時にすでに170㎝ほどあった。というて太ってるわけでもなく、さつき言うた明武谷のような筋肉質の体あった。
米俵の二つくらいは軽々と持ち上げるという力持ちで、喜志の宮さんの春秋の宮相撲では負けたことがなかったほどや。
当時(大正時代)は五人勝ち抜きの相撲で、17歳くらいの時は、強すぎるのをねたまりたり、うとまれたりするのがいやあったんか、四番勝ったあとの五番目はわざと負けてたということや、
あんな優しい人はいてなかったなあ・・・。
せやけど、体が大きいさかいに食べる量もはんぱなかった。朝の炊いた後の釜底から御焦げの握り飯を五、六個作り、食前にぺろりと平らげる。
その後、お膳に向かって何杯食うたかわからんほど食べ、食後に御焦げの握り飯をまた五、六個や!
そんなん続けていたら家の米が底ついてしまう。オトンもオカンも嘆いてた。
そこで兄貴は考えよった。
今は日本相撲協会というのが興行してるが、当時は東京・名古屋・京都・大阪(大坂)・広島なんかの大都市ごとに相撲の興行をしていたんや。
その大阪相撲を引退した力士が村に帰って頭取(親方)となって相撲部屋をつくってた。そんな相撲部屋がいくつか集まり組合を組織して、神社なんかで興行したり巡業したりしてたんや。
喜志村には「八卦の又」という親分さんがいたはって、大っきな屋敷の庭に土俵を造って勧進元(世話人)になり、大坂相撲を引退した大碇(おおいかり)というのを頭取にして興行をうったはった。
このままでは兄弟が食べる米も自分が食いつぶしてしまうと考えた兄貴は、八卦の又の親分さんの所へ相談にいったんや。まだ18歳の年の暮れあった。
優しい兄貴あったなあ・・・。
八卦の又の親分さんも、喜志宮の宮相撲での兄貴の強さを知ったはったんで、「月に5斗俵3俵付けたるから安心しとけ!」とすぐに部屋入りを了承しやはった。
大碇の親方も兄貴を見るなり「お前は5斗や10斗の器やないわい! 村相撲(素人相撲)ではもったいない」と、くらはった四股名が「篠ヶ峰」や。
ほれ、東にそびえる葛城山、あれを昔は篠ヶ峰と言うてた。それを四股名にくらはったんや。
②につづく
※挿絵は『桂川力蔵 : 少年講談』(国立国会図書館デジタルコレクションより)