明治時代の話や。明治という時代がきて日本は大きく変わった。
江戸時代は、土地の持ち主は領主のお殿さんで、その下に広い土地を持つ庄屋はんがいて、それなりの土地を持つ本百姓。それと、庄屋の土地で働く水呑み百姓とに別れていた。
それが明治になって地租改正というのがあって、お殿さんはが無くなった(廃藩置県)。
土地はその土地の持ち主のものになったんや。ええこっちゃないかいと思うやろけど、
広い土地を持つ庄屋はんが大地主になって、それなりの土地を持つ本百姓が自作農家。それと、庄屋の土地で働く水呑み百姓が小作農家と名前が変わっただけや。
それどころか、米で払っていた年貢を税金、お金で払えということになったんや。
米を作って年貢を払うて、残った米でしゃぶしゃぶのオカイさんすすってコーコかじって自給自足してたとこへ、税金を払えや。
現金収入になりそうなものは夏場のワタくらいしかなかったがな・・・。
そんな明治という時代の中頃のこっちゃ。
明治22年(1889)4月1日に町村制が施行されて、それまでの石川郡喜志村が単独で自治体を始めた記念すべき年や。
その時の住所でいうと南河内郡喜志村大字大深(おおけ=現在の喜志町)に喜いやんという人が住んだはった。
喜いやんが百姓仲間としゃべってた。
「喜いやん、明治になってから良うなるんかいなと思てたけど、何んもようならんがな。それどころお金で税金払えときよったがな」
「ほんまやのう」
「この夏場はワタを売って、秋はわずばかりの米を売って現金は入ってくるが、冬場は牛のエサにする麦を作るだけで、現金が入ってけえへんがな」
「そやなあ、冬場に現金になる野菜か・・・?」
さあ、それから喜いやんが冬場に現金になりそうな野菜を考えた。しかし、キャベツや白菜はまだまだ広まってない時や。
そんなある日に息子と話していて孫娘の話になった。その時、ふと思いついたんや。
ええか。こっからや。墓でしてた話は。
喜いやんの孫娘が、尼崎の武庫村(阪急神戸本線・武庫之荘駅あたり)の婿さん所に嫁にいってる。
これが「アマのムコのムコにマゴ・ムスメがヨメにいってる」となって、酔うて話してるうちにこんがらがってもうたんや!
さあ、その孫娘から、武庫村では「武庫一寸」という空豆を植えて相当の現金収入を得ているという話を聞いていた。
これやと思うて、孫娘に頼んで、盆の藪入りの時に一握りほどの空豆の種を持って帰ってきてもろたんや。
秋にこの種を植えた。3月頃に花が咲くのやが赤花と白花の株がある。翌年の春に収穫すると白花の株の豆が大きい。
その中から大きい種を選別して秋に植える。これを数年繰り返すうちに一定して大きな空豆ができるようになった。
収入も増えた。これを聞いた大深の百姓が喜いやんから種をもらい収入を増やす。それを聞いた喜志村の百姓が種をもらい収入を増やした。
大深の一寸豆は喜志村の農家を大いにうるおしたんや!
やがて「河内一寸」の名で種を販売しだすと、大阪はもちろん全国から注文が殺到したということや。
戦前、戦後のすぐくらいは南河内は河内一寸の一大産地あったんや。
今は夏のなすびが中心やけどな。
ちなみに、喜志で一番最初にナスのビニールトンネルを始めたのも大深の喜いやんの親戚ということや。
こら、一寸(ちょっと)した豆知識やけどな。
そう言って春やん、こじゅうた(餅箱)を持って帰って行った。