河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
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歴史38/ 一かけ二かけ②

2024年02月12日 | 歴史

※続きものです。①をお読みください。

勝海舟とともに江戸城無血開城を実現した西郷隆盛は、新政府内でも参議として維新の改革を推し進めた。
しかし、明治6(1873)年、武力によって朝鮮を開国させようと主張した征韓論を、岩倉具視や大久保利通らに猛反対され、朝鮮への派兵は中止となる。
西郷隆盛はこれを不服として辞職、 新政府から離脱する。
明治政府に不満を持つ士族は西郷の姿勢を支持し、多くの人々が西郷の元に集まる。
そして、ついに郷里の私学校生徒に促されて挙兵する。
明治10年2月15日、日本国内最後の内戦である西南戦争が勃発した。

鹿児島で蜂起した西郷隆盛率いる薩摩軍は、北上して熊本城を囲む。
しかし、攻略に失敗。
政府軍を迎え撃たんと田原坂(たばるざか)に陣を構えた。
3月4日から20日までの17日間にわたって激しい戦いが続いた。

 ♪雨は降る降る 人馬(じんば)は濡れる 越すに越されぬ田原坂
  退くに退かれぬ田原の瞼(けん)は 男涙の小夜嵐(さよあらし)
  春は桜よ秋ならもみじ 夢も田原の草枕♪  (熊本民謡)

業を煮やした政府は、警視隊から剣術に優れた者を選び「抜刀隊」を臨時編成した。
抜刀隊は、何度となく斬りこみ攻撃を繰り返し、田原坂を奪い返した。
多くの死傷者をだした西郷軍は鹿児島に退却する。
そして、敗北を覚悟した西郷隆盛は、9月24日、城山で自刃する。

この抜刀隊の活躍を外山正一(東大教授、後に学長)が歌詞に書き、お雇い外国人のシャルル・ルルーが曲をつける。
日本最初の軍歌『抜刀隊』である。
西洋のメロディーが珍しかったのだろう、庶民の間でも広く愛唱され、 日本で最初の流行歌となった。(一番のみ)

♪吾(われ)は官軍我が敵は 天地容れざる朝敵
敵の大将たる者は 古今無双の英雄
これに従うつわものは 共に慄悍決死(ひょうかんけっし)の士
鬼神に恥じぬ勇あるも 天の許さぬ反逆を
起こせし者は昔より 栄えしためし有らざるぞ
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死する覚悟で進むべし♪
※YouTube『抜刀隊 陸軍分列行進曲

詞の中にある「朝敵」「敵の大将たる者は 古今無双の英雄」は西郷隆盛のことだ。
西郷を慕う者からすれば、けっして心良いものではない。
そこで、西郷を偲んで、誰かが『抜刀隊』のメロディーに、西郷隆盛を弔う詞をかぶせた。
これが日本全国に伝わり、子どもが、毬つきや手合わせ遊びをするときのわらべ歌になる。

♪一かけ 二かけて 三かけて、
四かけて 五かけて 橋をかけ。    
橋の欄干 手を腰に、はるか彼方を眺むれば、
十七八の姉さんが、花と線香を手に持って。
もしもし姉さん どこ行くの?
私は九州鹿児島の 西郷隆盛 娘です。
明治十年の戦役に、切腹なさった父上の お墓詣りに 参ります。
お墓の前で手を合わせ、南無阿弥陀仏と拝みます。
ジャンケンポン♪
※YouTube『一かけ二かけて(わらべうた)

これで春やんのメモの謎が解けた。
『必殺仕事人』のナレーションは、わらべ歌「一かけ二かけ」のパロディーだったのだ。
※③につづく
※芳年『やまと新聞 第四百十四号附』 国立国会図書館デジタルコレクション 
※梅堂国政『鹿児島新画之内 熊本県田原坂撃戦之図』 国立国会図書館デジタルコレクション


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