河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

その十九 戦国 ―― 絶景かな絶景かな

2022年03月01日 | 歴史

 昭和三、四十年代の子どもの遊びはほとんどが屋外だった。「道路で遊んではいけません」などと言われることはなかった。それもそのはず「道路」という熟語など使っていなかった。広かろうが狭かろうが、アスファルトで舗装されるまでは、みんな「道」だった。今の府道美原太子線もまだ舗装されていなかった。車もほとんど通らず、道の真ん中でビー玉やベッタン〈メンコ〉をしたこともあった。

 夏休みでも屋外で遊んだ。クーラーなどなかったし、家の中にいれば親に「宿題したんか?」と言われるので、外で遊ばざるをえなかった。竹藪で切ってきた竹の先に、「はいとり紙〈蠅取り紙〉」のノリを付けてセミ取りをよくした。なんといっても、一日の半分は石川だった。まだ、水はきれいで、アユやフナを追いかけまわした。喜志プールはまだなかったので、石川で泳いだ。小学校の水泳教室も石川だった。河南橋の上から飛び込めるほど水量があった。昔の子どもの遊びは安あがりだった。

 八月二十三日の地蔵盆が過ぎると、にわかにあわただしくなる。さんざん遊んだ報いの宿題が待っていた。まずは、全員に与えられている『夏の友』というドリルを片づけた。次に、紙、木、粘土などを使って工作だ。そして、最後は絵だった。

 兄や近所の友達と一緒に河南橋の下へ行って、コンクリートの橋げたで絵を描いた。涼しかったし、汚れても平気だった。パレットや筆は川で洗えばよかった。

 ほぼ書き上げた頃、春やんがやってきて、私たちの横に座った。サナギ粉という粉を水でといて丸め、それをエサにして釣りだした。どうやら大物のコイをねらっていたのだろう。しかし、なかなか釣れない。とうとう暇を持て余したのか話しかけてきた。

 ――どないや? ええのん描けてるか? 北には金剛・葛城山、西には二上山、南に広い河原が広がって、絶景の景色やなあ・・・。

 そない言うたら、昔、この河南橋の上で、橋の欄干(らんかん=手すり)に足をかけて大見えをきつた男を知ってるか?

 河南橋を渡った向こうの太子で生まれた石川五右衛門という大泥棒や。おまえらみたいに、畑のイチゴ盗んで食べて、それが先生にバレて、朝礼の時にビンタされるようなセコイ泥棒とちがうで――。

 春やん、なんでそんなん知ってるねん? 親には言うたらあかんで・・・という気持ちがあったのだろう。みんな、絵を描くのをやめて、真剣に聞きはじめた。『ルパン三世』の五右衛門は、まだ世に出ていない時だった。春やんは、アルミの水筒の蓋を開けて、ゴクリと飲んだ。酒の匂いがプンとした。

 ――五右衛門というのは、日本一の大泥棒や。貧乏人の金は盗まん。この石川を舟で下り、大坂や京都に行って、えらそうにしてる大金持ちの金を盗んだ。その金を舟に積んで喜志の村に持ち帰り、貧しい人に配ったんや。今、わしらがここにいるのも五右衛門さんのお陰や。その五右衛門さん、機嫌のよいときは、この河南橋の欄干に足をのせて見えを切った。

 絶景かな、絶景かな。春の眺めは価千金(あたいせんきん)とは 小(ちい)せえ 小せえ。この五右衛門が眼(め)から見れば、 価万両(あたいまんりょう) 万々両(まんまんりょう)。日もはや西に傾ぶきて、雲とたなびく桜花(さくらばな)、あかね輝くこの風情。ハテ うららかな眺めだなァ。

 ほんでもって、ほとぼりがさめたころに、また、舟に乗って石川を下り、偉そうにしとるやつの金を盗む。最後は、当時一番の大金持ちの太閤豊臣秀吉がいた京都の伏見城に忍び込んだ。秀吉が寝静まるのを待ち、草木も眠る丑三つ時に、秀吉の部屋に忍び込んだ。しかし、その時、秀吉の枕元に置かれていた千鳥の香炉(こうろ)がチリリンと鳴った。「曲者(くせもの)じゃ。出会え!」と叫ぶ秀吉の声で、大勢の家来がやってきて、おさえつけられてしもうた。数日の間の拷問の末、とうとう「釜ゆで」にされたんや。おまえらが、毎日入っている、あの風呂の窯みたいなのに油を入れて、その中に入れられて殺されたんや――。

 その時だった。春やんの竿が大きくしなった。春やんはあわてて竿を押さえ、魚との挌闘が始まった。かなりの大物だった。竿を真上に向けて四、五分挌闘し、ようやく魚を川下の浅瀬まで追い込んでいくと、川に入って魚を手づかみした。60センチはあろうかという鯉だった。

 春やんは鯉の口に指を入れ、空に大きく突き出し、私たちの方を向いて叫んだ。

 「でっけえかな、でっけえかな!」

【補筆】

 ほぼ同時代のいくつかの資料に、「石川五右衛門ほか母と手下20人が、京都の三条河原で処刑された」と書かれているので、実在した人物です。

 江戸時代の大ベストセラー『絵本太閤記』の中に、次のような記述があります。

 ――石川五右衛門の始末をたずぬるに、河内の国石川村の郷民、文太夫という者の子にて、童名を五郎吉と呼べり。生まれつき世の常ならず、十七、八歳より発明利口にして、かりそめのことをも虚言をもって大人をたぶらかし、大胆不敵のくせ者なれば、成人の後、いかなる者にかなりぬらんと、両親は元より一村の男女ささやき合いて恐れける――。

 太子町葉室(近つ飛鳥博物館から150mほど北)に「石川五右衛門の腰掛石」というのが残っています。春やんはこれを基にして話したのだと思います。

 石川五右衛門は盗人でありながら、その後、読み物・講談・歌舞伎などに取り上げられ英雄扱いされます。漫画の『ルパン三世』同様にスカッとさせるものがあるのでしょう。ルパンに出てくる五右衛門は十三代のちの子孫という設定です。


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