前回のエントリーに対してコメントを頂いたが、一部、誤解があり反論の必要があるため、一つエントリーを起こそうと思う。
具体的にどこを指しているのだろうか?場所が分からなければ、反論も弁明もしようがない。だから私は常々「批判は具体的に」と言っているのだが…。
少なくとも私は、元のブログが行った「失礼さ・乱暴さ」を上回るほど失礼・乱暴な発言はしていないはずである。このようなことを言い出す人が出ることに関しては、私はブログを開始した時に既に予想済みであった。だから、こう書いている。
今回の件で言えば、「再開発に便乗」「街の破壊」など乱暴極まりないことを書いていることこそ、まず非難されるべき問題であろうし、そういう乱暴な誹謗中傷を書いた以上、私が書いた程度のことを書かれても、何ら不思議ではあるまい。
ある人は乱暴なことを書いても良いが、それを批判する人は書いてはいけない、というのは、単にダブルスタンダードだ。
この点については、確かに認めざるを得ない部分はある。しかし、あるブログに反論することも、一つの「新しい事実」だと私は考えている。このエントリーについても「馴染みの店が消えるのは街の破壊だ」と言う人に対して「それは脈々と続く街の変化の一局面に過ぎない」という新事実(新しい物の見方)を提示しているのである。
それは「通りすがり」氏にとっては分かりきったことで、ただの批判にしか見えなかったのかもしれないが、それすら気づくことができない人には「新事実」なのだ。
この部分は意味不明である。
私も、一軒の店の問題といっているとは捉えていないが。確かに「自分の店が無かったら破壊か」とは書いたが、先のエントリーの本質的テーマは「自分の気に食わない変化を破壊と呼ぶことの是非」である。
それに、その好意的な解釈は無理だろう。特に「良くなることも~」以下の感情をどこから読み取るのか、私には全く理解できない。
かのブログは「東急の再開発で、ナカメの風情在るガード下が姿を消そうとしています」「再開発に便乗した、老朽化ビルの立て替えで立ち退きを迫られてます」とした上で「こうして街は壊されていく」としているのである。どこから「良くなることも多いだろうけど」という感情を見出せるのだろうか?
この忠告については、全くその通りである。確かに敵を作るリスクについては、私の一つの課題であり、悩みでもある。しかし、誤りであったり、一方的な見方であったりに対して反論しなければ、それが妥当な意見として流布してしまう危険もあるということだ。ブログに反論して、敵を作るマイナス面と、新たな事実・見方を提示できるプラス面と、どちらが大きいかという問題にすぎない。
例えば「中目黒」を検索した人が先方のブログを読んだとしよう。読む人によっては「中目黒は破壊されているのか。酷い話だ」としか思わないだろう。そして、それをまた自分のブログに書くかもしれない。
しかし、同じ検索に私のブログが引っかかっていれば、検索した人は異なる二つの見方を元にして考えることができるのだ。その上で、その二つの意見を踏まえた、その人なりの見解を提示してくれるだろう。
そもそも、自分の誤りを批判されたり、反論されたりして、その批判・反論が妥当な内容であるにも関わらず、その相手を敵視するようなブログ作者は人格的に問題がある。そういう人と無理に仲良くなろうとは私は思わない。そして私は、そういう逆切れブログ作者よりも、「そうだったのか。教えてくれてありがとう」と言う、人格的に正常なブログ作者の方が多いと信じたい。
私はそこまで考えて、記事を書いているのである。
では、「通りすがり」氏の答えは何であろうか?
そもそも「いい加減な情報を信じる馬鹿」であることと、教養のレベルや学歴などは全然関係のない話であり、何らの反証になるものではない。教養も学歴もある大学教授にすら、一方的な情報を吹き込み続ければ、それを信じることもあるだろう。一口に「馬鹿」と言ってもいろいろな種類があるのだ。判断力が「馬鹿」であっても、知識レベルは高いこともある。ある観点で「馬鹿でない」ことは、違う観点で「馬鹿」であることの反証にはならない。
「中途半端な事実を浅はかに信じる」人間が、馬鹿かどうかなど、全く問題ではないのだ。
問題なのは、むしろ人間はしばしば「中途半端な事実を浅はかに信じる」生き物であるということであり、つまり「中途半端な事実」が反論もなしに存在することなのだ。
だからこそ、反論するのである。
そして反論を存在させることによって、誤解の連鎖を断ち切るのである。
以上が「ブログ筆者はなぜいい加減な事実を認識し、発信するのか?」に対する、私の考えである。
こんどはぜひ、通りすがり氏に「なぜ『いい加減な流言飛語が多い』のか」「ブログ筆者はなぜいい加減な事実を認識し、発信するのか?」という問いについて、模範解答を示してもらいたいものである。
あまりに文章・言い回しが乱暴で、せっかく興味深い内容なのに堪えかねます。
(通りすがり氏)
具体的にどこを指しているのだろうか?場所が分からなければ、反論も弁明もしようがない。だから私は常々「批判は具体的に」と言っているのだが…。
少なくとも私は、元のブログが行った「失礼さ・乱暴さ」を上回るほど失礼・乱暴な発言はしていないはずである。このようなことを言い出す人が出ることに関しては、私はブログを開始した時に既に予想済みであった。だから、こう書いている。
しかし、考えてみて欲しい。(私の)発言の節度を云々するのであれば、そもそも「誤った根拠を元に他者を批判する者」こそが非難されるべきである。事実無根の内容で他人を批判するなど、通りすがりに他人を後ろから殴り倒すに等しい。
(略)
私が他者へ批判することを問題視する前に、元々の発言に問題がないか考えるべし。
(当ブログより)
今回の件で言えば、「再開発に便乗」「街の破壊」など乱暴極まりないことを書いていることこそ、まず非難されるべき問題であろうし、そういう乱暴な誹謗中傷を書いた以上、私が書いた程度のことを書かれても、何ら不思議ではあるまい。
ある人は乱暴なことを書いても良いが、それを批判する人は書いてはいけない、というのは、単にダブルスタンダードだ。
新しい事実よりも、新しい「ブログの批判」が多いようです。
この点については、確かに認めざるを得ない部分はある。しかし、あるブログに反論することも、一つの「新しい事実」だと私は考えている。このエントリーについても「馴染みの店が消えるのは街の破壊だ」と言う人に対して「それは脈々と続く街の変化の一局面に過ぎない」という新事実(新しい物の見方)を提示しているのである。
それは「通りすがり」氏にとっては分かりきったことで、ただの批判にしか見えなかったのかもしれないが、それすら気づくことができない人には「新事実」なのだ。
このエントリーに至っては、事実を正すだけでなく、『街は壊されて』の辺りは単に感情の吐露でしょう・・・。
この部分は意味不明である。
この1件の店が壊される、って話ではなく、「多くの人が愛している町並みも、何かのきっかけで一気に無くなることだってある。こうして街は壊されていくもの。良くなることも多いだろうけど、寂しい想いもするねぇ」という風に読み取れます。
私も、一軒の店の問題といっているとは捉えていないが。確かに「自分の店が無かったら破壊か」とは書いたが、先のエントリーの本質的テーマは「自分の気に食わない変化を破壊と呼ぶことの是非」である。
それに、その好意的な解釈は無理だろう。特に「良くなることも~」以下の感情をどこから読み取るのか、私には全く理解できない。
かのブログは「東急の再開発で、ナカメの風情在るガード下が姿を消そうとしています」「再開発に便乗した、老朽化ビルの立て替えで立ち退きを迫られてます」とした上で「こうして街は壊されていく」としているのである。どこから「良くなることも多いだろうけど」という感情を見出せるのだろうか?
ブログの批判行為をすることは多くの敵を生むことになり、かえって貴方が望んでいる「中目黒再開発の事実を伝えること」にマイナスになると思うのです。
この忠告については、全くその通りである。確かに敵を作るリスクについては、私の一つの課題であり、悩みでもある。しかし、誤りであったり、一方的な見方であったりに対して反論しなければ、それが妥当な意見として流布してしまう危険もあるということだ。ブログに反論して、敵を作るマイナス面と、新たな事実・見方を提示できるプラス面と、どちらが大きいかという問題にすぎない。
例えば「中目黒」を検索した人が先方のブログを読んだとしよう。読む人によっては「中目黒は破壊されているのか。酷い話だ」としか思わないだろう。そして、それをまた自分のブログに書くかもしれない。
しかし、同じ検索に私のブログが引っかかっていれば、検索した人は異なる二つの見方を元にして考えることができるのだ。その上で、その二つの意見を踏まえた、その人なりの見解を提示してくれるだろう。
そもそも、自分の誤りを批判されたり、反論されたりして、その批判・反論が妥当な内容であるにも関わらず、その相手を敵視するようなブログ作者は人格的に問題がある。そういう人と無理に仲良くなろうとは私は思わない。そして私は、そういう逆切れブログ作者よりも、「そうだったのか。教えてくれてありがとう」と言う、人格的に正常なブログ作者の方が多いと信じたい。
私はそこまで考えて、記事を書いているのである。
もっともっと、「なぜ『いい加減な流言飛語が多い』のか」を考えてみてください。
一番間違った答えは、「中途半端な事実を浅はかに信じるバカがあまりに多いから」です。
いい加減な流言飛語は、主に「一般人」から発せられます。
一般人の教養レベルは「一般的」であり、バカではありません。
(批判したブログ筆者の中には、教養が高い方もいるでしょう)
では、「通りすがり」氏の答えは何であろうか?
そもそも「いい加減な情報を信じる馬鹿」であることと、教養のレベルや学歴などは全然関係のない話であり、何らの反証になるものではない。教養も学歴もある大学教授にすら、一方的な情報を吹き込み続ければ、それを信じることもあるだろう。一口に「馬鹿」と言ってもいろいろな種類があるのだ。判断力が「馬鹿」であっても、知識レベルは高いこともある。ある観点で「馬鹿でない」ことは、違う観点で「馬鹿」であることの反証にはならない。
「中途半端な事実を浅はかに信じる」人間が、馬鹿かどうかなど、全く問題ではないのだ。
問題なのは、むしろ人間はしばしば「中途半端な事実を浅はかに信じる」生き物であるということであり、つまり「中途半端な事実」が反論もなしに存在することなのだ。
だからこそ、反論するのである。
そして反論を存在させることによって、誤解の連鎖を断ち切るのである。
ブログ筆者はなぜいい加減な事実を認識し、発信するのか?そこまで推察して文章を書けば、
以上が「ブログ筆者はなぜいい加減な事実を認識し、発信するのか?」に対する、私の考えである。
こんどはぜひ、通りすがり氏に「なぜ『いい加減な流言飛語が多い』のか」「ブログ筆者はなぜいい加減な事実を認識し、発信するのか?」という問いについて、模範解答を示してもらいたいものである。