中目黒駅の改札増設問題を考える時、二つの側面から考察することが可能であると思う。
一つ目の側面は、実際に中目黒駅の設備が、乗客数に対して過小であるという点だ。中目黒駅からの乗降客はもちろん、日比谷線-東横線を乗り継ぐ客で、朝夕のホームは間違いなく危険な状態にある。私は詳細は知らないが、実際に転落事故も起きたことがあると聞いた。今後、再開発が進み、住民数が増えた場合、現行の「一つの改札」と「狭いホーム」では、早晩破綻が起きることは容易に想像が付く。
その意味で、改札の増設や、ホームの拡幅を求めることは、全くもって妥当なことである。
しかし、改札増設を考える上でもう一つの側面がある。それは、中目黒の街が山手通りによって分断されているということであり、かつ、その解決に都市計画が失敗した、ということなのである。
署名運動が改札を要求する一つの理由として「山手通りの横断が危険」というのを挙げているが、これは街が山手通りで分断されていることが問題というだけであり、本来鉄道会社や改札の有無とは関係のないことだ。あくまで、街の活性化の問題として解決しなくてはいけないことである。
この問題はけして放置されてきたわけではない。むしろ、古くから議論に挙がっていたことである。実を言えば、中目黒の再開発計画は、この「街の分断の解決」を一つ重要な課題としていたのである。しかし、ご存知のように今回の上目黒一丁目・二丁目(GT)の再開発で街の分断が解決されることはなかった。つまり、再開発の都市計画は、この問題の解決に失敗したのである。
もともと、中目黒に再開発の機運が高まったのは、昭和50年代の前半であった。この頃結成された「中目黒を良くする会」の一つのテーマは、中目黒の再開発であったという。この当時に描かれた「再開発の素案」では、「現ツタヤビル」「元富士銀行」「上目黒二丁目(=現GT)」「上目黒一丁目地区」の辺りまでを一体化して開発する計画(といっても「夢」に近い計画だが)だったのである。そして、山手通りの上に人工地盤を構築し、上目黒一丁目・二丁目の分断を解消しようと考えたのであった。
赤い範囲が「夢」の再開発区域
しかし、その「夢」は実現することはなかった。多くの地権者の思惑が交錯し、議論はまとまらず、まず「現ツタヤビル」「元富士銀行」が計画を離脱して独自にビルの建築を始めてしまった。残った「現GT」「上目黒一丁目地区」も何度も一体開発を模索しながら、結局は、各々、別計画での開発になってしまった。これが「都市計画に失敗した」という所以である。
別開発になったあとも、この二つの街をつなぐ人工地盤デッキないしは歩道橋の大きいものを実現しようという動きはあったが、これは主に資金面の問題で実現しなかった(ただ、一説には、この上目黒一丁目・二丁目の両方の再開発の設計を行った日本設計では、人工地盤デッキを後から付け加えられるような構造を設計に仕込んである、という噂もある。つまり、資金面の目処がつき、両町会が街を結ぶことを欲すれば、デッキを作ることができるような設計が完了しているという。あくまで日本設計の担当O氏がそう言っているらしいということで、真偽の程は不明であるが)。
一応、平成13年の都議会会議録では
というコメントが見えるのだが、結果としては何も作られることはなかった。こうして都のコメントを見ると、どこか他人事に見えるのは私だけであろうか?
なぜ、街の分断解消という、一見「良さそうな」アイディアが実現しないのだろうか。
これは、一口に言えば「資金面の問題」「計画の大変さ」の問題であるとは言える。資金面については言うまでもないだろう。「計画の大変さ」とは、山手通りのような幹線道路の上に人工地盤を作るとなると、いろいろ「関係省庁」が出てきて、その調整が大変らしい。例えば「地震で人工地盤が崩れて幹線道路が寸断されることがないように」等という要求に応えていかなくてはいけないから、大変、ということだ。
だが、実は、根はもっと深いところにあると、私は考えている。それは上目黒一丁目側と二丁目側の「温度差」というべきものである。
街の分断があって主に困っているのは誰かといえば、主に改札を持たない上目黒一丁目側なのである。誤解を恐れずに言えば、上目黒二丁目側は、現状維持で別に困ることはないわけだ。
実は再開発の話以前(30年以上前)に、山手通りに歩道橋をかけないか、という話があったらしい。場所は、目黒銀座の入り口と、再開発前のみずほ銀行の前辺りを結ぶものである。ここは、山手通りが拡幅して、駒沢通りのアンダーパスが出来る前には横断歩道があったらしく、それを歩道橋で復活しようというものだ。
しかし、この案は「二丁目町会の反対にあって潰された」(一丁目町会関係者談)のだという。当時、一丁目側には、ダイエーや、当時は隆盛の頂点にあったウオツネがあった。そのため二丁目の目黒銀座商店街店主たちは、それらに客を奪われることを恐れ、歩道橋の建設に反対した…というのである。街が一体化して隣町に客を奪われることを忌避したわけだ。二丁目側としては、むしろ街の分断こそが自らの商店街を守る生命線だった、というのである。
当時は「街の回遊性を高めて、相乗効果で他の街から客を呼ぼう」という考え方はなく、逆に、「地元の客をいかに囲い込むか」を考えるのが主流の時代であった。だから、人の流動性を高める歩道橋などもっての外だったのだ。
もちろん、これはあくまで、一丁目側の人物から見た話だから、真実とは異なるかもしれない。しかし、少なくとも「一丁目側の人物から見た、二丁目の人々の姿」は読み取れる。そして、その根底にある二つの町会の関係も読み取れるではないか。この二つの町会は、けして一枚岩で仲が良いわけではなく、むしろ利害対立関係の中で存在していたとも言えよう。
それからもう30年も経ち、両町会の商店街も様変わりした。先に述べた通り、今は「街の回遊性」向上が言われる時代でもある。中目黒の街を全体として盛り上げていこうという機運も確かにある。
しかし、やはり「街の分断の解決」を叫ぶ時、改札を持つ町会と、持たない町会とで、温度差を感じずにはいられない。
今回の改札の署名では、近隣町会の賛同も得ているというが、二丁目側・目黒銀座商店街側から、いったいどれだけの署名を集められたのだろうか。おそらくは、低調な集まり具合ではないだろうか。代官山側の改札は、一丁目側の人物にとっては悲願であるが、二丁目側の人物にとっては「どっちでも良いこと」なのではなかろうか。実際のところは分からないが。
果たして、中目黒の街の分断問題に、皆が本気で取り組む日は来るのであろうか。
願わくば、中目黒に住む全ての人が、自町会の都合のみを考えるのではなく、「中目黒にとって何が良いのか」を考えて欲しいものである。
中目黒の改札問題には、そんな根の深さもあるように私は思うのである。
一つ目の側面は、実際に中目黒駅の設備が、乗客数に対して過小であるという点だ。中目黒駅からの乗降客はもちろん、日比谷線-東横線を乗り継ぐ客で、朝夕のホームは間違いなく危険な状態にある。私は詳細は知らないが、実際に転落事故も起きたことがあると聞いた。今後、再開発が進み、住民数が増えた場合、現行の「一つの改札」と「狭いホーム」では、早晩破綻が起きることは容易に想像が付く。
その意味で、改札の増設や、ホームの拡幅を求めることは、全くもって妥当なことである。
しかし、改札増設を考える上でもう一つの側面がある。それは、中目黒の街が山手通りによって分断されているということであり、かつ、その解決に都市計画が失敗した、ということなのである。
署名運動が改札を要求する一つの理由として「山手通りの横断が危険」というのを挙げているが、これは街が山手通りで分断されていることが問題というだけであり、本来鉄道会社や改札の有無とは関係のないことだ。あくまで、街の活性化の問題として解決しなくてはいけないことである。
この問題はけして放置されてきたわけではない。むしろ、古くから議論に挙がっていたことである。実を言えば、中目黒の再開発計画は、この「街の分断の解決」を一つ重要な課題としていたのである。しかし、ご存知のように今回の上目黒一丁目・二丁目(GT)の再開発で街の分断が解決されることはなかった。つまり、再開発の都市計画は、この問題の解決に失敗したのである。
もともと、中目黒に再開発の機運が高まったのは、昭和50年代の前半であった。この頃結成された「中目黒を良くする会」の一つのテーマは、中目黒の再開発であったという。この当時に描かれた「再開発の素案」では、「現ツタヤビル」「元富士銀行」「上目黒二丁目(=現GT)」「上目黒一丁目地区」の辺りまでを一体化して開発する計画(といっても「夢」に近い計画だが)だったのである。そして、山手通りの上に人工地盤を構築し、上目黒一丁目・二丁目の分断を解消しようと考えたのであった。
赤い範囲が「夢」の再開発区域
しかし、その「夢」は実現することはなかった。多くの地権者の思惑が交錯し、議論はまとまらず、まず「現ツタヤビル」「元富士銀行」が計画を離脱して独自にビルの建築を始めてしまった。残った「現GT」「上目黒一丁目地区」も何度も一体開発を模索しながら、結局は、各々、別計画での開発になってしまった。これが「都市計画に失敗した」という所以である。
別開発になったあとも、この二つの街をつなぐ人工地盤デッキないしは歩道橋の大きいものを実現しようという動きはあったが、これは主に資金面の問題で実現しなかった(ただ、一説には、この上目黒一丁目・二丁目の両方の再開発の設計を行った日本設計では、人工地盤デッキを後から付け加えられるような構造を設計に仕込んである、という噂もある。つまり、資金面の目処がつき、両町会が街を結ぶことを欲すれば、デッキを作ることができるような設計が完了しているという。あくまで日本設計の担当O氏がそう言っているらしいということで、真偽の程は不明であるが)。
一応、平成13年の都議会会議録では
〇都市計画局長(山下保博君)
中目黒駅前再開発におけるペデストリアンデッキの整備についてのお尋ねでございますが、事業中の上目黒二丁目地区に加え、一丁目地区が昨年八月に都市計画決定されたところでございますが、今後、両地区の再開発の進展により、歩行者需要は増大するものと見込まれます。
この地区のペデストリアンデッキについては、目黒区が策定した再開発基本計画に位置づけられておりまして、今後、区を中心に可能な事業手法が検討されるものと考えております。
都といたしましては、ご指摘の点も踏まえ、両地区の一体性の向上が図られるよう、技術面も含め、必要な支援に努めてまいります。
というコメントが見えるのだが、結果としては何も作られることはなかった。こうして都のコメントを見ると、どこか他人事に見えるのは私だけであろうか?
なぜ、街の分断解消という、一見「良さそうな」アイディアが実現しないのだろうか。
これは、一口に言えば「資金面の問題」「計画の大変さ」の問題であるとは言える。資金面については言うまでもないだろう。「計画の大変さ」とは、山手通りのような幹線道路の上に人工地盤を作るとなると、いろいろ「関係省庁」が出てきて、その調整が大変らしい。例えば「地震で人工地盤が崩れて幹線道路が寸断されることがないように」等という要求に応えていかなくてはいけないから、大変、ということだ。
だが、実は、根はもっと深いところにあると、私は考えている。それは上目黒一丁目側と二丁目側の「温度差」というべきものである。
街の分断があって主に困っているのは誰かといえば、主に改札を持たない上目黒一丁目側なのである。誤解を恐れずに言えば、上目黒二丁目側は、現状維持で別に困ることはないわけだ。
実は再開発の話以前(30年以上前)に、山手通りに歩道橋をかけないか、という話があったらしい。場所は、目黒銀座の入り口と、再開発前のみずほ銀行の前辺りを結ぶものである。ここは、山手通りが拡幅して、駒沢通りのアンダーパスが出来る前には横断歩道があったらしく、それを歩道橋で復活しようというものだ。
しかし、この案は「二丁目町会の反対にあって潰された」(一丁目町会関係者談)のだという。当時、一丁目側には、ダイエーや、当時は隆盛の頂点にあったウオツネがあった。そのため二丁目の目黒銀座商店街店主たちは、それらに客を奪われることを恐れ、歩道橋の建設に反対した…というのである。街が一体化して隣町に客を奪われることを忌避したわけだ。二丁目側としては、むしろ街の分断こそが自らの商店街を守る生命線だった、というのである。
当時は「街の回遊性を高めて、相乗効果で他の街から客を呼ぼう」という考え方はなく、逆に、「地元の客をいかに囲い込むか」を考えるのが主流の時代であった。だから、人の流動性を高める歩道橋などもっての外だったのだ。
もちろん、これはあくまで、一丁目側の人物から見た話だから、真実とは異なるかもしれない。しかし、少なくとも「一丁目側の人物から見た、二丁目の人々の姿」は読み取れる。そして、その根底にある二つの町会の関係も読み取れるではないか。この二つの町会は、けして一枚岩で仲が良いわけではなく、むしろ利害対立関係の中で存在していたとも言えよう。
それからもう30年も経ち、両町会の商店街も様変わりした。先に述べた通り、今は「街の回遊性」向上が言われる時代でもある。中目黒の街を全体として盛り上げていこうという機運も確かにある。
しかし、やはり「街の分断の解決」を叫ぶ時、改札を持つ町会と、持たない町会とで、温度差を感じずにはいられない。
今回の改札の署名では、近隣町会の賛同も得ているというが、二丁目側・目黒銀座商店街側から、いったいどれだけの署名を集められたのだろうか。おそらくは、低調な集まり具合ではないだろうか。代官山側の改札は、一丁目側の人物にとっては悲願であるが、二丁目側の人物にとっては「どっちでも良いこと」なのではなかろうか。実際のところは分からないが。
果たして、中目黒の街の分断問題に、皆が本気で取り組む日は来るのであろうか。
願わくば、中目黒に住む全ての人が、自町会の都合のみを考えるのではなく、「中目黒にとって何が良いのか」を考えて欲しいものである。
中目黒の改札問題には、そんな根の深さもあるように私は思うのである。