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酒と音楽とPC

血は酒で出来ている(某声優談)。他の趣味はPC組み立てるのと音楽聴くのしかない。

倉庫

2010-03-17 15:06:34 | 日記・エッセイ・コラム

うちの倉庫は親子2代に渡る蒐集癖の集大成なので未来のネコ型ロボットのポケットに引けを取らない。しかし、親父よ、サム・ティラーのハーレム・ノクターンだけは止めてくれ。よくこんなの家で聴けるな(しかも、CDだからそう昔でもない)。うちを離れた十数年間も地道に収集活動は続いていたようだ。しかし、曲がかぶってしまう。それにクワイ河マーチだの駅馬車のテーマとかはいらん。

日記に戻るが、司法試験やってる人がTwitterにハマっていて大丈夫かと人ごとながら心配になるな。受かってしまっている人は何しようが良いが。

フィリップ・グラスの浜辺のアインシュタインが発掘出来ない。あんなに大きなパッケージが見つからない訳ないのだが。記念品として強奪されていたらショックだ・・・。リンク先のCDは持っているものと明らかに違う。決定盤と言われるCDがその後に録音されたはずなのだが。いっこ下のCDが多分そうなのだろうが、アインシュタインが浜辺を歩いているかのようなジャケットだったような・・・。LDと混同しているのだろうか。

フォロワーに真面目なミュージシャンがいるとエロゲソングと歌謡曲をつぶやく勇気が無くなった。言行不一致なオレ。といっても、エロゲサントラを買ったのはSummerdaysが最後だ。大抵の歌手さんは深夜アニメで堪能できるし。Ritaさんだけは見かけないが。正直、xxゆいさんと入れ替えて欲しいぐらいだ。

アニメ声優さんの世代交代も激しい。若手と思っていた小清水がもうおやじギャルやおばさん役だ。うみねこのあいつだけはブッ殺したいが、小清水さんのせいじゃないしな。それより、ラジオで凛子の中の人イビリをヤメロ。まるで古のxx姉さん(MS)を見ているようだぞ。あれと違って本当は仲が悪いということはないんだろうが。

音楽のつぶやきは#playingnowで行うのが正しいようだが、さすがにあんな場所でつぶやいたら良い晒し者になってしまう。EACのRIPはは設定を最高音質、訂正ありにするとちっとも進まない。このままでは数週間どころではない。最高音質を止めるか。今一番掛けたい曲は「勝手にしやがれ」なのだが、当然持っていない。

ガンダムUCのBlu-Rayは意外に安いんだな。終わってからまとめて買うかな。BS登場は早いだろうが。原作でのバナージ・リンクスはシーブック・アノーのコピーに見えた。意識してやったのかも知れないが。敵のお姫さんと好い仲になるなるというのも同じだしな。福井の見解だとアムロとシャアは宇宙の意識に取り込まれたってことになるのか?ユニコーンやシナンジュが人間の意識と融合すると言うネタはキャッチワールドと同じだし、そう独創的なものでもない。サイバーパンクの影響がガンダムに及んだと言うことになるのか。個人的にサイバーパンク小説は大嫌いなのでキャッチワールドと結びつけて考えたくはない。SFの終焉はサイバーパンクがもたらした。人間でない存在の未来を人間が想定するのはナンセンスだし、感情移入出来ない。ティプトリーの接続された女だとか、コードウェイナー・スミスのスキャナーだとかはディストピアとして想像された悪夢であり、登場人物の人間性は失われていない。その物語の中で登場人物の人間性が崩壊するときは物語の終りでもある。その先はなにもない。

電脳コイルで郷里さんの声に号泣したが、何故か金月真美の声には未だに怒りを感じるのは何故だろう。もちろん、彼女にはなんにも罪はないし、あれのせいでキャリアを損したぐらいなのだろうが。しかし、桜の下のあの一言は今考えてもキツイ。



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男のオタクとしての愚痴

2010-03-17 01:35:01 | 日記・エッセイ・コラム

記者クラブを信用しておいて、新聞に後から規制派に都合のいいように書かれた、というのはナイーブに過ぎる。というより、メディアを扱う人としてどうだろう。エロ漫画規制の経緯、エロゲーの顛末に全く無知であったのだろう。突然やってきて運動を指導したは良いが、それまで男のオタクがいかに陰湿に苛め抜かれたかには全く関心がなかったのかも知れない。呑気なものである。

小異を捨てて大同に付くときであるとはいえ、さすがに愚痴の一つも言いたくなると言うものだ。

正直、気持ちが冷めた。個人的にはもうエロゲーもエロ漫画も必要ない。ただ、古を知る老兵として参加する意義があると思っただけだ。老兵は死なず、ただ消え去るのみ。それでよかろう。Twitterも音楽と映画、格闘技、知り合いとの会話に限定する。ブログではまたトンデモ理論構成をするかもしれないが。これは趣味だ。

なんか、みんな悲憤慷慨してるのな。まあ、漫画家さんとかはしょうがない。男女間の断絶は大きいな。まあ、もうどうでもいい。メディア扱ってた男にはいつものことだろうが。反対派に女がいるから今回だけはマスメディアに特別扱いされるとでも?甘い甘い。議員にプレッシャーは与えられただろうが。無駄のように見えても役人には法律論でプレッシャー与えないとダメだ。連中は「解釈」することはできるが、法律を「作る」ことは本来は出来ないんだから。作られてしまえば終了だ。

Apple系のタグでTwitterみたらやっぱりものすごく毒を吐きたくなった。なんであんなにも盲目的に賞賛できるのだ。民主党支持者の一部の人もだが。民主党に批判的な見方を失って盲信してしまったら自民党支持者と変わらないだろう。他の発言の説得力がすべて失われてしまう。ましてや民主は寄合所帯。ろくに意思の統一すらできていない。首相はあんな人だし、批判がでないはずがなかろう。



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携帯規制について再考してみた

2010-03-16 16:18:27 | 日記・エッセイ・コラム

正直、私は携帯をあまり使わないので当事者性に欠ける。それを大前提になるべくくだけた言葉でわかりやすく、ざっくばらんに問題点を考えてみた。

被害者の問題

携帯規制で守りたいものとは?ズバリ、小学女子児童である。一応、哲学的命題を蹴落とそう

・小学児童が性交するのも真摯なものであればよいのではないか

不可能な理論ではない。ただし、刑法上13歳以下の児童との性交は同意の有無に関わらず強姦に相当する。こどもの判断力不足と言うパターナリスティックな観点からも肯定されるが、国民の規範意識からしても13歳以下の女児と性交する不届き者はロリコン野郎であろう。規定は適正なものであり、制約は正当化されうる。これは大前提だ。

 

では、いかに救済すべきなのか。人権制約は必要最小限でなければならない。携帯規制以外に手段がないか。

・ロリコン野郎撲滅作戦

日本版オペレーション・オレを発動し、ロリコン野郎を一斉摘発し、牢屋にぶち込む。「ロリコン野郎」の定義いかんでは私も摘発される可能性がある。ああ、怖い。一見、元から元凶を断ち切れるかに思える。しかし、例えば、女児のヌード写真を所持していたからといって、逮捕、収監されるほどの罪であるだろうか?オペレーション・オレは多数の自殺者を産んだ。それを正当化するほどの利益があったのか。売春する女子児童はお金を求め、もしかたら崩壊した家庭より僅かでも父性を見出したくて自ら主導的に売春を行っている例が多い。援助交際と呼ばれる所以である。そうであれば、仮に今いるロリコン野郎を全員殺害したとしても、隠れていた潜在的ロリコン野郎が表に出てくる、あるいは女児の誘惑に負けて新たなロリコン野郎が誕生するだけなのではないか。そうであれば、これは犠牲があまりに大きく、利益が小さすぎて正当化されないのではないか。ロリコン野郎を撲滅してやったという満足感だけでは女児は救えない。

・家庭環境改善

以前に私が藤川准教授にふっかけた理論である。確かに、家庭環境、社会環境の改善以外に抜本的な改善案はないはずだ。しかし、これには途方もない時間がかかる。女児の売春は今そこにある危機なのだ。「崩壊した家庭のこどもをそれでも救いたい、それで最低限の規制をするのが傲慢なのか」、という准教授の言葉は実は私にはそのときには響かなかった。しかし、その後何気なく「育児放棄による親権剥奪は35年でたったの31例」という記事を引いた。確かに、ひどい話だ。その記事はかなりのリツィートを受けた。私が主体的に書いた記事がリツィートされるのは異常事態である。私は興味を引かれてリツィート先を見た。そこには激昂し、悲憤慷慨する現場の人達の姿があった。この時はじめて、私は本当に今そこにある危機を実感した。現場の人達の意見をバッサリと無視した私こそが傲慢だったのだ。しかし、それに気づくのには現場の人の姿を見る必要があった。家庭環境、社会環境の整備はもちろん大切だが、即効性に欠ける。これはこれでもちろんやるべきだが、これでは足りない。

・携帯の必要最低限の規制とは

では、携帯のアクセスを遮断して女児がロリコン野郎を見つける手段を断ち切れば良いのか。私は「他の手段を見つけるに違いない」と屁理屈をこねた。しかし、少数でも諦める女児がいればそれは成果であると言える。ただし、それは性交相手を探せるポイント、出会い系サイトに基本的に限定すべきだ。規制する側にはこどもを無菌状態において自在に操りたいという欲望を隠さない人たち、これを機会に権限を拡大してやろうと言う野心満々の官僚がいる。良心的な学者が標準携帯制度、不健全指定されたサイトへのブロックなどに反対を表明する所以だ。推薦携帯は当然利権を生むし、不健全指定は既定の曖昧さから過度の規制をうむ、ないし、警察OBが天降って規制の内容を勝手に審査、決定する流れになる危険性をはらむ。

条例で出会い系サイト以外の規制を行うのであれば、その内容は現場の人の意見を叩き台に学者、在野の法曹、民間のオンブズマンといったメンバーで構成される審査委員会の精査を受けるべきだ。現場の人はこどもを救いたいあまり、過度の規制を求めがちだ。しかし、現状を最も把握しているのもその人達だ。そこで、試案を提出してもらい、行き過ぎを審査会が是正する。官僚が入らないのが理想だが、これは現実味がないだろう。要は官僚が主体にならなければ良いのだ。

結局、良心的な学者たちの意見と同じところに落ち着いたようだ。勉強不足、現場への理解不足故の過ちだ。素直に反省したい。ロリコン野郎と言うキーワードを敢えて使ったのは少しでも読んでいる人に身近な実感できる表現を使いたかったからである。小児性愛者やペドファイルでは実感出来ない。オペレーション・オレも欧州での現実であり、冗談ではない。これに連動してアメリカでも摘発が行われた。FBIが特殊な信号を仕込んだ児童ポルノビデオが日本にもP2Pを通じて流入し、その情報をFBIが収集した。FBIからの情報、依頼で逮捕があるのではないかと身に覚えがある人は震撼したという事実がある。その人数は数千人であったそうだ。



コメント (8)
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削除後のやりとりのログと正しい理解

2010-03-16 00:38:13 | 日記・エッセイ・コラム

前田先生について書いた文章に致命的なミスがあった。んで、ただ削除するのはズルイので間違いを指摘された後のやりとりを残そう。これを見れば、察しの良い人は何を間違っていたかわかるはずだ。つーか、判らない人は多分あの文章に興味を持たない。元の文章もログは持っている。見たい人はいないだろうが、見せろと言われれば見せる。

 

はじめまして。

いきなりですが、三段目の「本来の可罰的違法性論」の理解、間違っていますよ。可罰的違法というのは、行為が違法なだけでなく、処罰されるべき程度と内容の違法性を有するという意味であって、処罰してしかるべき違法という意味はありません。その場合は可罰的違法ではなく「当罰的」違法と呼ばれます。

とりあえず、「一見条文に当てはまっていなくても立法趣旨からして処罰すべき行為であれば構成要件に該当する」という意味で可罰的違法性論を唱えている刑法学者を僕は知りません。可罰的違法性論を唱える人は形式的な構成要件該当性の判断を先行させ、然る後に処罰範囲限定のために可罰的違法の判断を使います。たとえば、1円を盗む行為は窃盗の構成要件に該当しますが、果たして国家の司法作用を動員して(刑法235条に従い)10年以下の懲役刑や50万円以下の罰金を課さねばならない程度の違法性があると言えるかどうかと。

その意味で、前田教授は可罰的違法性の理解に関する限り、伝統的な理解を引き継いだに過ぎません。ただ、前田説の体系は構成要件該当性の形式判断を違法性判断に先行させるという順番を採らないので、彼が可罰的違法性論を援用すると構成要件の実質化を招来するというトリックが生まれるわけです。

それ以外の部分に関してはこの場ではノーコメントと言っておきます(苦笑)。僕自身前田雅英教授は大嫌いだし、彼の学説を「解釈論の任務放棄」と批判する松宮孝明教授(刑法総論講義303頁)とかの方が好きなので、はっきりいって気持ちはわかる(苦笑)のですが、事実的なことに関してなにか確証のあるネタを持っているわけではありませんから。

ここまでがツッコミだ。

この後は私の見苦しい言い訳が続く。

>「一見条文に当てはまっていなくても立法趣旨からして処罰すべき行為であれば構成要件に該当する」という意味で可罰的違法性論

ヨーロッパにおける本来の可罰的違法性論はそうじゃなかったですか。私の記憶が確かならば。日本における藤木先生の理解はおそらく仰る通りですが。

まあ、これはどっかに間違いがあるとわかって書いた文章ですので、訂正したいのですが、私の能力では無理です。もう複数の刑法の本を読む元気もありませんし。誰か校訂してくれないかな。全部書き直した方がゼンゼン早いだろうけど。真面目な人に見られるとヤバイ。バレる前にひっこめるか(苦笑)。

よはんさん、よろしければやってみませんか?

投稿 ディック九州

間違った理解が広まるとまずいですね。揚げ足とられかねないし。やっぱり引っ込めよう。これをやるべきなのは司法試験受けてる若いオタクだ。

投稿 ディック九州

誰も見ていないと思って調子コイてるとこういう痛い目を見る。反省します。

投稿 ディック九州

はっきり言ってプギャーそのものである。Twitterで某政治家にプギャーしたばかりであったが・・・。深淵を覗き見るものは深淵にも覗き見られるのだ。

間違った理解をしてしまった人には申し訳ない。残す道も考えたが、私が書き直してもまたどこか間違うだろう。間違いを拡大再生産するよりは削除が正しいと判断した。

 

 

ツッコミを入れてくださった方のありがたいブログ

だが、なんと、私の駄文を引用する形で論旨が展開されている。ということは、駄文がないとあちらの正しい理解もできなくなる。ということで、駄文を再度掲載する。ものすごく長い上に間違っている文章なので、眉につばをつけて読んで欲しい。

 

エロゲの敵でバカ(?)というイメージがなんとなく流布していますが、20年ぐらい前から司法試験関係で絶大な支持を受けている大物です。東大の他の教授はずっと実務研究を扱っていて、当時平野教授門下から続出していた同世代の秀才(西田、山口他)の中でちょっと落ちこぼれた(?)前田教授(東大に残れなかった)が生き残りをかけて司法試験に進出して大成功を収めたという感じでしょうか。今の若手法律家はほぼ例外なくこの方の教科書を読んで影響を受けています。

前田教授の考え方の根幹は戦後刑事法の一大潮流となった団藤教授の構成要件該当性を形式的に、かつ厳格に審査する、という考え方の否定にあります。構成要件(平たく言えば刑法典の条文の中身)を形式的に解釈する、というのは構成要件(条文)という枠を使って処罰範囲を限定して国権の濫用から人権を擁護する、という考え方、つまり厳格な罪刑法定主義です。構成要件(条文)から外れていれば問答無用で無罪。形式的には条文には当てはまらないが、実質的にはこれは立法趣旨からして有罪ではないか、という考え方を許しません。仮に「公共の建物の塀に立小便をしたら罰金50万円」という法を定めたとします。その場合、塀ではなく柱に立小便をした場合、柱は塀ではないから構成要件に該当しません。構成要件に該当して初めて違法性、責任論と更に「処罰を限定する方向(阻却事由)」で実質的議論を行います。すなわち、構成要件に該当しないけど、悪い行為(この場合、柱への立小便)というのは立法の不備により処罰出来ない、ということになります。有罪にしたければ国会で承認を得て法律を改正しなさい、という結論になります。法の不遡及の原則がありますから、その人を後から処罰出来ませんが。といっても、この原則も最近怪しいですけどね(ex少年法改正案、児童ポルノの単純所持禁止)。

では前田教授の考え方はどうでしょうか。まず、構成要件該当性を実質化します。条文に当てはまるか、当てはまらないかを純形式的に判断しません。前田教授はこれを「新しい可罰的違法性論」と呼んでいます。本来の可罰的違法性論(前田教授の主張とは違う?)とは団藤教授の反対と考えてよいでしょう。つまり、一見条文に当てはまっていなくても立法趣旨からして処罰すべき行為であれば構成要件に該当する、という考え方です。上の例で言えば、法意は公共の場所に立小便するな、という点にある。したがって、塀ではなく柱であっても立法趣旨からして処罰すべきであり、構成要件に該当する、と考えます。当然ながら、処罰範囲は拡大し、場合によっては人権侵害、国権の濫用の可能性があります。ただ、前田教授はその可罰的違法性論を処罰範囲縮小という方向にのみ使う、という主張(トリック)で処罰拡大、人権侵害の可能性はない、とします。つまり、構成要件に一見当てはまっている行為でも法意からして処罰に値しない行為は裁判官による違法性阻却、責任阻却の判断を待つまでもなく構成要件該当性を欠く、とするわけです。例えば、「信号機を壊したら罰金100万円」という法律を定めたとします。ある人が信号機に石を投げてカバーを割ったとしましょう。その場合、従来の考え方では形式的に信号を壊しているのですから、構成要件に該当します。ただし、実際に立法趣旨である交通の安全に害を及ぼしていないから違法性が阻却される、ということになるでしょう。前田教授の考え方では形式的に構成要件に該当しているように見えるが、実際に交通の安全を害していないから、可罰的違法性がなく、構成要件に該当しない、ということになります。構成要件(条文)解釈の段階で立法趣旨を勘案してある程度実質的な判断を行っているわけです。

さて、問題はこの主張が正しいかどうかです。ある程度形式的判断ができるのであれば、本来違法性論、責任論で行うべき事件の内容にに踏み込んだ実質的判断を構成要件該当性(入り口の条文解釈)で行って良い、そして、それは違法性論、責任論と同じく処罰を縮小する(阻却する)方向にのみ用いられる。すなわち、そういう行為は可罰的違法性がなく、構成要件に該当しない。構成要件の判断を少々実質化しても全く処罰範囲は拡大しない。理論的には完璧に思えます。では、構成要件該当性を判断する人というのは誰でしょうか。違法性、責任の判断は一応公平とされる裁判官が主体となっ裁判でて行います。では、構成要件該当性は?拘束すべきか否か、起訴すべきか否か、判断する主体は現場の人間、捜査機関であり、検察官ということになります。あれ、ヘンですね。昔は誰にも縛られず好き勝手にやっていたこういう人達から実質的判断権を奪い、議会による立法の枠で人権を守るのが構成要件(条文、罪刑法定主義)の主眼ですよね。いつの間にか処罰範囲をまず判断する人(実質的判断をする人)が議会から捜査機関や検察官になってますよ。前田先生がいくら可罰的違法性論は処罰を縮小する方向にのみ働く、とお題目を唱えてもこれじゃ絵に描いた餅ですよね。厳格に条文に従わなくても良いとした場合、捜査機関を制約する人や制度が存在しないのですから。判断する人が捜査機関や検察官ではこの人達が法律を改正しなくても処罰に値すると思えばしょっぴいてよいってことになりやしませんか。実際、警察、検察がそう考えていると思われる例(例えば別件逮捕)は枚挙にいとまがありません。すなわち、これは場合によって議会による立法の枷(罪刑法定主義)から捜査機関が免れるということを意味します。前田教授の主張ではあり得ないはずの柱への小便が実際には起訴、処罰される可能性を否定出来ないわけです。前田教授は講義の中で実務家を信用せよ、そんな馬鹿な事はないと笑い飛ばします。しかし、捜査官、検察官を信用出来なかった歴史があるからこそ構成要件、条文、罪刑法定主義があるのです。これは罪刑法定主義の部分的否定です(実際、罪刑法定主義という言葉を検察官は毛嫌いする)。しょぴかれても裁判では裁判官の違法性阻却、責任阻却判断で正当な判断がくだると言う反論もあるでしょう。しかし、日本では起訴された事案の有罪率は限りなく100%に近い数字です。裁判官と検察官は普段から交流があり、癒着しているに近い。更に、ただしょっぴかれただけで人生はまず終了します。裁判で無罪を勝ちとっても失われた仕事と社会的立場、信頼は帰ってきません。逮捕のスティグマ(烙印押し、つまり偏見です)を考えると逮捕されたというだけでその人を破滅させるに十分すぎるほどです。

こうして前田説は実務家(警察、検察)の絶大な支持を得たわけです。この説で論文を書けば司法試験に受かりやすい。採点官の多くがいつの間にか実務家になってしまった(誰が決めたのか知りませんが)が故、この説が司法試験という狭い世界で一世を風靡して法務に携わる人のほとんどがこの説の影響を受けているわけです。私はこれらの方々(教授、採点に携わる実務家)が捜査機関が以前から持っていた思想を追認して理論化し、確信犯的に処罰範囲の拡大、捜査官のさらなるフリーハンドをを目指していたと考えています。前田先生はその片棒を担いだ、ということになるのでしょうか。実際に検察官と協力して細部を詰めていたのは東大に残った教授たちで、前田先生はいわば広報係を担当したと言えるのでしょうか。

このように、実務家の提灯担ぎで出世した方ですから、権力に擦り寄るのは極めてアタリマエのことだと思われます。実際に判例研究等で細かな理論を立てたのは平野、西田、山口等の方々で、前田先生はそれをわかりやすく教科書的に鳥瞰しただけと言えるでしょうか。東大に残った先生方は忙しくて司法試験などに深く関わっている暇もなかったんでしょう。ちなみに他の教授の本は非常に難解、煩雑で私にある程度理解出来るのは前田先生の教科書のみでした(講義を受ければまた違うかもしれません。前田先生以外は非常におっかない方ぞろいのようですが。刑事法の教授は元検事、現検事の人などコワイ人が非常に多いです)。

見てわかるように、前田教授は決してバカではありません。司法試験制度を利用して確信犯的に処罰範囲の拡大を図り、権力と密着することでより有能な教授たちより名声を得た世渡り上手です。しかし、以前は捜査機関や権力と対立する存在だった刑法学者が捜査機関や権力の使い走りをしているという現状はこれでいいのか?と思わなくもありません。前田教授の印象深い言葉があります。「どんなに取り繕おうとも、法とは権力維持、秩序安定のための装置である」、という言葉です。ある意味一貫した潔い態度と言えなくもありません。罪刑法定主義に意味はないと言っているのと同じですから。権力の濫用を拘束するための枠が法律という考え方自体が希薄(というか、否定的)なのです。捜査機関や国権は誤りを犯さないという全く根拠のない信頼があるだけで。

こうしてみると、前田教授が様々な規制に積極的なのは極めて当然のように思います。しかし、建前だけとは言え、罪刑法定主義を否定していないはずの教授が単純所持禁止だの、社会的法益に基づく人権制約を安易に認めるのは勇み足といわざるをえないのではないでしょうか。これらは処罰範囲は拡大しないから捜査機関の権限拡大が許されるという教授のお題目すら大きく外れた処罰範囲の爆発的拡大を招く権力の濫用で憲法違反そのものです。前田先生の考えは本人は否定しますが、事実上の行為無価値説ではないでしょうか。

 

*かなり昔に書いた文章です。私は法律家ではないので理解の浅い部分は多々あると思います。こういう見方もできると言うこと、更にそれを裏書するようなことを前田先生がやっていることも事実ではないでしょうか。ついでに補足しておくと、実質的処罰範囲を決めるのは捜査機関ではなく世論、常識とおっしゃいます。しかし、その「世論、常識」を解釈するのがこの場合捜査機関であるという現実は動きません。実に官僚に都合の良い論理ではないでしょうか。

この件はもっと簡潔に書ける能力がある人がやって欲しいのですね。私の能力ではこの程度が限界です。

 

以上である。

勿論、理論構成自体が間違っているのだが、結局処罰範囲が拡大するのではないか、という疑問、世論常識と言いながら捜査機関、官僚に解釈を丸投げする論理ではないか、という結論部分には多少は正しい、というか、前田先生に疑問があるのはそう大きくハズレていないと思う部分もある。もしかすると大切な事かもしれないので再度掲載した。



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Twitter落ちた

2010-03-14 17:00:32 | 日記・エッセイ・コラム

おそらく、例の件で一斉につぶやいた結果ではないかと。みんなリツィートしまくってましたし、パンパン状態だったはずです。Tweenでは普通に見れます。



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