アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第5章 ヒンドゥー教とガンジー ④ 富と爵位

2017年05月18日 08時07分10秒 | 第5章 ヒンドゥー教とガンジー
 財産、権力、地位、或いは名誉、こうしたものを追い求め、多くの人々が日々競い合って働いている。組織の中で、研究者はそうしたことに比較的淡泊な方が多いように思うが、学者や作家、芸術家も含めて考えた場合、名誉にまでも全く興味がない人は居るのだろうか? 

今年のノーベル賞の授賞式にボブ・ディランが欠席したことは記憶に新しい。欠席の真意は読み取れないものの、授賞式後の晩餐会に、彼が寄せたメッセージの一部を引用してみたい。彼は、これまでにノーベル文学賞を受賞した、キップリング、(バーナード)ショー、トーマス・マン、パール・バック、アルベール・カミュ、ヘミングウェイなどを引き合いに出してこう言った(実際には代読して貰った)。

◇◇◇
 その文学の巨匠たちが自ら「ノーベル賞を受賞したい」と思っていたかどうかはわかりませんが、本や詩や脚本を書く人は誰でも、心のどこかでは密かな夢を抱いていると思います。それは心のとても深い所にあるため、自分自身でも気づかないかもしれません。
 ノーベル文学賞を貰えるチャンスは誰にでもある、といっても、それは月面に降り立つぐらいのわずかな確率でしかないのです。実際、私が生まれた前後数年間は、ノーベル文学賞の対象者がいませんでした。私はとても貴重な人たちの仲間入りをすることができたと言えます。
◇◇◇

こうしたものは、「皆が」と断言はできないが、世の多くの人が求めて止まないものであろう。筆者も決してその例外ではなかったが、四十代に入って家を新築したり、関係会社の社長に抜擢されたりした頃から、「更に張り切って仕事をしよう」と表面的には思いながらも、内心とても窮屈な気持ちになったことを記憶している。つまり、借金までして家のような資産を持つと、それに縛られて身動きが取れなくなる一方、地位が上がればそれに伴う行事や付き合いに縛られて自由(特に時間)を失うし、好きなことも言えなくなる。社長にこそならなかったものの、筆者が勤務していた会社(商社)でかなり出世した以前の上司がある時ふと、「偉くなってもいいことなんか何もないぞ」と筆者に本音を漏らしたのを覚えている。

お金に就いても、筆者は大金持ちになった経験がないので何とも言えないが、株や投資信託を保有していたころは毎日のようにネットで終値を確認していた。曲がりなりにもこうした「資産」を持つと、どうしても心がそちらに向かい、修業の妨げになるので、遅ればせながら昨年全て売り払い、今後の生活に必要な分を除いて、家族や障害のある娘に贈与してしまった次第である。こうした「富」と信仰の関係に就いて、聖書がたびたび取り上げていることは読者諸賢の知る処と思うが、キリストの言葉から少し引用しておきたい。

◇◇◇
・富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい。(マルコ10-25)
・どの僕(しもべ)でも、二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方を疎んじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。(ルカ16-13)
◇◇◇

 テモテへの第一の手紙も、信心(知足)の徳と富の害悪を次のように説いている。(6-6から6-10)
 
◇◇◇
 しかし、信心があって足ることを知るのは大きな利得である。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去っていく。ただ衣食があれば、それで足れりとするべきである。富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破滅とに沈ませる、無分別な恐ろしい様々の情欲に陥るのである。金銭を愛することは、全ての悪の根である。ある人々は欲張って金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。
◇◇◇

 多少ニュアンスは異なるものの、こうしたことにも繋がるような話が、『ガンジー自伝』に載っているので、少し長くなるが紹介しておきたい。

◇◇◇
 ロード・カーゾン(当時のインド総督)が接見の儀式を行ったのは、このころのことだった。接見の儀式に招請されたラージャやマハラージャの幾人かは、インディア・クラブの会員だった。クラブでは、いつも立派なベンガル風のドーティやシャツやスカーフを着た彼らを見かけた。接見の日になると、彼らは給仕がはくズボンとピカピカの長靴をはいていた。わたしは情けなくなって、その一人にどうして着替えるのかと、その理由を尋ねてみた。彼は答えた。
「わしたちの不幸な境遇は、わしたちにしかわからない。わしたちだけが、富と爵位を持っていたいために忍ばなくてはならない侮辱を知っている」
 わたしは尋ねた。
「ですが、この給仕のターバンと光った長靴はどうしたんですか?」
彼は答えて言った。
「君は、給仕とわしたちの違いを知っているか? 彼らは儂たちの給仕で、わしたちはロード・カーゾンの給仕なのだ。もし、わしが接見に出ないでいようものなら、わしはその報いを受けねばなるまい。もしわしが、平服で出席しようものなら、それこそ無礼に当たる。あそこで、わしがロード・カーゾンと話をする機会をつかまえるつもりになっているとでも、君は思うか。そんなことは露ほども考えていない」
 わたしは、このはっきりものを言う友人を哀れに思うまで、感動した。このことからわたしは、もう一つの別の接見の儀式を思い出した。
 ロード・カーゾンがヒンドゥー大学の定礎を行ったときに、接見の儀式が行われた。ラージャやマハラージャが列席したことはもちろんであった。ところが、パンディット・マラヴィアジー(註:インドの連合州出身の弁護士。1909年に会議派の議長になった長老。後に会議派を脱退して国民党を作る)が、わたしにも列席するよう、特に招待してくれた。そこでわたしは出席した。
 わたしは、マハラージャたちが夫人のように飾っているので、非常に悲しくなった。絹のパジャーマをはき、絹のアチカン(註:長めのボックス型の上着)を着、真珠の首飾りをつけ、腕輪をはめ、ターバンにダイヤモンドの房をつけ、そのうえ黄金製の柄の刀を腰帯にかけているのである。
 わたしは、こうした服装が、忠誠のしるしではなくて、隷従のしるしであることを発見した。わたしは、彼らが彼ら自身の自由意志からこうした無力のしるしをつけているのだ、と思っていた。ところがわたしは、このような儀式のときには、彼らの高価な宝石を全部身につけることがラージャたちの義務となっている、と聞かされた。わたしはまた、彼らのうちの幾人かは、これらの宝石をつけるのを非常にきらっている、ということも耳にした。富、権力、および威信のために、人が無理強いされて行う罪と過失の価のなんと大きいことよ。
◇◇◇

 富や権力に仕えるということは、こうした自由な意志を自ら手放し、それは更に本当に大切な自身の「精神」をも失うことに繋がる。「神への道」からは遠ざかるばかりであろう。
 
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