いよいよ第7章の最終稿、「世界主宰神」に入る。例によって、中村元氏(以下、著者)の『ヨーガとサーンキャの思想』(以下、同書)から引用する。因みに、著者は、同書前半部分では「最高主宰神」という言葉を使っているが、世界主宰神(創造神)とは異なる。先ずはその前半部分からの引用である。
◇◇◇
宇宙を創造した最高神というものが存在するかどうか、 - この問題は、古来、世界の諸文化圏を通じて、哲学者や神学者たちが真剣に論議したことがらであった。インドでは、
(1) 若干のウパニシャッドやヴェーダンタ学派ないしヒンドゥー教諸派では、世界を創造し、存続させ、やがて破壊して滅ぼしてしまう主宰神(イシュヴァラ)が存在すると考えていた。後代のヴァイシェーシカ学派もこのような見解を受けている。
(2) これに対して、ヨーガ学派、後代のニヤーヤ学派などでは、主宰神の存在を認めるが、それは卓越した精神的存在であるというにとどまり、世界や宇宙を創造したり破壊したりする能力はないと考えていた。この点では、西洋の有神論とはかなり相違する。
(3) さらに、唯物論者たち、仏教、ジャイナ教、ミーマーンサー学派、初期のサーンキャ学派などでは、最高主宰神の存在を認めなかった。・・・仏教、ジャイナ教、ミーマーンサー学派などは、多数の神々の存在することは承認していたが、宇宙や世界を支配する主宰神を求めなかった。
ヨーガ学派の形而上学説は、サーンキャ学派とだいたい同じであるが、顕著な相違は、ヨーガ学派が最高神を認める点にある。しかし、ヨーガ学派の最高神は創造し支配する神でもなく、恩寵を与えたり救済したりする神でもなく、単に、特殊な純粋精神と考えらえているにすぎない。この最高神は、最高人格神と呼んでもいいが、採用の宗教などに比べて人格神としての性格が弱いように思われるので、むしろ最高主宰神という名称のもとに纏めることにしよう。
ヨーガ学派は有神論的サーンキャと呼ばれるように、最高主宰神の観念をもちこんでいる。それは念想のためである。『ヨーガ・スートラ』には、それが宇宙を支配する機能があるとは説かれていない。しかし註釈家ヴィヤーサは、最高神が宇宙を支配する機能があると考えて論じている。九世紀頃には、ヨーガ行者たちは根本原質の運動は主宰神に導かれ、支配されていると考えていた。
◇◇◇
サーンキャ学派において最高神を認めていなかったが、最高神(イシュヴァラ)を認めるヨーガ学派において(通説では)、「最高主宰神」とは個我(プルシャ)の中において、他の個我を導く最高の個我ではあるが、世界創造までの機能はないと考えられていたようだ。但し註釈家によっては、そのイシュヴァラに、少なくも宇宙を支配する機能があると考えていたようである。
◇◇◇
この点について従来、西洋の諸学者はこう指摘した。 - 『ヨーガ・スートラ』のうちで主宰神を論じている部分は他の諸部分と結びつかないばかりでなく、ヨーガ学派の基本思想と矛盾する、と。『ヨーガ・スートラ』における最高神の観念は余分のものであり、体系の全体とつながっていない。のみならず、最高神を論じている諸スートラ(第1章23-27、第二章1、45)はヨーガの体系の前提条件および目的と矛盾している。全体系のうちに神の摂理の観念の占める余地はない。最高神は世界の諸事象や諸原因とはなんの関係もないのである。『ヨーガ・スートラ』に説く解脱はサーンキャ哲学的な意味のものであり、最高神との合一と解されるべきではない。宇宙の進展をとどめ、またその後に宇宙開展を開始するのは主宰神であると考え、それによって宇宙の周期的回帰にともなう論理的難点を回避した。またなにゆえに因果応報が誤りなく行われるかということも、主宰神の摂理のゆえであるとして説明したのである、と。
ヨーガ学派のいだいていた最高主宰神の観念に対する西洋の諸学者の評価は、ほぼ以上のごとくである。はなはだしく冷たい。神学的あるいは弁神論的な評価になると、このようにいわれざるをえないのであろうが、最高神に対する憧れ、思慕はすでに諸ウパニシャッドの中に現れているように、一般民衆のあいだに根強く存続していて、それが『ヨーガ・スートラ』のうちに反映しているのであろう。
◇◇◇
この後も、主宰神に関する議論は著者によって続けられるのであるが、一言でいってしまえば、これは二元論の限界なのではないかと筆者は考えている。それはあくまでも瞑想を通じて悟りを開く(「神」の存在を体験する)ためのものなのだ。それより、創造神としての「世界主宰神」について、どのように考えればよいのか、同書の後半から引用する。
◇◇◇
サーンキャ哲学においては、実在する原理は純粋精神(プルシャ)と根本原質(プラクリティ)との二元だけであり、世界創造神とか主宰神(イシュヴァラ)というようなものを想定しなかった。
サーンキャ学派は徹頭徹尾「永遠なる神」の観念を拒絶している。マーダヴァは、古典的サーンキャ哲学説の説明を、次の語をもって結んでいる。
『以上で、無神論サーンキャ学派の学問の創始者であるカピラなどの思想を遵奉する人々のこの思想が説明されおわった。』
しかし最近の研究によると、かなり古い時代から創造神が考えられていたともいう。
世界創造を説く哲学説は、西においても、東においても、世界創造神または世界主宰神なるものがあって、それが世界を創造または開展したと考えた。
ところがサーンキャ哲学は、それ自身は動かないが物質的根本質量に激発する作用を及ぼす純粋精神なる原理を提示することによって、生成変化の可能なるゆえんを説明しようとした。
しかしこの純粋精神は個人的な原理であるから、あらゆる生存者を含めての全世界の生成変化の成立するゆえんを説明しえない。そこで、サーンキャ哲学の影響を受けた諸哲学体系では、世界精神としての主宰神を想定しなければならなかった。このような見解の萌芽はすでに古ウパニシャッドに現れている。また『バガヴァッド・ギーター』における神がサーンキャ的諸原理の上に立っているのも、そのような思想的必然性による。
◇◇◇
この引用の最後の部分、『バガヴァッド・ギーター』は、その世界創造神の問題をどのように表現しているのか、それを引用して本稿及び本章の締めくくりとしたい。
◇◇◇
・世界にはこれら二種のプルシャ(筆者註:この場合の「プルシャ」は純粋精神としてのプルシャではなく、創造の「原理」といった意味合い)がある。可滅のものと不滅のものである。可滅のものは一切の被造物である。不滅のものは「揺ぎなき者」(筆者註:所謂「純粋精神」)と言われる。(第15章-16)
・しかし、それと別の至高のプルシャ(筆者註:至高神=クリシュナ)があり、最高のアートマンと呼ばれる。それは不変の主であり、三界に入ってそれを支持する。(第15章-17)
・私(筆者註:至高神としてのクリシュナ)は可滅のものを超越して、不滅のもの(純粋精神としての個我)よりも至高であるから、世間においても、ヴェーダにおいても、至高のプルシャであると知られている。(第15章-18)
・迷妄なく、このように私を至高のプルシャであると知る人は、一切を知り、全身全霊で私を信愛するのである。(第15章-19)
・万物の個別の状態は唯一者(筆者註:至高のプルシャ)のうちに存し、まさにそれから多様に展開すると見るとき、その人はブラフマンに達する。(第14章-30)
・この最高のアートマンは、無始であるから、要素(グナ)を持たないから、不変であって、身体の内に存在しても、行為せず、汚されることもない。(第14章-31)
・偏在する虚空(エーテル)が、微細であるから汚されないように、身体のいたる処に存在するアートマンも、汚されることがない。(第14章-32)
◇◇◇
つまり、サーンキャでいう「プルシャ」と「プラクリティ」の二つの原理の上に、世界創造神を立てるのである。因みにこの考え方は、『ティルマンディラム』に代表される聖典シヴァ派が説く三つの原理、即ちパティ(神)、パサ(魂)、パス(世界=足枷)に極めて近い。筆者はまだ勉強中であるが、いずれこの聖典シヴァ派(筆者の師である、M.ゴヴィンダン先生はこれを支持している)の教義を説明する時がくると思う。
PS(1): 尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
PS(2):『ヴォイス・オブ・ババジ』の日本語訳がアマゾンから発売されました(キンドル版のみ)。『或るヨギの自叙伝』の続編ともいえる内容であり、ババジの教えなど詳しく書かれていますので、興味の有る方は是非読んでみて下さい。価格は¥800です。
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宇宙を創造した最高神というものが存在するかどうか、 - この問題は、古来、世界の諸文化圏を通じて、哲学者や神学者たちが真剣に論議したことがらであった。インドでは、
(1) 若干のウパニシャッドやヴェーダンタ学派ないしヒンドゥー教諸派では、世界を創造し、存続させ、やがて破壊して滅ぼしてしまう主宰神(イシュヴァラ)が存在すると考えていた。後代のヴァイシェーシカ学派もこのような見解を受けている。
(2) これに対して、ヨーガ学派、後代のニヤーヤ学派などでは、主宰神の存在を認めるが、それは卓越した精神的存在であるというにとどまり、世界や宇宙を創造したり破壊したりする能力はないと考えていた。この点では、西洋の有神論とはかなり相違する。
(3) さらに、唯物論者たち、仏教、ジャイナ教、ミーマーンサー学派、初期のサーンキャ学派などでは、最高主宰神の存在を認めなかった。・・・仏教、ジャイナ教、ミーマーンサー学派などは、多数の神々の存在することは承認していたが、宇宙や世界を支配する主宰神を求めなかった。
ヨーガ学派の形而上学説は、サーンキャ学派とだいたい同じであるが、顕著な相違は、ヨーガ学派が最高神を認める点にある。しかし、ヨーガ学派の最高神は創造し支配する神でもなく、恩寵を与えたり救済したりする神でもなく、単に、特殊な純粋精神と考えらえているにすぎない。この最高神は、最高人格神と呼んでもいいが、採用の宗教などに比べて人格神としての性格が弱いように思われるので、むしろ最高主宰神という名称のもとに纏めることにしよう。
ヨーガ学派は有神論的サーンキャと呼ばれるように、最高主宰神の観念をもちこんでいる。それは念想のためである。『ヨーガ・スートラ』には、それが宇宙を支配する機能があるとは説かれていない。しかし註釈家ヴィヤーサは、最高神が宇宙を支配する機能があると考えて論じている。九世紀頃には、ヨーガ行者たちは根本原質の運動は主宰神に導かれ、支配されていると考えていた。
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サーンキャ学派において最高神を認めていなかったが、最高神(イシュヴァラ)を認めるヨーガ学派において(通説では)、「最高主宰神」とは個我(プルシャ)の中において、他の個我を導く最高の個我ではあるが、世界創造までの機能はないと考えられていたようだ。但し註釈家によっては、そのイシュヴァラに、少なくも宇宙を支配する機能があると考えていたようである。
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この点について従来、西洋の諸学者はこう指摘した。 - 『ヨーガ・スートラ』のうちで主宰神を論じている部分は他の諸部分と結びつかないばかりでなく、ヨーガ学派の基本思想と矛盾する、と。『ヨーガ・スートラ』における最高神の観念は余分のものであり、体系の全体とつながっていない。のみならず、最高神を論じている諸スートラ(第1章23-27、第二章1、45)はヨーガの体系の前提条件および目的と矛盾している。全体系のうちに神の摂理の観念の占める余地はない。最高神は世界の諸事象や諸原因とはなんの関係もないのである。『ヨーガ・スートラ』に説く解脱はサーンキャ哲学的な意味のものであり、最高神との合一と解されるべきではない。宇宙の進展をとどめ、またその後に宇宙開展を開始するのは主宰神であると考え、それによって宇宙の周期的回帰にともなう論理的難点を回避した。またなにゆえに因果応報が誤りなく行われるかということも、主宰神の摂理のゆえであるとして説明したのである、と。
ヨーガ学派のいだいていた最高主宰神の観念に対する西洋の諸学者の評価は、ほぼ以上のごとくである。はなはだしく冷たい。神学的あるいは弁神論的な評価になると、このようにいわれざるをえないのであろうが、最高神に対する憧れ、思慕はすでに諸ウパニシャッドの中に現れているように、一般民衆のあいだに根強く存続していて、それが『ヨーガ・スートラ』のうちに反映しているのであろう。
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この後も、主宰神に関する議論は著者によって続けられるのであるが、一言でいってしまえば、これは二元論の限界なのではないかと筆者は考えている。それはあくまでも瞑想を通じて悟りを開く(「神」の存在を体験する)ためのものなのだ。それより、創造神としての「世界主宰神」について、どのように考えればよいのか、同書の後半から引用する。
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サーンキャ哲学においては、実在する原理は純粋精神(プルシャ)と根本原質(プラクリティ)との二元だけであり、世界創造神とか主宰神(イシュヴァラ)というようなものを想定しなかった。
サーンキャ学派は徹頭徹尾「永遠なる神」の観念を拒絶している。マーダヴァは、古典的サーンキャ哲学説の説明を、次の語をもって結んでいる。
『以上で、無神論サーンキャ学派の学問の創始者であるカピラなどの思想を遵奉する人々のこの思想が説明されおわった。』
しかし最近の研究によると、かなり古い時代から創造神が考えられていたともいう。
世界創造を説く哲学説は、西においても、東においても、世界創造神または世界主宰神なるものがあって、それが世界を創造または開展したと考えた。
ところがサーンキャ哲学は、それ自身は動かないが物質的根本質量に激発する作用を及ぼす純粋精神なる原理を提示することによって、生成変化の可能なるゆえんを説明しようとした。
しかしこの純粋精神は個人的な原理であるから、あらゆる生存者を含めての全世界の生成変化の成立するゆえんを説明しえない。そこで、サーンキャ哲学の影響を受けた諸哲学体系では、世界精神としての主宰神を想定しなければならなかった。このような見解の萌芽はすでに古ウパニシャッドに現れている。また『バガヴァッド・ギーター』における神がサーンキャ的諸原理の上に立っているのも、そのような思想的必然性による。
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この引用の最後の部分、『バガヴァッド・ギーター』は、その世界創造神の問題をどのように表現しているのか、それを引用して本稿及び本章の締めくくりとしたい。
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・世界にはこれら二種のプルシャ(筆者註:この場合の「プルシャ」は純粋精神としてのプルシャではなく、創造の「原理」といった意味合い)がある。可滅のものと不滅のものである。可滅のものは一切の被造物である。不滅のものは「揺ぎなき者」(筆者註:所謂「純粋精神」)と言われる。(第15章-16)
・しかし、それと別の至高のプルシャ(筆者註:至高神=クリシュナ)があり、最高のアートマンと呼ばれる。それは不変の主であり、三界に入ってそれを支持する。(第15章-17)
・私(筆者註:至高神としてのクリシュナ)は可滅のものを超越して、不滅のもの(純粋精神としての個我)よりも至高であるから、世間においても、ヴェーダにおいても、至高のプルシャであると知られている。(第15章-18)
・迷妄なく、このように私を至高のプルシャであると知る人は、一切を知り、全身全霊で私を信愛するのである。(第15章-19)
・万物の個別の状態は唯一者(筆者註:至高のプルシャ)のうちに存し、まさにそれから多様に展開すると見るとき、その人はブラフマンに達する。(第14章-30)
・この最高のアートマンは、無始であるから、要素(グナ)を持たないから、不変であって、身体の内に存在しても、行為せず、汚されることもない。(第14章-31)
・偏在する虚空(エーテル)が、微細であるから汚されないように、身体のいたる処に存在するアートマンも、汚されることがない。(第14章-32)
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つまり、サーンキャでいう「プルシャ」と「プラクリティ」の二つの原理の上に、世界創造神を立てるのである。因みにこの考え方は、『ティルマンディラム』に代表される聖典シヴァ派が説く三つの原理、即ちパティ(神)、パサ(魂)、パス(世界=足枷)に極めて近い。筆者はまだ勉強中であるが、いずれこの聖典シヴァ派(筆者の師である、M.ゴヴィンダン先生はこれを支持している)の教義を説明する時がくると思う。
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