第5章⑫ヒンドゥー教とヨーガの中で、筆者はヴィヴェーカナンダの説く「普遍宗教」の問題を論じ、最終的に次のように結論付け、そして本章でウパニシャッドに就き改めて考察を加えることにしている。興味の有る方は、再度これを読んで頂くものとし、本稿では、結論の部分だけを引用しておく。
◇◇◇
もっとも、ヴィヴェーカナンダは、いかなる単一宗教も普遍宗教にはなり得ないと明言しており、ヒンドゥー教にも様々な宗派があるので、ここでヒンドゥー教の各宗派全てを一概に否定するものではないことを先ずお断りしておきたい。他方基本的な考え方としては、各宗派のエッセンスに近付けば近付くほど、「普遍的」な「理念」が導きだされるのではないかと思う。次章ではそうした前提に立ち、ヒンドゥー教のみならず仏教の教えの基底にもなった「ウパニシャッド」について、ヨーガとの接点も含めて考えてみたい。
◇◇◇
前稿⑩「人間の平等とバラモン」にても触れた通り、基本的にウパニシャッドにおいて「人間の平等」ということは読み取れない。それだけでも普遍宗教にはなり得ないと筆者は感じているのだが、この「普遍宗教」という観点から、中村元氏(以下、著者)がウパニシャッドをどのように捉えているのか、『ウパニシャッドの思想』(以下、同書)から探って行きたい。以下、第11章の「現実の倫理的規範」と題する部分から引用する。
◇◇◇
ウパニシャッドに説かれている倫理は、まだ貨幣経済以前の段階のものである。
『希望によって輝いて、・・・記憶はもろもろの聖句を唱え、もろもろの祭式を実行に、息子たちと家畜ともを欲し、この世とかの世とを欲する。』
農耕に従事していた当時の人々にとってもっとも大切な財産は、男性の子孫と家畜どもであった。かれらはともに労働力を提供するからである。倫理説も、そういう視点から述べられているのである。そして、ウパニシャッドは、人間生活の世俗的な側面とも無関係ではなかった。古代の諸学問が列挙されている。
ウパニシャッドの哲人たちはいかに新しいことを考えついたとしても、依然として伝統的なバラモン教の呪縛のうちにあった。だからバラモンに対して施与するということがとくに称賛されている。・・・
これは『リグ・ヴェーダ』以来称讃されていることであるが、バラモンが社会の中心的指導者であり、しかも一般民衆の信施を受けて生活していたのに対して、それに反抗するだけの気力はなかったのである。それにはジャイナ教や仏教の出現をまたなければならなかった。
◇◇◇
ウパニシャッドの倫理は、貨幣経済以前の段階のものであり、経済が農耕中心の時代にあって、その倫理観が「生活の基盤」に向けられていたのは、ある意味当然であろう。更にウパニシャッドの哲人といえども、一般民衆の「お布施」で生活していたわけであり、自分の生活を危険に晒してまで、当時の風潮に逆らうことまではしなかったと理解できる。
さらに著者は、ウパニシャッドは現世享楽的生活理想と現世超越的生活理想の両方を容認していたと説き、その根拠を引用する。
◇◇◇
『<現世享楽的生活理想>食物はじつにプラジャーパティ(筆者註:造物主)である。それからじつにこの精子から生じる。それからこの生きものどもが生じる。かのプラジャーパティの[交会に関する]掟を実行する人々は男女の子どもたちを生む。この尊い世界はじつにかれらに属する。
<現世超越的生活理想>しかし苦行あり、清浄行あり、[男女関係を断ち、]かれらのうちに真実が安住しているならば、かれらにとってはこの塵汚れを離れた尊い世界がある。そこには邪曲もなく、虚偽もなく、奸計もない。』
そうしてこのウパニシャッドは両方の生活理想を容認していたのである。
古いウパニシャッドに出てくる有名な哲人または修行者の実践は、どちらかというと現世超越的であった。しかし家族生活の内に留まっている一般世人のための倫理は、現世肯定的であり、世俗的な報いを期待していたのであった。
◇◇◇
そして、次にウパニシャッドにおける「普遍宗教」と人間の「徳」の問題を著者は次のように語る。
◇◇◇
しかしやがては普遍宗教の倫理となって展開するであろうと思われるような、人間の<徳>も説かれている。ある場合には、ダという字音を含む三つの教えが説かれている。すなわち、「汝らは自己をつつしめ」(damyata)、「汝らは与えよ」 (data)、「汝らは憐れみをもて」 (dayadhvam)。この倫理が発展すれば、やがて普遍宗教の倫理説が成立する。
ヴェーダの宗教においては、祭祀を執行してくれたバラモンに対して牛などの財物を与えることが祭祀の謝礼であるとされていた。ところがウパニシャッドでは、そのかわりに精神的な徳を守ることが真の謝礼であると説いている。
『そして、苦行・施与・正直・不傷害・真実のことば - それらがかれの[バラモンに対する]祭祀の謝礼である。』
まさに仏教の最初期において真の祭祀の意義を換骨堕胎して説く方向に向かって、一歩を進めているのである。
◇◇◇
つまり著者は、ウパニシャッドにあって、普遍宗教の倫理的なものが、その萌芽として兆し始めていると説いているが、裏を返せば、未だ完成の域には達していないと見ているのであろう。著者は更に続ける。
◇◇◇
具体的な倫理に関しては、仏教以前の古いウパニシャッドの中に説かれていることは割合に少ない。バラモンである師が同じくバラモンである弟子に対して教えるべきことがらが次のように規定されている。
『ヴェーダを教授し終わってのち、師はさらに弟子に教えていった、
「真実を語れ。正しきこと(ダルマ)を行え。[ヴェーダの]学習を怠ることなかれ。師に好ましき財宝を贈って、子孫の系統を断つことなかれ。真実を怠ることなかれ。勤めを怠ることなかれ。幸福をないがしろにすることなかれ。繁栄を怠ることなかれ。学習と教授とを怠ることなかれ。神々および父祖に対してなすべき義務を怠ることなかれ。母を神として敬え。父を神として敬え。師を神として敬え。客を神として敬え。非難なき行いのみを実践すべし。そのほかの行いを実践してはならない。われらにとって良い行いのみを、汝は遵奉すべし。そのほかの行いを遵奉するなかれ。われらよりもすぐれたバラモンがいたならば、汝はかれらに席を与えることによって、かれらを休養せしむべきである」と。』
『母を神として敬え。父を神として敬え。師を神として敬え』ということは、とくに有名な文句であって、今日でもインド人が一般に遵奉すべき句と考えられている。父よりも母を先にあげることは仏典にも現れているが、これはドラヴィダ人など母系的家族制度の影響である。
親に対する孝の徳は、インドでは伝統的に遵奉されていて、西洋におけるよりも度が強いが、しかしその要請は人類全体に通ずるものであるということができるであろう。・・・
◇◇◇
更に著者は、「ウパニシャッドは万人に訴える実践的意欲が弱い。その点でウパニシャッド信奉者はいわば窮地に陥っている」とし、インド最大の私学、「インド学院」の掲げている紀要に掲げた次の「句」を例示している。
◇◇◇
『万人が幸せであれかし。万人が無病であれかし。万人がよきことを見よ。なんぴとも苦しみを受けることなかれ。 ウパニシャッドにもとづいた平和讃歌』
この文章はウパニシャッドの中には見当たらない。・・・
とくに注目すべきことは、ウパニシャッドは、仏教やジャイナ教の明言し強調する普賢的な不傷害(アヒムサー)ということを説いていない。[前掲の不傷害の説はバラモン教の祭祀には適用されない。祭祀の場合には動物を殺すのである。] 普遍宗教にとって本質的なものを欠いているのである。
◇◇◇
上記引用の最後の部分が、著者の結論と考えてよかろう。つまりウパニシャッドは、アートマン、ブラフマン、梵我一如、解脱といった基本的な概念を成立させることには多大な貢献があったものの、前稿に挙げた「カースト制度」(人間の平等)の問題に加え、「不傷害」に関する不徹底など、普遍宗教に必要となる重要な要件を欠いていると見て良いであろう。
PS(1): 尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
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もっとも、ヴィヴェーカナンダは、いかなる単一宗教も普遍宗教にはなり得ないと明言しており、ヒンドゥー教にも様々な宗派があるので、ここでヒンドゥー教の各宗派全てを一概に否定するものではないことを先ずお断りしておきたい。他方基本的な考え方としては、各宗派のエッセンスに近付けば近付くほど、「普遍的」な「理念」が導きだされるのではないかと思う。次章ではそうした前提に立ち、ヒンドゥー教のみならず仏教の教えの基底にもなった「ウパニシャッド」について、ヨーガとの接点も含めて考えてみたい。
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前稿⑩「人間の平等とバラモン」にても触れた通り、基本的にウパニシャッドにおいて「人間の平等」ということは読み取れない。それだけでも普遍宗教にはなり得ないと筆者は感じているのだが、この「普遍宗教」という観点から、中村元氏(以下、著者)がウパニシャッドをどのように捉えているのか、『ウパニシャッドの思想』(以下、同書)から探って行きたい。以下、第11章の「現実の倫理的規範」と題する部分から引用する。
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ウパニシャッドに説かれている倫理は、まだ貨幣経済以前の段階のものである。
『希望によって輝いて、・・・記憶はもろもろの聖句を唱え、もろもろの祭式を実行に、息子たちと家畜ともを欲し、この世とかの世とを欲する。』
農耕に従事していた当時の人々にとってもっとも大切な財産は、男性の子孫と家畜どもであった。かれらはともに労働力を提供するからである。倫理説も、そういう視点から述べられているのである。そして、ウパニシャッドは、人間生活の世俗的な側面とも無関係ではなかった。古代の諸学問が列挙されている。
ウパニシャッドの哲人たちはいかに新しいことを考えついたとしても、依然として伝統的なバラモン教の呪縛のうちにあった。だからバラモンに対して施与するということがとくに称賛されている。・・・
これは『リグ・ヴェーダ』以来称讃されていることであるが、バラモンが社会の中心的指導者であり、しかも一般民衆の信施を受けて生活していたのに対して、それに反抗するだけの気力はなかったのである。それにはジャイナ教や仏教の出現をまたなければならなかった。
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ウパニシャッドの倫理は、貨幣経済以前の段階のものであり、経済が農耕中心の時代にあって、その倫理観が「生活の基盤」に向けられていたのは、ある意味当然であろう。更にウパニシャッドの哲人といえども、一般民衆の「お布施」で生活していたわけであり、自分の生活を危険に晒してまで、当時の風潮に逆らうことまではしなかったと理解できる。
さらに著者は、ウパニシャッドは現世享楽的生活理想と現世超越的生活理想の両方を容認していたと説き、その根拠を引用する。
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『<現世享楽的生活理想>食物はじつにプラジャーパティ(筆者註:造物主)である。それからじつにこの精子から生じる。それからこの生きものどもが生じる。かのプラジャーパティの[交会に関する]掟を実行する人々は男女の子どもたちを生む。この尊い世界はじつにかれらに属する。
<現世超越的生活理想>しかし苦行あり、清浄行あり、[男女関係を断ち、]かれらのうちに真実が安住しているならば、かれらにとってはこの塵汚れを離れた尊い世界がある。そこには邪曲もなく、虚偽もなく、奸計もない。』
そうしてこのウパニシャッドは両方の生活理想を容認していたのである。
古いウパニシャッドに出てくる有名な哲人または修行者の実践は、どちらかというと現世超越的であった。しかし家族生活の内に留まっている一般世人のための倫理は、現世肯定的であり、世俗的な報いを期待していたのであった。
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そして、次にウパニシャッドにおける「普遍宗教」と人間の「徳」の問題を著者は次のように語る。
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しかしやがては普遍宗教の倫理となって展開するであろうと思われるような、人間の<徳>も説かれている。ある場合には、ダという字音を含む三つの教えが説かれている。すなわち、「汝らは自己をつつしめ」(damyata)、「汝らは与えよ」 (data)、「汝らは憐れみをもて」 (dayadhvam)。この倫理が発展すれば、やがて普遍宗教の倫理説が成立する。
ヴェーダの宗教においては、祭祀を執行してくれたバラモンに対して牛などの財物を与えることが祭祀の謝礼であるとされていた。ところがウパニシャッドでは、そのかわりに精神的な徳を守ることが真の謝礼であると説いている。
『そして、苦行・施与・正直・不傷害・真実のことば - それらがかれの[バラモンに対する]祭祀の謝礼である。』
まさに仏教の最初期において真の祭祀の意義を換骨堕胎して説く方向に向かって、一歩を進めているのである。
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つまり著者は、ウパニシャッドにあって、普遍宗教の倫理的なものが、その萌芽として兆し始めていると説いているが、裏を返せば、未だ完成の域には達していないと見ているのであろう。著者は更に続ける。
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具体的な倫理に関しては、仏教以前の古いウパニシャッドの中に説かれていることは割合に少ない。バラモンである師が同じくバラモンである弟子に対して教えるべきことがらが次のように規定されている。
『ヴェーダを教授し終わってのち、師はさらに弟子に教えていった、
「真実を語れ。正しきこと(ダルマ)を行え。[ヴェーダの]学習を怠ることなかれ。師に好ましき財宝を贈って、子孫の系統を断つことなかれ。真実を怠ることなかれ。勤めを怠ることなかれ。幸福をないがしろにすることなかれ。繁栄を怠ることなかれ。学習と教授とを怠ることなかれ。神々および父祖に対してなすべき義務を怠ることなかれ。母を神として敬え。父を神として敬え。師を神として敬え。客を神として敬え。非難なき行いのみを実践すべし。そのほかの行いを実践してはならない。われらにとって良い行いのみを、汝は遵奉すべし。そのほかの行いを遵奉するなかれ。われらよりもすぐれたバラモンがいたならば、汝はかれらに席を与えることによって、かれらを休養せしむべきである」と。』
『母を神として敬え。父を神として敬え。師を神として敬え』ということは、とくに有名な文句であって、今日でもインド人が一般に遵奉すべき句と考えられている。父よりも母を先にあげることは仏典にも現れているが、これはドラヴィダ人など母系的家族制度の影響である。
親に対する孝の徳は、インドでは伝統的に遵奉されていて、西洋におけるよりも度が強いが、しかしその要請は人類全体に通ずるものであるということができるであろう。・・・
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更に著者は、「ウパニシャッドは万人に訴える実践的意欲が弱い。その点でウパニシャッド信奉者はいわば窮地に陥っている」とし、インド最大の私学、「インド学院」の掲げている紀要に掲げた次の「句」を例示している。
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『万人が幸せであれかし。万人が無病であれかし。万人がよきことを見よ。なんぴとも苦しみを受けることなかれ。 ウパニシャッドにもとづいた平和讃歌』
この文章はウパニシャッドの中には見当たらない。・・・
とくに注目すべきことは、ウパニシャッドは、仏教やジャイナ教の明言し強調する普賢的な不傷害(アヒムサー)ということを説いていない。[前掲の不傷害の説はバラモン教の祭祀には適用されない。祭祀の場合には動物を殺すのである。] 普遍宗教にとって本質的なものを欠いているのである。
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上記引用の最後の部分が、著者の結論と考えてよかろう。つまりウパニシャッドは、アートマン、ブラフマン、梵我一如、解脱といった基本的な概念を成立させることには多大な貢献があったものの、前稿に挙げた「カースト制度」(人間の平等)の問題に加え、「不傷害」に関する不徹底など、普遍宗教に必要となる重要な要件を欠いていると見て良いであろう。
PS(1): 尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
PS(2):『ヴォイス・オブ・ババジ』の日本語訳がアマゾンから発売されました(キンドル版のみ)。『或るヨギの自叙伝』の続編ともいえる内容であり、ババジの教えなど詳しく書かれていますので、興味の有る方は是非読んでみて下さい。価格は¥800です。