アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

集中 人生を神聖化する

2020年07月23日 11時35分31秒 | クリヤーヨーガ・ジャーナル
集中 人生を神聖化する

KYJ 2020 Summer 
By M.G.Satchidananda

 人生に選択はつきものだ。通常我々は、生活する文化圏の慣習と個人的な習性や傾向によってその選択は決定されている。文明(Culture)という言葉は、礼拝あるいは最も高く評価するというラテン語のCulteに由来する。現代文明において、もっとも高い価値が与えられるのは物質的なもの、個人の自由、消費、娯楽、安逸だ。

 今日(こんにち)母なる自然はコロナウィルスのパンデミックによって我々の物質文明に異議を唱えている。このことは我々一人ひとりに、優先順位、価値、文化を再評価する良い機会を与えている。気候変動とパンデミックのような展開から来る人類に対する生存の危機は物質文明の行きすぎに起因する。個人的にも全体としても、質の悪い食事、排出物、大気汚染、物質主義から生じる社会的・精神的な病弊によって我々自身を死に追いやっている。そういうわけで、我々自身を癒し、種として存続するために母なる自然は今、物質文明を諦めるか、さもなければ死を、という選択肢を与えている。個人的にも全体としても、今は生活すべてを神聖にする時だ。何であれそれを神聖にするというためには、それを全一なるものの一部で、その微粒子として見、そして扱う必要がある。そのことは、すべてのものがそこから生じ、すべてのものがそこに消え去って行き、時間に拘束されない至福の意識の無限に広がる空間である「それ」に集中することを必然的に含む。

 一つのものがどのように多くのものになり、多くのものがどのように「一つ」になることができるのだろうか? この疑問に対しヨーガは哲学や聖典に拠らず、ワンネスを経験することを可能にする技法で答えてくれる。一点或いはビンドゥー或いはマントラ・オームのような聖音、或いは種の音節であるビージャマントラに集中することで、ヨーギは36の階層すなわちタットヴァとして知られる自然現象の原理を突き抜け、「それ」即ち絶対的存在・意識・至福と自らを同一視する。

 この俗世の生活から神聖で内在する実在への浸透は、ヨーガの修行者が集中力のみならず世俗的な生活との関係を断つための能力と純粋さを開発した時に生じる。安逸、注意力散漫、時間の無駄、些細な興味や感情的な衝動に精神力を分散させる生活上の癖と同様、煩わしい記憶(ヴァーサナ)と否定的な習慣(サンスカーラ)の形での条件付けを切り離すことから始め、ヨーガの修行者はサーダナの目的を追求する。サーダナとは、「自分とは誰か」を思い起こさせ、自分自身でないものとの誤った同一視を手放すために行われるすべてだ。

浄化の手段としてのヨーガ:タパス
 「私は誰なのか?」「どうしたら神を知ることができるのか?」「苦しみの多い俗世の中でどうしたら永続する幸せを見出せるのか」という人生に関する重要な問題は、偉大な霊的な伝統に拠れば、浄化のプロセスによってのみ答えられる。自身を肉体とマインドと同一視するという真我に対する無知とエゴイズムのため、人間として我々は重大な欠陥を持つ。我々の執着と反感はさらなる苦しみをもたらす。ヨーガはこうした人間の不完全さを克服するための実践的手段を提供する。ヨーガは多くの異なった視点から説明可能だが、もっとも役立つ視点の一つは、ヨーガを自己浄化の完全なシステムとして見ることだ。タパス即ち禁欲生活は、性癖の傾向からくる限界を克服することによって自身を浄化するための誓い・意志力・忍耐を用いる。パタンジャリによれば、「タパス(禁欲生活)によって肉体と感覚の不純物が消滅して完全さが達成される」。

 タパスは何らかに対する耽溺を自ら拒絶する意図、すなわち誓いから始まる。その対象は、肉体的な喜び、ある種の食べ物、安易なセックス、テレビあるいは瞑想しているときであれば不要な動きをすることなど、何でも良い。それはある特定の執着または反感から、あるいは「私はこの感情・感覚・想念だ」とのあらゆる考えや感情から一歩引きさがり、それを手放すことを含む。これはヴァイラーギャ即ち無執着として知られている。これは努力と意思力、そして長期に亘る絶え間ない繰り返しを必要とする。

真我実現の手段としての集中力
 集中力即ち意思の力とは単に特定の対象物や仕事にマインドを集中するための力というだけではなく、真我実現の手段だ。幾つかの理由により、古典ヨーガやタントラのような秘教的伝統において集中力は高く評価されている。それは執着や反感の結果生じる苦しみなどを含むマインドの精神的・感情的な動きを突き抜けることを容易にする。その内から現れ、その内に消える「それ」との親しい交流或いは静寂の状態をもたらす。この静寂の中でエゴイスティックな視点を超越し真我が現れる。それは、現在と未来のカルマという運命の決定要素、すなわち潜在的な癖や傾向の影響から人を解放する。

 規則正しい集中力の開発からもたらされるそうした恩恵は、パタンジャリがヨーガスートラの中で強調している継続的で一貫した無執着の養成と結合したとき、徐々にそして漸進的に生じる。この無執着を通じた浄化法は古典的なヨーガと、その目的がパワーを獲得することを必然的に含む呪術的・魔術的な伝統とを区別している。そのような伝統は様々な欲望を満たすためのパワーを求めるものだ。古典ヨーガのような叡智の伝統は、叡智すなわち智慧を求める。つまり真我と、肉体・マインドからなる人格とを区別し、永遠のものと永遠でないものを区別し、苦悩の源と喜びの源とを区別する能力である。

集中力(ダーラナ)を養うためのパタンジャリの行程
 パタンジャリは集中力を養うための六段階の行程を処方している。それらは集中力即ちダーラナを養成するための手段としてのヤマ(禁戒)、ニヤマ(勧戒)、アーサナ(坐法)、プラーナヤーマ(調息法)、プラティアハーラ(制感)である。この養成する(cultivate)という言葉の語源は前出のculteであることに留意のこと。

 不傷害・正直・性的純潔・不盗・不貪の五つの社会的な禁止事項であるヤマと同様、すべてのヨーガの技法は全く同一の振る舞いを求めるものだ、それは人間的な性質が我々に行うよう働きかけることとはまさに正反対のことをするということだ。(これらに関する詳細な説明は、E-Book Opposite Doing「反対の行動」を参照)

 ニヤマ(勧戒)は、特にヴァイラーギャつまり無執着の熱烈で絶え間ない修練即ちタパス、真我探求即ちスヴァディヤーヤ、目撃者である真我の視点に対してエゴ(自我)の視点を明け渡すことだ。

 アーサナの修練の目的は、緊張のない安定した状態を作り上げることだ。パタンジャリは次のように教えている。「緊張を緩和し、完全に一体になることによって(サマーディが確立される)。こうして人は二元性に影響されなくなる。」(YSII47-48)

 プラーナヤーマの修練に関しては、「その結果、(内なる)光を覆っていたヴェールが破壊される。そして、心が集中することに適するようになる」(YSII52-52)。これはヴェールの織り糸が一本ずつ取り除かれて行くように、プラーナヤーマは全体として内なる闇を作り上げている想念を一つずつ取り除く効果を持つ。それによって表面に現れるのは内在する意識の「光」だ。従って内なる光を経験すること自体が最終目的なのではない。マインド・肉体・呼吸が鎮まるにつれ集中は容易になる。

 プラティアハーラ即ち制感は、「五感が自らの対象物から離れ、いわば、意識というそれら本来の姿を帯びた時」(YSII54)生じる。そうでなければ、例えばもし暑いと感じたら、その者は「私は暑い」と言い、真我即ち我々の真の正体を忘れる。例えば目を閉じ、注意を散逸させず心地よく座ることで五感の動きを制御する時、意識は外界の感覚の対象との同一視を停止し、五感は意識そのもののようになる。それは形がなく静かで内に集中した状態だ。五感は鏡のようなもので、外に向けられると諸々の形の世界を反映し、内に向かうと純粋で形のない光を反映する。これは瞑想で座っているときのみならず、日常生活の中での識別を必要とする。余暇の活動として、我々の最高の理想を自身に思いおこさせることを選び、不健全な欲望を刺激したり否定的な傾向を助長したりするようなことを避けることでそれを養うことができる。

 ティルマンディラムは第578節から始まり、10節で制感(プラティアハーラ)の問題を取り上げている。

一歩一歩制感の修練を行い
内に向かう
一つ一つ多くの良きものを内に見る
そしてそこで汝は「主」にまみえん
今、ここで、この後も


タントラのサーダナの手段としての集中と人生すべての神聖化
 古典ヨーガとタントラは人生の物質的な次元と霊的な次元を統合することを意味し、それを促進する教えと技法について言及している。ヨーガでダーラナと呼ばれる集中は、すべての技法にとって基礎的な必須要件だ。

 このプロセスは或るものにとって自身の行為を志向の存在への献げ物とすることから始まるかもしれない。ギーターの中でクリシュナがこのように述べている。「汝のすべての行為を私への献げ物とせよ」。これがカルマ・ヨーガだ。献身的あるいは熟考型の性質の人々は、バクティとラージャ・ヨーガから始めても良い。クリシュナは我々に対し、自分(クリシュナ)に集中するようにと熱心に勧める。ギーターの中で彼はこのように説く。「アルジュナよ、それは至高の存在であり、他ならぬ私(クリシュナ)への信愛(バクティ)によって得られる。万物はその中に在り、それによって全世界は(蜘蛛の巣のように)展開している」(8章―22)

 ここで彼は、これを執着として非難してはならない、というのもこれは単にマインドを向ける方向を意味するからだ。問題となるのはマインドが物事に執着することだけだ。俗世のことがらに対する執着は真我の疎外をもたらすので、我々の本性の要求を充たすためにはただ一つの方法しかない。これは我々のマインドを神に結び付け、神から流れ出てそこに行き着く激しい逆流に沿って自身を前進させることだ。かくして感官の多くの対象を追い求めるにまかせてマインドの力を費消するのではなく、マインドに集中し、マインドを至高の存在に向けなければならない。我々は、内にあって上方に向かう一つの大きな力の中に無数の欲望を溶け込ませなければならない。欲望は我々のエネルギーを拡散させる遠心力なのだ。

 タントラのサーダナは二つの段階からなる。その(1)は人間存在を神聖化・宇宙化すること、その(2)は、太陽と月、イダーとピンガラー、シヴァとシャクティ、好きと嫌い、怠惰と活動といった反対のものを合一させることを通して宇宙を超越しそれを破壊することだ。

 集中は、世俗的な生活から神聖な生活に向かう、人間を宇宙化する手段となる。俗悪な人間生活から退くことで、ヨーギはより深く、より本物の人生を見出すが、それはまさに宇宙的生活だ。実に最初のヨーギの段階を人間の宇宙化に向かう努力ということができる。生物的・感情的な人生の混沌を秩序だったものにするため、アーサナからダーラナ(集中)に至るまで、心理的・生理学的ヨーガの技法すべての中にその意図を見ることができる。

 ヨーガの修行者は集中により、意識の流れを固定化し、壊れた心の連続体を認知し、想念を統合することを求める。ヨーガの技法の内最も初歩的なアーサナですら、自身の体の全体性を意識し、一体感を感じるという同様の目標を持つ。上級の技法は肉体の九つの穴、生気体にあるエネルギーの通り道であるチャクラ、イダー、ピンガラー、スシュムナー・ナーディに対し、マントラと視覚化によって集中することを必然的に含む。生活を単純化すること、静けさ、穏やかさ、落ち着いた姿勢、リズミカルな呼吸、一点集中、こうした修練のすべては多様性と断片化を避け、再統合し、一体化し、完全にするという同一の目標を追求するものだ。

あなたの家をアシュラム、神聖な場としなさい。
 どこから始めるべきか? その環境整備に取り掛かることのできる家庭での日常生活に気づきを取り入れることに集中しなさい。あなたの人生の絶頂期と最悪期、苦痛に満ちた瞬間と喜びの瞬間、幸福な時と不幸な時、常に平常心を養うことであなたは徐々にヨーギになるだろう。我々はもっと多くのアシュラムを必要としている。アシュラムの定義はヨーギの住居だ。だからヨーギになりなさい、そうすれば自動的にあなたの家はアシュラムになる。「私は常に穏やかに活動的であり、活動的に穏やかだ」と自己暗示をかけなさい。

 あなたはマインドではない。あなたはマインドを所有しているのだ。あなたは存在・意識・至福、つまりサッチダナンダだ。そしてこれを完全に悟るため、あらゆる瞬間に、あなたは意識のゲーム、不断の「真我」の気づきをしなければならない。ババジのクリヤーヨーガにおいては、あらゆる瞬間に、そして存在のあらゆるレベルで気づきを養うことを可能とするクリヤーの多くの技法が教えられる。それらには、我々の存在の肉体の次元でのアーサナ、生気体の次元でのプラーナヤーマ(調息法)、感情体の次元でのディヤーナ(瞑想法)、知性体次元でのマントラ、霊的次元での献身的なバクティ・ヨーガを含む。これは単に霊的あるいは垂直方向の進歩にとどまらず、統合的な成長とすべてのレベルにおける究極の完成、即ちシッディをもたらす。

 何時そしてどのようにこれを始めるのか? あなたが忘れない限りできるだけ頻繁にだ。それはあなた次第だ! すべてのヨーガのサーダナ即ち修練は、次のように要約できる。それは、あなたが何者であるかを思い起こすすべてであり、あなたが同一視すべきでないものを手放すためのすべてだ。この瞬間多分あなたは家でこの記事を読んでいることだろう。あなたがこの文章を読むとき、あなたは自身の意識の一部を目撃者として引き下げ、あなたのマインドがこれらの言葉を読んでいるのをみることができるだろうか? あなたは自身の意識を二つにわけたままでいることができるだろうか? そのうちのひとつは見ること、聞くこと、行うこと、考えること、感じることで、もうひとつは単にすべてが行われているのに気づいているだけだ。もしそうであれば、あなたは瞬間ごとに至福を見出すだろう。あなたが気づいているときはいつもこの至福を得ている。この「意識のゲーム」は遊ぶ価値のある唯一のゲームだ。あなたがそれで遊ぼうと思いだしたときは常にあなたが勝ち、目撃者でいることを忘れたときはいつも、あなたは苦しみ、負ける。仮にあなたのカルマが、玄関口に腐ったトマトではなく、バラを運んできたとしても、もしあなたがそのドラマに夢中になってしまうのなら、マインドはすぐに、それはいつ終わるのだろうかと心配し始め、苦しむ。

 それゆえ、あなたの家をあらゆる瞬間にこのヨーガの修練を行う場所としなさい。我々は家で何をするのか? 食べ、眠り、顔を洗い、寛ぎ、遊び、家事をする。ババジのクリヤーヨーガで教えられた通り気づきの修練を行う間、これらすべての行動の間中、集中していなさい。以下はこれらのそれぞれの領域における具体的な提言だ。

1. 食事時間:食事につく際、その準備に取り掛かるところから始めて、それを神聖な時間にしなさい。献身歌を歌うかマントラを唱え、食材を刻むとき、料理するとき、テーブルに出すとき気づきを養いなさい。食卓についたとき、祈り即ち食事に対する感謝のマントラを唱えなさい。Ahm Hreem Kram Swahaa, Chitrya Chitra guptraya yamarupy drya Om Tat Sat Om Kriya Babaji Nama Aum. 経験しているすべてを観察する練習をしながら、一口ずつしっかりと噛みなさい。皿を洗い、ごみを出すときですら、この真我に対する気づきを養い続けなさい。
2. 家事と請求書の支払い:「清潔は敬神に次ぐ美徳なり」という古い格言はここにも当てはまる。何時神を迎えても良いかのようにあなたの家を保ちなさい。整然とし、明るく清潔な空間を整えることで、あなたは自身の中により多くの落ち着きを経験するだろう。これを実行しようと努めるとき、気づきを養いなさい。あなたの収入に応じて経費を予算化すること、そしてそれを請求期限に支払うことの学びを通じてあなたは多くのストレスを避け、(督促など)煩わしい反応からマインドを解放するだろう。
3. 入浴と着替えの時間:日々のヨーガのポーズの練習という儀式のとき、入浴と着替えのとき、あなたのマインドを内に向ける訓練をしなさい。あなたの意識の一部を五感とマインドの動きに巻き込まれることから引き下げ、一度に一つのことをしなさい。
4. 子供との遊び:あなたの子供は、どのように自発性と笑いを取り戻し、現在に止まるかを教えることができる。あなたが人生において何を愛しているのかを彼らと分かち合う機会を作り、彼らが自身を表現するように仕向けなさい。彼らのみならず、自身のマインドの反応や内なる対話に対しても良い聞き手となりなさい。単なる行為者ではなく、目撃者でありなさい。
5. 友人との集い:スピリット(霊)は無形であり、本当により重要になるのは、本来あなたが「誰」であるのかだということを思い起こし、サットサンガ即ち真理の集いに同じ考え方を持つ友人たちを招待しなさい。サットサンガは、これまでに感謝し、または理解を深めたこと、歌、聖歌、親睦、瞑想、アーサナ、食事、どんな表現やジェスチャーでも愛情や親近感を現す最高のものを分かち合う形のものが効果的だろう。
6. 睡眠を徐々にヨーガの休息に替えるためにヨーガ・ニドラを練習しなさい。あなたが疲れ切っていないときの意識的な休息から始め、そうすることで眠り込んでしまうリスクを軽減しなさい。あなたの意識を真我の気づきの状態にとどめ、肉体の次元から退くことなく肉体は休むに任せることを学びなさい。

 こうした行動の最中も真我の気づきに集中することで無条件の喜びあるいは至福を経験し、すべてが神聖なものになる。至福即ちアーナンダは、外部の環境が納得できるかどうか、あなたが欲するあるいは欲しないものを入手するかどうかに依存しているわけではない。それはただあなたが、すべてのものがどのように存在するかの気づきの中で、現在にとどまることにのみ依存している。

以上
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