宗教間の対立は現代においても依然として止む事なく、国際政治においても暗い影を落としているが、ガンジーもこの問題に就いて、様々な局面で大変な苦労したことが、『ガンジー自伝』(以下、同書)から読み取れる。その一部を引用する。
◇◇◇
わたしは南アフリカで早くから、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間に、純粋の友情がないことに気づいていた。わたしは、融和の途上にある障害を取り除こうとして、機会と言う機会は一つとしてのがしたことはなかった。追従を言ったり、または自尊心を傷つけてまで人をなだめることは、わたしの性分からいって出来ないことだった。しかし、南アフリカでのわたしの経験は、非殺生(アヒムサ)が最も厳しい試練にかけられるのは、このヒンドゥーとイスラム両教徒の融和の問題であろうということ、そしてこの問題は、わたしの非殺生の実験に最大の場を提供してくれることを、わたしに信じさせたのだった。この信念は、いぜんとして残っている。生涯を通じてつねに、神がわたしを試練にかけておられることを知った
◇◇◇
次の引用に移る前に、ここで少し「キラファット問題」の解説をする必要がある。同書の訳注から手短に引用すると、キラファットとはカリフ(イスラム教主)制度のことで、トルコのサルタンが兼ねていた。ところが第一次大戦でドイツが負けると、ドイツに味方したトルコのカリフ制度を廃止することに英国など連合国側の意見は一致したが、インドのイスラム教徒は英国に反対し、カリフ存続の運動を起こしたものだ。以下、彼らというのは、イスラム教徒を指す。
◇◇◇
もしも彼らの要求に非道徳的なものがなければ、わたしとしては、この問題の功罪そのものに立ち入る気はなかった。宗教について言うと、おのおの信仰は異なる。そして各自の信仰が、彼自身にとっては至高なのである。もしもすべての人が、宗教上のすべての問題で同じ信仰を持っていたならば、この世にはたった一つの宗教しかないだろう。時がたつにしたがって、わたしは、キラファット問題に関するイスラム教徒の要求は少しも道徳上の原理に反しないばかりか、イギリスの首相すらもイスラム教徒の正しさを承認していたことを知った。
◇◇◇
上記引用の中で、特に筆者が注目した点は、「宗教について言うと、おのおの信仰は異なる。そして各自の信仰が、彼自身にとっては至高なのである。」の部分である。これはまさに「信仰所成」という重要なテーマでもあり、ギーター(17章-3)には次のように書かれている。
◇◇◇
アルジュナよ、すべての者の信仰はその心性に対応する。人間というものは信仰よりなる。ある人がある信仰を抱く場合、かれはその[信仰に対応する]者に他ならない。
◇◇◇
これは空海の言う「十住心論」(これは稿を改めて詳しく説明する予定)を彷彿させるものであるが、これは主として、信仰に対する姿勢、或いは熱心さの違いを言うものである。一方ガンジーが直面しているのは、それ以前に、どの「神」を信じるのかという問題で、インド国内の長い歴史を経て生じた問題なので、いっそう始末が悪い。ガンジーは、同書の最後の章で、政治と宗教の関係について次にように言っている。
◇◇◇
普遍的な、そしてすべてに内在する真実の精神に直面するためには、人は最も微々たる創造物をも、同一のものとして愛することが可能でなければならない。しかも、それを追及する人は、あらゆる生活の分野から離れていてはならないのである。これが、真実に対するわたしの献身が、わたしを政治運動の分野のなかに引き込んだ理由である。しかもわたしは、なんのためらいもなしに、またきわめて謙虚な気持ちで、宗教は政治となんら関係がないと言明する者は、宗教の何であるかを知らない者である、と言うことができる。
◇◇◇
つまりガンジーは、政治の力でヒンドゥーとイスラムの融合を図りたいと思っていたようなのだが、上記の引用はインド独立の遥か以前に書かれたものなので、ここでその後のことに就いて少し解説を加えておく。ウィキペディアに因ると、ガンジーは「ヒンドゥーとイスラムが融合したインド」の理想を抱いており、「非暴力の思想はインドと距離的に近い西アジアなどでも見られ、アジアで生まれたヒンドゥー教、イスラム教、仏教、キリスト教でそれはあてはまり、アジアの思想に共通するという思想からガンジーは、自分はヒンドゥー教徒であり、イスラム教徒でもあり、また、原始キリスト教という意味ではキリスト教に賛同するとして宗教グループ間や世界の人々に対話を呼びかけた」とされている。しかしガンジーの「ヒンドゥーとイスラムが融合したインド」との思いは叶わず、「最終的にイスラム教国家のパキスタンとの分離独立となった。」ことは読者諸賢もご存知の通りである。
このように、異なる宗教の対立の問題はそう容易に解決できるものではないが、人類が幸せになる為には、どうしても宗教と信仰が必要なのである。仏陀は、原始仏典、「スッタニパータ」で次のように言っている(中村元氏の訳による)。
◇◇◇
この世では信仰が人間の最上の富である。徳行に篤いことは安楽をもたらす。実に真実が味の中での美味である。智慧によって生きるのが最高の生活であるという。(182節)
人は信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみを越え、智慧によって全く清らかとなる。(184節)
信仰あり在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれらの四種の徳があれば、かれは来世にいたって憂えることがない。
◇◇◇
「宗教」については、ババジ(ニーラカンタン)も次のように言っている。以下、ヴォイス・オブ・ババジ第二部(日本語訳は未刊)からの引用である。但し、筆者の下訳で、校正、監修などを経ていないものなので、意味の通じ難い部分もあると思うが、その点予めご承知おき願いたい。
◇◇◇
宗教は文明の魂そのものであり、教育宗教分離主義の乾いた砂の中でそれ自体を見失うべきではない。真の宗教は、紛争や不調和といった下位の力による作用を不可能にすることで平和の英雄を生み出し、国々の幸せな兄弟愛を築く。真の宗教はサッチダナンダの火を灯す、それは一人ひとりすべての者のハートに永遠に存在する神性の悟りだ。人が霊的な叡智において成長するにつれ、彼の意識は全宇宙が彼の住処となり、全人類が彼の家族になるまで拡大する。
学び、お互いを理解することは人生における偉大な技法であり、異なることに同意することは比較宗教学における最善の授業だ。多様性はそれが不調和まで深まる時にのみ脅威となる。多様性はそれが調和を生み出す時に人生を豊かにする。魂の霊的な滋養のため、あなたの中に真の要求を保ちなさい。人生の問題は科学の最新の発見によって解決できない。同じく、異なる信条のすべての伝道師を糾合しても、煽情的で低俗な本によっても、働かない頭脳によって紡ぎ出された企みもしくは俗世の如何なる雑音や新商品によっても解決不能である。それらは「不死」の印章を押されていない故、十分に深く(魂に)入り込まない。その類のアヘン吸引は、ハートの病を癒してくれない。肉体にとって生命とは何か? 頭にとって光とは何か、そしてハートにとって愛とは何か、それはあなたのすべてでなければならない。部分に対して全体とは何か、人間にとって人間性とは? そして生きものにとって存在とは何か、それは「あなた」である、ずっと永遠に。
◇◇◇
そして、ババジが言うには、真の宗教とは、言葉(教義)、儀式、慣例などを超越したものであると言う。以下もヴォイス・オブ・ババジ第二部からの引用である。
◇◇◇
「宗教とは、あなたの生きるその人生の中に見出すもので、あなたが話したり書いたりする言葉の中においてでもなければ、人々がそれを宗教と呼ぶ何か特別で外的な儀式的行為または慣例においてではない」とサットグルデーヴァ(筆者註:ババジを指す)は断言し、更に加える「世間一般の男女に対しては、奉仕や明け渡しを強調して奨めることはしない」もしあなたが、宗教について語られた最も恐ろしいことのイロハを知っているのであれば、落胆する必要はない。あなたの両親に仕えなさい。あなたのグルに、「神」に、妻に、子供たちに、友人や関係者(親類?)に、そして隣人に仕えなさい。すべてに仕えなさい。そこには何ら技巧は必要ない。ババジ御自身があなたを救い上げてくれるだろう。ババジ御自身がそう約束された。あなたの大師(筆者註:ババジを指す)に対する権利と要求は、あなたの「父」、あなたの「神」そしてあなたのすべてに対すると同様、彼に対するあなたの愛、奉仕、献身そして明け渡しに基づいており、そしてそれ相応のものになる。それを心に留め置きなさい。これまで筆者は、単なる外形上の処置(技法?)または礼拝、儀式、祈りの名前または形式、もしくは特別な地域とか神社(に行く)必要性についての重要性または必要性を脇に除けて来た。彼は世界的に必要とされる想念と言葉と行動における本質的な、すべての者に対する愛と奉仕、サットグルデーヴァババジへの献身、それを何という名前で呼ぼうが、或いは何の形をとると考えようが、「至高神」への忠誠と歓びにみちた無条件の自己の明け渡しの生活をおくることに深く言及してきた。ババジは厳しい試練や困難、そして裕福でも快適でもない生活環境の中で、俗世の人間としてそのような生活を立派に行き抜いた。
筆者は「神」と(ババジの)宗教に関する最も実際的で普通で単純な心理学に即した概念を定義した。(それは)最低限の資格と、要件と、サーダナであり、「最高」のなかの「最高」に至るこの真直ぐで単純で直接的なアプローチには、実質的に何の儀式も儀礼も必要とされない。「神」の属性である愛と慈悲は深く強調される。「神」は恐れられるものではなく愛すべきものだ。最悪の罪人と犯罪者ですら、矯正と償い(救い)を求めてババジを崇拝する権利を持つ。最も弱い子供は、その母親にとって最も気遣われるべきで、愛しいのである。
◇◇◇
こうした教えであれば、「世界宗教」になることが出来るのではないかと、筆者は思っている。そして今後とも本ブログで、このテーマに就いて更に思索を深めて行きたい。
PS(1): 尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
PS(2):『ヴォイス・オブ・ババジ』の日本語訳がアマゾンから発売されました(キンドル版のみ)。『或るヨギの自叙伝』の続編ともいえる内容であり、ババジの教えなど詳しく書かれていますので、興味の有る方は是非読んでみて下さい。価格は¥800です。
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わたしは南アフリカで早くから、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間に、純粋の友情がないことに気づいていた。わたしは、融和の途上にある障害を取り除こうとして、機会と言う機会は一つとしてのがしたことはなかった。追従を言ったり、または自尊心を傷つけてまで人をなだめることは、わたしの性分からいって出来ないことだった。しかし、南アフリカでのわたしの経験は、非殺生(アヒムサ)が最も厳しい試練にかけられるのは、このヒンドゥーとイスラム両教徒の融和の問題であろうということ、そしてこの問題は、わたしの非殺生の実験に最大の場を提供してくれることを、わたしに信じさせたのだった。この信念は、いぜんとして残っている。生涯を通じてつねに、神がわたしを試練にかけておられることを知った
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次の引用に移る前に、ここで少し「キラファット問題」の解説をする必要がある。同書の訳注から手短に引用すると、キラファットとはカリフ(イスラム教主)制度のことで、トルコのサルタンが兼ねていた。ところが第一次大戦でドイツが負けると、ドイツに味方したトルコのカリフ制度を廃止することに英国など連合国側の意見は一致したが、インドのイスラム教徒は英国に反対し、カリフ存続の運動を起こしたものだ。以下、彼らというのは、イスラム教徒を指す。
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もしも彼らの要求に非道徳的なものがなければ、わたしとしては、この問題の功罪そのものに立ち入る気はなかった。宗教について言うと、おのおの信仰は異なる。そして各自の信仰が、彼自身にとっては至高なのである。もしもすべての人が、宗教上のすべての問題で同じ信仰を持っていたならば、この世にはたった一つの宗教しかないだろう。時がたつにしたがって、わたしは、キラファット問題に関するイスラム教徒の要求は少しも道徳上の原理に反しないばかりか、イギリスの首相すらもイスラム教徒の正しさを承認していたことを知った。
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上記引用の中で、特に筆者が注目した点は、「宗教について言うと、おのおの信仰は異なる。そして各自の信仰が、彼自身にとっては至高なのである。」の部分である。これはまさに「信仰所成」という重要なテーマでもあり、ギーター(17章-3)には次のように書かれている。
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アルジュナよ、すべての者の信仰はその心性に対応する。人間というものは信仰よりなる。ある人がある信仰を抱く場合、かれはその[信仰に対応する]者に他ならない。
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これは空海の言う「十住心論」(これは稿を改めて詳しく説明する予定)を彷彿させるものであるが、これは主として、信仰に対する姿勢、或いは熱心さの違いを言うものである。一方ガンジーが直面しているのは、それ以前に、どの「神」を信じるのかという問題で、インド国内の長い歴史を経て生じた問題なので、いっそう始末が悪い。ガンジーは、同書の最後の章で、政治と宗教の関係について次にように言っている。
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普遍的な、そしてすべてに内在する真実の精神に直面するためには、人は最も微々たる創造物をも、同一のものとして愛することが可能でなければならない。しかも、それを追及する人は、あらゆる生活の分野から離れていてはならないのである。これが、真実に対するわたしの献身が、わたしを政治運動の分野のなかに引き込んだ理由である。しかもわたしは、なんのためらいもなしに、またきわめて謙虚な気持ちで、宗教は政治となんら関係がないと言明する者は、宗教の何であるかを知らない者である、と言うことができる。
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つまりガンジーは、政治の力でヒンドゥーとイスラムの融合を図りたいと思っていたようなのだが、上記の引用はインド独立の遥か以前に書かれたものなので、ここでその後のことに就いて少し解説を加えておく。ウィキペディアに因ると、ガンジーは「ヒンドゥーとイスラムが融合したインド」の理想を抱いており、「非暴力の思想はインドと距離的に近い西アジアなどでも見られ、アジアで生まれたヒンドゥー教、イスラム教、仏教、キリスト教でそれはあてはまり、アジアの思想に共通するという思想からガンジーは、自分はヒンドゥー教徒であり、イスラム教徒でもあり、また、原始キリスト教という意味ではキリスト教に賛同するとして宗教グループ間や世界の人々に対話を呼びかけた」とされている。しかしガンジーの「ヒンドゥーとイスラムが融合したインド」との思いは叶わず、「最終的にイスラム教国家のパキスタンとの分離独立となった。」ことは読者諸賢もご存知の通りである。
このように、異なる宗教の対立の問題はそう容易に解決できるものではないが、人類が幸せになる為には、どうしても宗教と信仰が必要なのである。仏陀は、原始仏典、「スッタニパータ」で次のように言っている(中村元氏の訳による)。
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この世では信仰が人間の最上の富である。徳行に篤いことは安楽をもたらす。実に真実が味の中での美味である。智慧によって生きるのが最高の生活であるという。(182節)
人は信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみを越え、智慧によって全く清らかとなる。(184節)
信仰あり在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれらの四種の徳があれば、かれは来世にいたって憂えることがない。
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「宗教」については、ババジ(ニーラカンタン)も次のように言っている。以下、ヴォイス・オブ・ババジ第二部(日本語訳は未刊)からの引用である。但し、筆者の下訳で、校正、監修などを経ていないものなので、意味の通じ難い部分もあると思うが、その点予めご承知おき願いたい。
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宗教は文明の魂そのものであり、教育宗教分離主義の乾いた砂の中でそれ自体を見失うべきではない。真の宗教は、紛争や不調和といった下位の力による作用を不可能にすることで平和の英雄を生み出し、国々の幸せな兄弟愛を築く。真の宗教はサッチダナンダの火を灯す、それは一人ひとりすべての者のハートに永遠に存在する神性の悟りだ。人が霊的な叡智において成長するにつれ、彼の意識は全宇宙が彼の住処となり、全人類が彼の家族になるまで拡大する。
学び、お互いを理解することは人生における偉大な技法であり、異なることに同意することは比較宗教学における最善の授業だ。多様性はそれが不調和まで深まる時にのみ脅威となる。多様性はそれが調和を生み出す時に人生を豊かにする。魂の霊的な滋養のため、あなたの中に真の要求を保ちなさい。人生の問題は科学の最新の発見によって解決できない。同じく、異なる信条のすべての伝道師を糾合しても、煽情的で低俗な本によっても、働かない頭脳によって紡ぎ出された企みもしくは俗世の如何なる雑音や新商品によっても解決不能である。それらは「不死」の印章を押されていない故、十分に深く(魂に)入り込まない。その類のアヘン吸引は、ハートの病を癒してくれない。肉体にとって生命とは何か? 頭にとって光とは何か、そしてハートにとって愛とは何か、それはあなたのすべてでなければならない。部分に対して全体とは何か、人間にとって人間性とは? そして生きものにとって存在とは何か、それは「あなた」である、ずっと永遠に。
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そして、ババジが言うには、真の宗教とは、言葉(教義)、儀式、慣例などを超越したものであると言う。以下もヴォイス・オブ・ババジ第二部からの引用である。
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「宗教とは、あなたの生きるその人生の中に見出すもので、あなたが話したり書いたりする言葉の中においてでもなければ、人々がそれを宗教と呼ぶ何か特別で外的な儀式的行為または慣例においてではない」とサットグルデーヴァ(筆者註:ババジを指す)は断言し、更に加える「世間一般の男女に対しては、奉仕や明け渡しを強調して奨めることはしない」もしあなたが、宗教について語られた最も恐ろしいことのイロハを知っているのであれば、落胆する必要はない。あなたの両親に仕えなさい。あなたのグルに、「神」に、妻に、子供たちに、友人や関係者(親類?)に、そして隣人に仕えなさい。すべてに仕えなさい。そこには何ら技巧は必要ない。ババジ御自身があなたを救い上げてくれるだろう。ババジ御自身がそう約束された。あなたの大師(筆者註:ババジを指す)に対する権利と要求は、あなたの「父」、あなたの「神」そしてあなたのすべてに対すると同様、彼に対するあなたの愛、奉仕、献身そして明け渡しに基づいており、そしてそれ相応のものになる。それを心に留め置きなさい。これまで筆者は、単なる外形上の処置(技法?)または礼拝、儀式、祈りの名前または形式、もしくは特別な地域とか神社(に行く)必要性についての重要性または必要性を脇に除けて来た。彼は世界的に必要とされる想念と言葉と行動における本質的な、すべての者に対する愛と奉仕、サットグルデーヴァババジへの献身、それを何という名前で呼ぼうが、或いは何の形をとると考えようが、「至高神」への忠誠と歓びにみちた無条件の自己の明け渡しの生活をおくることに深く言及してきた。ババジは厳しい試練や困難、そして裕福でも快適でもない生活環境の中で、俗世の人間としてそのような生活を立派に行き抜いた。
筆者は「神」と(ババジの)宗教に関する最も実際的で普通で単純な心理学に即した概念を定義した。(それは)最低限の資格と、要件と、サーダナであり、「最高」のなかの「最高」に至るこの真直ぐで単純で直接的なアプローチには、実質的に何の儀式も儀礼も必要とされない。「神」の属性である愛と慈悲は深く強調される。「神」は恐れられるものではなく愛すべきものだ。最悪の罪人と犯罪者ですら、矯正と償い(救い)を求めてババジを崇拝する権利を持つ。最も弱い子供は、その母親にとって最も気遣われるべきで、愛しいのである。
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こうした教えであれば、「世界宗教」になることが出来るのではないかと、筆者は思っている。そして今後とも本ブログで、このテーマに就いて更に思索を深めて行きたい。
PS(1): 尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
PS(2):『ヴォイス・オブ・ババジ』の日本語訳がアマゾンから発売されました(キンドル版のみ)。『或るヨギの自叙伝』の続編ともいえる内容であり、ババジの教えなど詳しく書かれていますので、興味の有る方は是非読んでみて下さい。価格は¥800です。