ヨーガ・シッダーンタの寛容の美徳(Liberality)を祝福し崇めよう
我々は、新技術・ソーシャルメディア・経済の国際化・気候温暖化によって生じた大きな変化の時代に生活している。これまでにないほど我々を分断する力と信念体系が存在している。
ヨーガ・シッダーンタは非常に寛容なシッダの叡智であり、それが我々の神聖な人間としての可能性を理解するために、我々一人ひとりがその変化をどのように受け入れるのかに役立つ。この詳細を語る前に、西洋文明と文化のリベラルな倫理の基礎が如何に進化したのか、そして読者諸賢の多くにその価値をいかに伝えるのかを理解するため、脇道にそれることが役立つだろう。それはまた、なぜ寛容さがヨーガの本質であるのかを理解するのに役立つだろう。
寛容さ(Liverality)
寛容さという言葉の起源はラテン語のLiberであり、自由で同時に寛大であることを意味する。キケロは紀元前44年に彼の『義務に関して』という書物の中で、更には後になってセネカは『恩恵(Benefit)に関して』の中で、それに必要とされる態度について「無私で、寛大で、感謝に満ちた性質」と詳述した。リベラルアーツ(教養)の教育目的は、職業にしたり富を獲得したりするためというより、適切に考えて明確に話すことのできる行動的で高潔な指導者としての人生に備えるためのものだった。その反対は「利己主義」であり、自身の利益や快楽だけのために考えたり行動したりすることを含む「奴隷根性」とされた。
中世になって「寛容さ」はキリスト教徒の、愛、同情、そしてとりわけ慈善の美徳と重ねあわされた。イエスが彼の愛と共にあって寛容であったように神はその慈悲において寛容であり、それゆえキリスト教徒はお返しに愛し与えることで神を見習うべきだとされた。
17世紀のルネッサンスの時代、ジョン・ロックは『神に関する二つの論説』の中で、人間は寛容であることができ、それゆえ倫理的に行動することができるので、彼らを支配する絶対君主を必要とせず、自己統治が可能であった、しかし共通の利益に留意することが重要な義務であったと論じた。寛容(の美徳)はまた宗教上の忍耐を育んだ。ロックは1685年に彼の『忍耐に関する書簡』でそれをキリスト教徒の義務であるとし、それも同胞の間だけでなく、異教徒・ユダヤ人・回教徒も対象とした。1772年までには、オクスフォード辞典の中で、「リベラル」とは、「偏見・先入主・偏狭さから自由であって広やかな心、忍耐心」と定義されるようになった。
リベラルなドイツのプロテスタントの学者、ヨーハン・ザロモ・ゼムラーは『自由主義神学』の観念を、「教義の制約から自由で批評家の質問に開かれた、啓発的かつ学術的に聖書を読む宗教的な視点であり、その方法」として提唱した。それは人間の原罪といった教義や超自然現象を拒絶した。それは道徳的なふるまいと、自身を向上させる人間の能力に対する信念を強調した。彼はキリスト教のエッセンスは教義ではなく道徳なのだと結論付けた。18世紀末までに、自由主義神学は神学の支配的な潮流になった。それは大西洋を越えて、雄弁なプロテスタントの牧師、ウィリアム・エラリ・チャニングによって率いられたグループによって更に発展し、最終的に「ユニタリアニズム」として知られることになった。19世紀初頭に彼らは『バガヴァッド・ギーター』と『ウパニシャッド』の英訳を読み、それは「超絶論運動」とラルフ・ウォルド・エマーソンやH.D.ソローによる随筆・詩・書籍を生んだ。彼らはまたお返しとして1874年に始まった神智学運動や1894年、アメリカにおける最初のヨーガ師範であるスワミ・ヴィヴェーカナンダを歓迎するアメリカ人の次の世代のハートと心を開いた。
その歴史を通じて、少なくもリベラリズムが主として人権にかかわるようになった20世紀にいたるまで、殆どの自由主義者(リベラリスト)は道徳主義者(モラリスト)であった。彼らの自由主義は倫理的な運動だった。それは上昇志向で、達成すべき目標は人間性の潜在可能性と自由を満たすために努力することだった。それは人権を主張する者の中にあって、今日広く認められている義務について何ら言及しない原子論的な個人主義とは何の関係もない。20世紀までは殆どの自由主義者は、義務があるから権利があるのだと信じていた。彼らは常に利己主義の危険性を警告し、寛容さ、道徳、誠実、そして市民社会の価値に対する必要性を訴えた。およそ2千年間、自由主義(リベラリズム)は市民の特性を発揮すること、共通の利益に対する献身を示すこと、そして相互関係の重要性を尊重することを意味していた。
反対意見
自由主義はまた、それに反対する勢力と関係づけることによってより深く理解される。これらは、人間は畏れと暴力的な性向によって駆り立てられるので、絶対君主なくして自分たちを統治することができないとの理由で自由主義を否定したトマス・ホッブスのように影響力のある著者と同様、専制主義と手を組んだカトリック教会から来た。彼らの所見によると、自由主義はカトリック教会の教義と相容れない。19世紀フランスの帝王(絶対君主)政治主義として知られ、それらは大衆の無知から利益を得てそれを奨励した。
20世紀には、組織化された宗教団体のみならず、共産主義とファシズムからも敵対勢力が現れた。アドルフ・ヒトラーは、ナチの主たる目的は、「個人の自由主義的な考えを廃絶することだ」と宣言した。この言葉は今日、中国、ロシア、そして他の全体主義的国家の中で響き渡っている。これらの勢力は、保守的・反動的・性差別主義・反民主主義的であり、主として他者を統制する権力の維持に関心を持っている。
反民主的・権威主義的指導者は、自由主義は不道徳、麻薬の乱用に対するライセンスであり、それは現代社会の頽廃・貪欲・グローバリズム・物質主義に責任があり、それ故抑圧されなければならないと主張する時、支持者たちの注意を引く。恐れをかきたて、信仰を持つ者や愛国主義的スローガンに動かされる者たちに対して感情的に訴えかけ、或いは腐敗したエリート層の罪を挙げて、彼らの支持者は自由主義を非難し、非宗教的な団体を、宗教を否定するものとして誤った非難をする。
自由主義者は、自分たちの権利のみを主張し、共通の利益に奉仕するための慈善的、道徳的、実直な行動をしないとき、そして保守主義に内在する無理のない恐れに言及しないとき、自由主義者はいとも簡単に非難の的になる。人は道徳的であるために信仰を持つ必要はない。(この記事の最後に参考文献掲載)
反自由主義的勢力はまた、それが宗教的な信念と合致しない場合、科学にも反対する。例えば、キリスト教原理主義者の気候変動に対する懐疑論だ。彼らは今日に至るまで、原理主義者、セクト主義者そしてすべての宗教組織の中の保守的な一派のみならず権威主義、ポピュリスト、反民主運動を通じて自由主義を中傷し、疎外し続けている。
自由主義の価値に導いてくれた諸氏への深い感謝
子供時代の初期と、特に青春期、私は多くの「存在論」に関わる疑問を抱いていた。その答えに対する私の探究は、家族が信仰していた宗教の教義から大学での自由主義的教育に及んだ。私は特に二人の教授に感謝している。彼らはアウグスティノ修道会とジェズイット修道会に所属し、それぞれが古典倫理学と比較宗教学を教え、個人的生活において上述した自由主義の価値を体現していた。彼らは、一生をババジのクリヤーヨーガの修練に捧げ、続く数十年の間にヨーガ・シッダ達の文献を発掘して出版するとの私の誓いを整える手助けとなった。私は、ヨーガ研究プロジェクトのディレクター、T.N.ガナパティ博士の学識と明快な著述に感謝している、と言うのも彼は、対立する視点を理解しようと努めることで、忍耐を超えて相互理解に至る方法を教えてくれたからだ。私はまた、市民の権利を擁護している自由主義的憲法の制定に責任のあった自由主義信奉者たちの世代から深い恩恵を受けている。それは、例えば1990年代を通じフランスにおいて政府や他の宗教団体と結託することで我々の活動を抑圧しようとする試みから私自身と他のヨーガの教師たちを守ってくれたからだ。
ヨーガ・シッダーンタ:自由主義的なシッダの叡智の教え
私の師であったヨーギラマイアはしばしばヨーガを、「完全なる神・真理との合一に関わる科学的技法」、そして「キリスト教徒をより良いキリスト教徒にし、ヒンドゥー教徒をよりよりヒンドゥー教徒にし、回教徒をより良い回教徒にする」すべての宗教の実際的な側面だと言った。これらは、前段で論じた自由主義的な性格を表現したものだ。誰もが完全な人間の可能性を求めることにおいて向上心があり、道徳的で教義や宗派に縛られず、そして聖典というよりも自分たちの経験を最も高次の真理の決定者とするためだ。彼はまた1954年から毎年、国際的な世界会議である「世界宗教及びヨーガ協議会」を様々な国々で開催した。それらは自由主義的価値と宗教の病弊である狂信に対する解決法を推進することに尽力した。
私がヨーガスートラを学んだ時、私は上述した他の自由主義的価値を評価するようになった。
自由: カイヴァリヤ、即ち絶対的自由は人生の最終ゴールであり、ヨーガスートラ最終章の題名である。これは、グナの影響即ち自然の状態と、クレーシャ(無知・エゴイズム・執着・嫌悪・死の恐怖)としてしられる苦しみの原因からの解放を指す。
道徳的訓練: ヤマ(禁戒)即ちヨーガスートラの中の社会的制約であり、八支分のヨーガの第一番目の項目は人間の性質の反対のことをするよう唱え、それには非暴力・正直・貞操(禁欲)・不盗・不貪が含まれる。シッダ達はこの世界を幻影として放棄することは無かった。彼ら全員が社会、例えば医療・科学そしてヨーガの分野で多くの貢献をした。彼らはこの肉体を神の寺院と見なし、その神聖な可能性を実現するための手段を開発した。ティルムラルによれば、病気は人がヨーガの禁戒・勧戒を無視した時に生じる。これらの戒律を遵守することが病をいやす。
愛・寛容・慈善: ティルマンディラムの中でティルムラルは、「愛は神なり」(Anbu Shivam)と言っている。それは我々に、想念・言葉・行動において神の愛に立ち戻ることを示唆する。19世紀の偉大なシッダ、ラーマリンガは慈善を彼の基本的な教えに据えた。最後にのせた参考文献、「シッダたちの社会的な関心」を参照のこと。アルパダイ即ち、「他者に対して(真我実現の)道を示す」というシッダ達の考えは、苦悩から逃れて他者に自由の愛を表現するため何をなすべきかと何をなさざるべきかを含んでいた。ガナパティ博士によれば、シッダのマントラ、「シヴァヤナマ」は、供儀(犠牲)の結果は至福であることを意味している。なぜなら、シヴァは至福を意味し、ナマは供儀(犠牲)を意味し、アヤは結果を意味するからである。
向上心: ヨーガとタントラは、「私は誰なのか」を思い出しながらエゴイズムから生じる(本来の自己とエゴの)誤った同一視を手放すことを認め、ヨーガの修練を通じて人間性を変容させることを求める漸進的な道である。
思想の自由・言論の自由・著作の自由・集会の自由を制限するカースト制、正統派的慣行、教義至上主義、組織化された宗教の権力への抵抗: シッダ達は、特に司祭の権力、カースト間の差別、寺院での礼拝、聖典への依拠など組織化された宗教の活動を批評する敬虔な反逆者だった。というのも、これらは求道者から力を奪い、誤った方向に導くと共に、社会の分断をもたらしたからだ。彼らの世界に対する見解は、しばしば繰り返させてきた以下の声明に表現された。「すべての国は我が祖国、すべての人種は我が同族(親戚)」と「多様性の中の統一」。
ヨーガ・シッダーンタの自由主義を祝福し、崇めよう
我々は歴史の中で自由主義的価値が、物質主義・個人主義・消費至上主義を促進する価値観によって置き換えられようとしている時代を生きている。自由主義が教会の尋問によってもはや脅威にさらされることはないものの、独立系の報道機関、自由な言論、集会の自由、そして自由主義的教育に圧力をかけ、破壊しようとしている権威主義的な体制によっておびやかされている。これらは中国・ロシア・アラブ世界で起きているのみならず、米国・インド・欧州のある政治活動によっても生じようとしている。自由主義的価値観が将来生き残るかどうかは、我々自身(の自由)と同様に疑わしく心もとない。政府は自由主義を擁護することもできれば壊すこともできる。自己満足に陥らないようにしようではないか!我々の自由を守るためにはそれなりの代価が必要だと思い起こそう、それには我々の果たすべき道徳上の義務と市民としての義務が含まれている。我々がヨーガの叡智の教えと修練から授与され、恩恵を受けることを可能にした自由主義の価値を祝福しよう。これらを我々の生活の中で顕現し、自由主義の価値を奨励する政策や法案を支持し、それを分かち合い、未来の世代へとすべての言語で引き継いで行くことでこれらに敬意を払おう。我々が他者を愛する時、神を愛しているのだということを認識し、道徳的・慈善的に振舞うことを自分自身に約束しよう。
参考文献
・「反対の行動:社会と良好な関係を築く5つの鍵」 M.G.サッチダナンダ
・「シッダ達の社会への関心」 ヘレナ・ローゼンブラット
・「他者に道を示す、アルパダイ」 KYJ2017年秋(翻訳済み)
・「道徳心は神の存在に依拠するのか?」 KYJ2019冬
By M.G.Sachidananda
Kriya Yoga Jounal, Winter 2021
Kriya Yoga Jounal, Winter 2021
我々は、新技術・ソーシャルメディア・経済の国際化・気候温暖化によって生じた大きな変化の時代に生活している。これまでにないほど我々を分断する力と信念体系が存在している。
ヨーガ・シッダーンタは非常に寛容なシッダの叡智であり、それが我々の神聖な人間としての可能性を理解するために、我々一人ひとりがその変化をどのように受け入れるのかに役立つ。この詳細を語る前に、西洋文明と文化のリベラルな倫理の基礎が如何に進化したのか、そして読者諸賢の多くにその価値をいかに伝えるのかを理解するため、脇道にそれることが役立つだろう。それはまた、なぜ寛容さがヨーガの本質であるのかを理解するのに役立つだろう。
寛容さ(Liverality)
寛容さという言葉の起源はラテン語のLiberであり、自由で同時に寛大であることを意味する。キケロは紀元前44年に彼の『義務に関して』という書物の中で、更には後になってセネカは『恩恵(Benefit)に関して』の中で、それに必要とされる態度について「無私で、寛大で、感謝に満ちた性質」と詳述した。リベラルアーツ(教養)の教育目的は、職業にしたり富を獲得したりするためというより、適切に考えて明確に話すことのできる行動的で高潔な指導者としての人生に備えるためのものだった。その反対は「利己主義」であり、自身の利益や快楽だけのために考えたり行動したりすることを含む「奴隷根性」とされた。
中世になって「寛容さ」はキリスト教徒の、愛、同情、そしてとりわけ慈善の美徳と重ねあわされた。イエスが彼の愛と共にあって寛容であったように神はその慈悲において寛容であり、それゆえキリスト教徒はお返しに愛し与えることで神を見習うべきだとされた。
17世紀のルネッサンスの時代、ジョン・ロックは『神に関する二つの論説』の中で、人間は寛容であることができ、それゆえ倫理的に行動することができるので、彼らを支配する絶対君主を必要とせず、自己統治が可能であった、しかし共通の利益に留意することが重要な義務であったと論じた。寛容(の美徳)はまた宗教上の忍耐を育んだ。ロックは1685年に彼の『忍耐に関する書簡』でそれをキリスト教徒の義務であるとし、それも同胞の間だけでなく、異教徒・ユダヤ人・回教徒も対象とした。1772年までには、オクスフォード辞典の中で、「リベラル」とは、「偏見・先入主・偏狭さから自由であって広やかな心、忍耐心」と定義されるようになった。
リベラルなドイツのプロテスタントの学者、ヨーハン・ザロモ・ゼムラーは『自由主義神学』の観念を、「教義の制約から自由で批評家の質問に開かれた、啓発的かつ学術的に聖書を読む宗教的な視点であり、その方法」として提唱した。それは人間の原罪といった教義や超自然現象を拒絶した。それは道徳的なふるまいと、自身を向上させる人間の能力に対する信念を強調した。彼はキリスト教のエッセンスは教義ではなく道徳なのだと結論付けた。18世紀末までに、自由主義神学は神学の支配的な潮流になった。それは大西洋を越えて、雄弁なプロテスタントの牧師、ウィリアム・エラリ・チャニングによって率いられたグループによって更に発展し、最終的に「ユニタリアニズム」として知られることになった。19世紀初頭に彼らは『バガヴァッド・ギーター』と『ウパニシャッド』の英訳を読み、それは「超絶論運動」とラルフ・ウォルド・エマーソンやH.D.ソローによる随筆・詩・書籍を生んだ。彼らはまたお返しとして1874年に始まった神智学運動や1894年、アメリカにおける最初のヨーガ師範であるスワミ・ヴィヴェーカナンダを歓迎するアメリカ人の次の世代のハートと心を開いた。
その歴史を通じて、少なくもリベラリズムが主として人権にかかわるようになった20世紀にいたるまで、殆どの自由主義者(リベラリスト)は道徳主義者(モラリスト)であった。彼らの自由主義は倫理的な運動だった。それは上昇志向で、達成すべき目標は人間性の潜在可能性と自由を満たすために努力することだった。それは人権を主張する者の中にあって、今日広く認められている義務について何ら言及しない原子論的な個人主義とは何の関係もない。20世紀までは殆どの自由主義者は、義務があるから権利があるのだと信じていた。彼らは常に利己主義の危険性を警告し、寛容さ、道徳、誠実、そして市民社会の価値に対する必要性を訴えた。およそ2千年間、自由主義(リベラリズム)は市民の特性を発揮すること、共通の利益に対する献身を示すこと、そして相互関係の重要性を尊重することを意味していた。
反対意見
自由主義はまた、それに反対する勢力と関係づけることによってより深く理解される。これらは、人間は畏れと暴力的な性向によって駆り立てられるので、絶対君主なくして自分たちを統治することができないとの理由で自由主義を否定したトマス・ホッブスのように影響力のある著者と同様、専制主義と手を組んだカトリック教会から来た。彼らの所見によると、自由主義はカトリック教会の教義と相容れない。19世紀フランスの帝王(絶対君主)政治主義として知られ、それらは大衆の無知から利益を得てそれを奨励した。
20世紀には、組織化された宗教団体のみならず、共産主義とファシズムからも敵対勢力が現れた。アドルフ・ヒトラーは、ナチの主たる目的は、「個人の自由主義的な考えを廃絶することだ」と宣言した。この言葉は今日、中国、ロシア、そして他の全体主義的国家の中で響き渡っている。これらの勢力は、保守的・反動的・性差別主義・反民主主義的であり、主として他者を統制する権力の維持に関心を持っている。
反民主的・権威主義的指導者は、自由主義は不道徳、麻薬の乱用に対するライセンスであり、それは現代社会の頽廃・貪欲・グローバリズム・物質主義に責任があり、それ故抑圧されなければならないと主張する時、支持者たちの注意を引く。恐れをかきたて、信仰を持つ者や愛国主義的スローガンに動かされる者たちに対して感情的に訴えかけ、或いは腐敗したエリート層の罪を挙げて、彼らの支持者は自由主義を非難し、非宗教的な団体を、宗教を否定するものとして誤った非難をする。
自由主義者は、自分たちの権利のみを主張し、共通の利益に奉仕するための慈善的、道徳的、実直な行動をしないとき、そして保守主義に内在する無理のない恐れに言及しないとき、自由主義者はいとも簡単に非難の的になる。人は道徳的であるために信仰を持つ必要はない。(この記事の最後に参考文献掲載)
反自由主義的勢力はまた、それが宗教的な信念と合致しない場合、科学にも反対する。例えば、キリスト教原理主義者の気候変動に対する懐疑論だ。彼らは今日に至るまで、原理主義者、セクト主義者そしてすべての宗教組織の中の保守的な一派のみならず権威主義、ポピュリスト、反民主運動を通じて自由主義を中傷し、疎外し続けている。
自由主義の価値に導いてくれた諸氏への深い感謝
子供時代の初期と、特に青春期、私は多くの「存在論」に関わる疑問を抱いていた。その答えに対する私の探究は、家族が信仰していた宗教の教義から大学での自由主義的教育に及んだ。私は特に二人の教授に感謝している。彼らはアウグスティノ修道会とジェズイット修道会に所属し、それぞれが古典倫理学と比較宗教学を教え、個人的生活において上述した自由主義の価値を体現していた。彼らは、一生をババジのクリヤーヨーガの修練に捧げ、続く数十年の間にヨーガ・シッダ達の文献を発掘して出版するとの私の誓いを整える手助けとなった。私は、ヨーガ研究プロジェクトのディレクター、T.N.ガナパティ博士の学識と明快な著述に感謝している、と言うのも彼は、対立する視点を理解しようと努めることで、忍耐を超えて相互理解に至る方法を教えてくれたからだ。私はまた、市民の権利を擁護している自由主義的憲法の制定に責任のあった自由主義信奉者たちの世代から深い恩恵を受けている。それは、例えば1990年代を通じフランスにおいて政府や他の宗教団体と結託することで我々の活動を抑圧しようとする試みから私自身と他のヨーガの教師たちを守ってくれたからだ。
ヨーガ・シッダーンタ:自由主義的なシッダの叡智の教え
私の師であったヨーギラマイアはしばしばヨーガを、「完全なる神・真理との合一に関わる科学的技法」、そして「キリスト教徒をより良いキリスト教徒にし、ヒンドゥー教徒をよりよりヒンドゥー教徒にし、回教徒をより良い回教徒にする」すべての宗教の実際的な側面だと言った。これらは、前段で論じた自由主義的な性格を表現したものだ。誰もが完全な人間の可能性を求めることにおいて向上心があり、道徳的で教義や宗派に縛られず、そして聖典というよりも自分たちの経験を最も高次の真理の決定者とするためだ。彼はまた1954年から毎年、国際的な世界会議である「世界宗教及びヨーガ協議会」を様々な国々で開催した。それらは自由主義的価値と宗教の病弊である狂信に対する解決法を推進することに尽力した。
私がヨーガスートラを学んだ時、私は上述した他の自由主義的価値を評価するようになった。
自由: カイヴァリヤ、即ち絶対的自由は人生の最終ゴールであり、ヨーガスートラ最終章の題名である。これは、グナの影響即ち自然の状態と、クレーシャ(無知・エゴイズム・執着・嫌悪・死の恐怖)としてしられる苦しみの原因からの解放を指す。
道徳的訓練: ヤマ(禁戒)即ちヨーガスートラの中の社会的制約であり、八支分のヨーガの第一番目の項目は人間の性質の反対のことをするよう唱え、それには非暴力・正直・貞操(禁欲)・不盗・不貪が含まれる。シッダ達はこの世界を幻影として放棄することは無かった。彼ら全員が社会、例えば医療・科学そしてヨーガの分野で多くの貢献をした。彼らはこの肉体を神の寺院と見なし、その神聖な可能性を実現するための手段を開発した。ティルムラルによれば、病気は人がヨーガの禁戒・勧戒を無視した時に生じる。これらの戒律を遵守することが病をいやす。
愛・寛容・慈善: ティルマンディラムの中でティルムラルは、「愛は神なり」(Anbu Shivam)と言っている。それは我々に、想念・言葉・行動において神の愛に立ち戻ることを示唆する。19世紀の偉大なシッダ、ラーマリンガは慈善を彼の基本的な教えに据えた。最後にのせた参考文献、「シッダたちの社会的な関心」を参照のこと。アルパダイ即ち、「他者に対して(真我実現の)道を示す」というシッダ達の考えは、苦悩から逃れて他者に自由の愛を表現するため何をなすべきかと何をなさざるべきかを含んでいた。ガナパティ博士によれば、シッダのマントラ、「シヴァヤナマ」は、供儀(犠牲)の結果は至福であることを意味している。なぜなら、シヴァは至福を意味し、ナマは供儀(犠牲)を意味し、アヤは結果を意味するからである。
向上心: ヨーガとタントラは、「私は誰なのか」を思い出しながらエゴイズムから生じる(本来の自己とエゴの)誤った同一視を手放すことを認め、ヨーガの修練を通じて人間性を変容させることを求める漸進的な道である。
思想の自由・言論の自由・著作の自由・集会の自由を制限するカースト制、正統派的慣行、教義至上主義、組織化された宗教の権力への抵抗: シッダ達は、特に司祭の権力、カースト間の差別、寺院での礼拝、聖典への依拠など組織化された宗教の活動を批評する敬虔な反逆者だった。というのも、これらは求道者から力を奪い、誤った方向に導くと共に、社会の分断をもたらしたからだ。彼らの世界に対する見解は、しばしば繰り返させてきた以下の声明に表現された。「すべての国は我が祖国、すべての人種は我が同族(親戚)」と「多様性の中の統一」。
ヨーガ・シッダーンタの自由主義を祝福し、崇めよう
我々は歴史の中で自由主義的価値が、物質主義・個人主義・消費至上主義を促進する価値観によって置き換えられようとしている時代を生きている。自由主義が教会の尋問によってもはや脅威にさらされることはないものの、独立系の報道機関、自由な言論、集会の自由、そして自由主義的教育に圧力をかけ、破壊しようとしている権威主義的な体制によっておびやかされている。これらは中国・ロシア・アラブ世界で起きているのみならず、米国・インド・欧州のある政治活動によっても生じようとしている。自由主義的価値観が将来生き残るかどうかは、我々自身(の自由)と同様に疑わしく心もとない。政府は自由主義を擁護することもできれば壊すこともできる。自己満足に陥らないようにしようではないか!我々の自由を守るためにはそれなりの代価が必要だと思い起こそう、それには我々の果たすべき道徳上の義務と市民としての義務が含まれている。我々がヨーガの叡智の教えと修練から授与され、恩恵を受けることを可能にした自由主義の価値を祝福しよう。これらを我々の生活の中で顕現し、自由主義の価値を奨励する政策や法案を支持し、それを分かち合い、未来の世代へとすべての言語で引き継いで行くことでこれらに敬意を払おう。我々が他者を愛する時、神を愛しているのだということを認識し、道徳的・慈善的に振舞うことを自分自身に約束しよう。
参考文献
・「反対の行動:社会と良好な関係を築く5つの鍵」 M.G.サッチダナンダ
・「シッダ達の社会への関心」 ヘレナ・ローゼンブラット
・「他者に道を示す、アルパダイ」 KYJ2017年秋(翻訳済み)
・「道徳心は神の存在に依拠するのか?」 KYJ2019冬