アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第5章 ヒンドゥー教とガンジー ⑧ サッティヤーグラハ

2017年06月22日 08時25分38秒 | 第5章 ヒンドゥー教とガンジー
ガンジーがインドを独立に導いた運動は、「非暴力・不服従運動」などと呼ばれており、一方で「サッティヤーグラハ」という言葉も広く知られているので、前者は後者の日本語訳であると筆者は思い込んでいたが、サッティヤーグラハという言葉(或は原理)は、精確に言うと(或は直訳ながら)「真理の堅持」を意味していることが『ガンジー自伝』(以下、同書)を読んで判った。念のため、ウィキからも関連する部分を引用しておく。

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 (ガンジーは)南アフリカで弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドのイギリスからの独立運動を指揮した。その形は民衆暴動の形をとるものではなく、「非暴力、不服従」(よく誤解されているが「無抵抗主義」ではない)を提唱した。この思想(彼自身の造語によりサティヤーグラハ、すなわち真理の把握と名付けられた)はインドを独立させ、イギリス帝国をイギリス連邦へと転換させただけでなく、政治思想として植民地解放運動や人権運動の領域において平和主義的手法として世界中に大きな影響を与えた。
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念の為、同書の訳注に書かれている説明も掲載しておく。
 
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 ガンジーは、1897年ダーバンでイギリス人暴徒の襲撃にあって以来、自己抑制の生活に厳しさを加え、1906年にはついにブラフマチャリアの誓いを立てるに至った。その一方、貧しい契約労働者と苦悩を分ち、そのなかでもまれながら、彼らの救済に、よりいっそう生活を捧げていった。彼が、『バガヴァッド・ギーター』の教えに従って、真実の力、精神の力の偉大さの実験を、自分自身、自分の家庭からさらにひろげて、インド人居留民を対象にして行おうとしたのが、1906年の悪法反対の闘争からであった。この段階で発見された闘争原理が、サッティヤーグラハであった。
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 上記の、南アにおける「1906年の悪法反対の闘争」の経緯を、ガンジーは次のように書いている。

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 ズールー族の「反乱」に関連した軍務から引き揚げてくると、わたしはフェニックスで友人たちと落合、それからヨハネスバーグに就いた。ここで、わたしは、1906年8月22日付のトランスヴァール政府公報に発表された法令安を読んで、身ぶるいがした。それは南アフリカのインド人の絶対的な破滅を意味していた。その法令安によると、八歳以上のインド人は、男、女、子供の別なくトランスヴァールに居住しようとするものはみな、名前をアジア人登録係に登録し、そして踏力証明書の発給を受けなくてはならない。・・・一定の期日以内に登録を出願しなかったインド人は、すべてトランシヴァールでの居住権を放棄しなくてはならない。出願を怠ると法律違反であって、違反者は罰金刑を科されたり、投獄されたり、治安判事の裁量によっては、ところ払いをくわされるのである。・・・警察官は証明書の検査をするために、個人の住宅に立ち入ることができた。わたしは、世界のどこの国かでこのような性質の法律が自由な人間に対して行われた、ということを知らない。
 翌日、主だったインド人の小さな集会が催された。彼らに対して、わたしは法令を逐条的に説明した。それを聞いて彼らは、わたしと同じように驚いた。出席者のすべては、事態の由々しいことを悟った。そして公衆大会を開くことを決定した。
 その集会は、予定のとおり1906年9月の11日に開かれた。集会ではいろいろの決議が採択された。そのなかで最も重大なものは、有名な決議第四号であった。この決議で、われわれの反対を押し切ってこの法令が立法化されたときは、インド人は、それに従わないこと、この非服従に科せられるあらゆる罰則を甘受することを厳粛に決意したのであった。
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 そして、この運動をどう名づけるべきかの思案が始まった。

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 だれも私たちの運動をどう名づけていいかわからなかった。わたしは、それを説明するために、「受動的抵抗」という言葉をつかった。しかし、その名称を使いながら、わたしは「受動的抵抗」の意味を十分に理解しはしなかった。ただ、ある新しい原理が誕生していることを悟っただけであった。やがて運動が展開するにつれて、「受動的抵抗」という言葉は混乱を起こすようになった。
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 そして、この闘争の適切な名称を、公に募集することになった。

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 シリ・マガンラル・ガンジーは、応募した一人であった。彼は、「よきたてまえを堅持する」という意味を持つ「サダグラハ」という言葉を提案した。わたしは、この言葉が気に入った。しかし、それはわたしがふくませたいと思った考え全部を言い表していなかった。したがってわたしは、それを「サッティヤーグラハ」と訂正した。真実[サッティヤ]は愛を包含する。そして堅持[アグラハ]は力を生む。したがって、力の同義語として役立つ。こうしてわたしは、インド人の運動を「サッティヤーグラハ」、すなわち、真実と愛、あるいは非暴力から生まれる力、と呼び始めた。そして、これとともに、「受動的抵抗」という言葉の使用をやめた。
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 以上が『サッティヤーグラハ』運動とその名称が成立した経緯である。しかし、この運動とて、決して順風満帆ではなく、その後インド国内各地で、警察と群衆の衝突による多くの負傷者を出している。そして、チョーパティの海辺で開かれた集会で、非暴力の義務とサッティヤーグラハの制限についてガンジーは演説した。

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「サッティヤーグラハは、根本的には誠実な人の武器である。サッティヤーグラハ運動者は非暴力を誓っている。そして人々が思想と言葉と行為でそれを守らない限り、わたしは大衆的サッティヤーグラハを提唱するわけにいかない」
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 そして後にガンジーは、次のように悟った。

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 わたしは、人々が市民的非服従をやるのに適したものになる前に、まず彼らはその深い意義を徹底的に理解しておくべきだった、ということを悟った。従って、大衆的規模の市民的非服従を再出発させたいならば、その前に、サッティヤーグラハの厳格な諸条件を徹底的に理解した、試練に耐えた、心の純粋な志願者の一団を作っておくことが必要であろう。・・・
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 その後紆余曲折を経てインドの英国からの独立運動に発展するのだが、その経緯に就いて述べるためには、当時のインド国内外の政治的な背景なども詳しく説明する必要があり、このブログの趣旨にそぐわないので割愛させて頂く。興味の有る方は、同書を含む関連書籍を読んで頂きたい。

 これまでにも何度か引用したが、最後にサッティヤーグラハの教義の神髄を同書から引用しておく。

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 サッティヤーグラハ運動者は、彼らの間にただ一人でも、水晶のように純潔な者がおれば、彼の犠牲によって目的を達成するに十分であると信じてよい。世界は、「サッティヤ」あるいは真実の岩床の上に成り立っている。非真実を意味する「アサッティヤ」は、また、非存在を意味する。そして「サッティヤ」あるいは真実は、またある(在る)ということを意味する。非真実は存在すらしないのだから、その勝利はありえない。そして「在る」ところのものである真実は、けっして破壊され得ないものである。これがサッティヤーグラハの教義の神髄である。
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 尚、これまでも触れた通り、蠟山芳郎氏は「サッティヤ」を真実と日本語に翻訳しており、本稿引用文の中では訳者の考えを尊重してそのまま真実としたが、筆者は、「真理」と訳した方がしっくりくるように思っている。因みに、ウィキには次のように書かれている。

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ガンジーは自分の人生を何よりも真理(Satya)探究という目的のために捧げた。彼は、自分の失敗や自分自身を使った実験などから学ぶことを通して、この目的の達成を試みた。実際、彼は自叙伝に『真理を対象とした私の実験について(英語: The Story of My Experiments with Truth)』という題をつけている。
ガンジーは、非暴力運動において一番重要なことは自己の内の臆病や不安を乗り越えることであると主張する。ガンジーは、自分の理念を纏め、初めは「神は真理である」と述べていたが、後になると「真理は神である」という言葉に変えている。よって、ガンジー哲学における真理(Satya)とは「神」を意味する。
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 本ブログの第一章①ニューエイジとは、でも触れたが、シャーリー・マクレーンは『ゴイング・ウィズィン』で次のように述べている。「一人ひとりが自分の内に平和を実現しないかぎり、世界の平和は達成できないと私は思う。戦争やさまざまの災いは、結局は自分自身の問題に帰するのだと思う。・・・ニューエイジとは、私たちが望んでいる幸せをつくり出すために、自分自身の力を使う時代なのだ」。筆者もまさにその通りだと思うが、こうした平和、或いは新しい時代(ニューエイジ)は、我々一人ひとりがサッティヤーグラハを実行することで、より確実に、そして速やかに実現できるのだろう。

PS(1): 尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
PS(2):『ヴォイス・オブ・ババジ』の日本語訳がアマゾンから発売されました(キンドル版のみ)。『或るヨギの自叙伝』の続編ともいえる内容であり、ババジの教えなど詳しく書かれていますので、興味の有る方は是非読んでみて下さい。価格は¥800です。


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