アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

サマーディ:達成までどれほどかかるのか?

2020年12月26日 13時36分49秒 | クリヤーヨーガ・ジャーナル
サマーディ:達成までどれほどかかるのか?
或いは、如何に時間の無駄を省き、気づきを持続させるか


By M.G.Sachidananda

Kriya Yoga Jounal, Winter 2021


 サマーディの恍惚境を味わうのにどれほどかかるのか?この疑問は多くのヨーガの生徒にとって霊的修養の道を歩み始めるときばかりでなく、疑念を抱いたり落胆したりした時に重くのしかかる。時間がない、あるいは時間の制約があると感じているときは特にこの疑問は切迫したものになる。「私にはヨーガの練習をする時間がない」という言葉を多くのヨーガの生徒が心の中で繰り返す。

如何に時間の浪費を防ぎ、気づきを持続させるか
「君は目を開いたまま夢を見ている。それが苦しみの原因だ。」我々人間の病状に対するこの診断は、師匠ヨギ・ラマイアによって繰り返し私に印象付けられた教えの一つだ。そして有能な医者が患者に処方箋を与えるように、彼は講義の中で「起きて目を覚ませ」「ババジのクリヤーヨーガの修練をしなさい」と繰り返したものだ。「夢を見ている」という彼の言葉の意味は、マインドのおしゃべりや会話、そして生気体の感情を指す。「夢」から目覚めるため、彼はサーダナ(ヨーガの修練)を処方した。それは、「自身が誰であるかを思い起こすために行えるすべてであり、あなた自身でないものとの同一視を手放すために行われるすべて」と定義される。
 クリヤーヨーガの技法は別として、彼の与えてくれた最も価値あることは、それを練習しようとの誘因だ。その一部は、ババジのクリヤーヨーガにおける5重の道における様々な技法を練習するのに毎日何時間を費やしたか記録を毎月書面で彼に報告することだった。具体的には、アーサナ・バンダ・プラーナヤーマ・瞑想・マントラ・バクティ、そしてほかに自分の仕事の時間と毎週定められた沈黙行と断食を行ったかどうか。私が3か月間、最低週56時間のサーダナの記録を提出し、その間フルタイムで仕事をし、断食と沈黙行も10日以上行うとすぐ、南カリフォルニアにある彼のアシュラムの住人として受け入れられた。それは1970年の9月のことだ。そしてそれから18年間これを続けた。自分の時間をどのように使ったのかを記録し、報告することで私は時間を無駄にせず、気づきを保つことを学んだ。この点に関しては私の著書、「The Wisdom of Jesus and Yoga Siddhas」(訳注:日本語版は未刊)を参照のこと。

時はマーヤ(幻影)の仲介者
 時はエゴイズムつまり収縮した意識状態を伴うマーヤすなわち精神的錯覚の五つの仲介者のうちの一つだ。サマーディは、制限された時・知識・力、そして欲望とカルマからなるマーヤの五つの仲介者を超える拡大した意識状態に入った時に生じる。それらが一緒になって、雲が青い空を見る妨げとなるように、それらの集合的な力はすべての制限を超えた「我は『それ』なり」、あるいは「絶対的実在」「意識と至福」「サッチダナンダ」の認識を覆う。
 我々が本当の目撃者すなわち真我であることを忘れ、意識を制限され、縛られた精神的あるいは感情的な状態のまま放置しておくと苦しみが生じる。これらの仲介者はしばしば混ざりあっている。例えばあなたが何かするのに、「私には時間がない」というマインドの声を聴いたとき、なにかを「したい」との限定的な執着、あるいは何かを「したくない」という限定的な嫌悪感がそれに付随している。あるいは、「私にはできない」といった能力を限定する考え、「どうしたらよいか分からない」といった知識を限定する考えは、しばしば「私には時間がない」という考えと混ざり合っている。そのような考えが切り離されることなく、その考えに耽ったり、フラストレーション・罪悪感・恐れ・疑惑・憂鬱といった感情と共にそのような考えが強くなった時、あなたの苦しみは酷くなる。「私は怒っている」とマインドは言う。「もう怒っていない」と暫くして言う。どちらも本当ではない。あなたは常に存在しているものでしかありえないのだ。想念や感情の反復が永遠の錯覚を生み出す。
 そうした制限からの解放は、ババジのクリヤーヨーガの第一/第二イニシエーションで教えられたように、想念を手放し、瞬間々々の気付きを養い、手に負えない感情にうまく対処することを学んだ時に生じる。あなたのストレスの殆どはそうした感情の制限の結果だ。そうしたことが組み合わさり、ヨーガの修練に対する優先順位が低いという代わりに、「時間がない」と信じ込ませ、あなたを欺く。我々は皆一日に24時間ある。したがってあなたが練習の時間がないという時、実は「練習の優先順位が低い」と言っているのだ。このヨーガのサーダナ(修練)にささげられる時間をあなたはどれほど無駄にしているのだろうか?
 あなたの癖(サンスカーラ)と性格が過去(ヴァーサナ)に住するとき、カルマの制約が顕れる。日々の生活の中でクリヤーすなわち気付きを伴った行為を養うことにより、そして繰り返しサマーディに入ることにより、あなたはカルマの束縛からの自由を勝ち取る。

サマーディすなわち認識作用の没入状態
 私の師、ヨギ・ラマイアの説明によると、サマーディとは「真理すなわち神と合一した無呼吸状態」である。呼吸が停止するとマインドも停止する。瞑想に関する師の最初の指示は、シッダ・パーンバティ及びダビデの詩篇の引用だった。「心を静め自身が神であると知れ。」つまるところ、あなたは何が気づいているのかに気づくことになる。
 無執着と内なる目撃者である真我の視点に対して自我(エゴ)の視点を明け渡すことを養いながら想念とそれに伴う感情を観察することを学ぶことにより、そのような心の静寂すなわちサマーディへの道を歩み始めることができる。想念の合間にある時間のない空間に集中しなさい。この「観察」は何もせず、何も考えず、何も感じないことだ。しかしそれは、過ぎ去っていく行動・想念・感情を観察している。「トーマスによる福音書」42節でイエスが述べた通り「過ぎ去り行くものとなりなさい。」

クリヤーヨーガの修練に関するパタンジャリの処方箋
 ヨーガスートラ(以下、YS)Ⅱ-1でパタンジャリはクリヤーヨーガを次のように定義する。タパス(熱烈な修練)、スヴァディヤーヤ(自己探求)、イシュヴァラ・プラニダーナ(最高神への明け渡し)。(それらの目的は)「苦悩を弱め、認識の没入状態(サマーディ)へと導く(YSⅡ-2)。
「常習と無執着により(意識の揺らぎと自己を同一視すること)が停止する。」(YSⅠ-12)
 YSI-13では、何を練習すべきかが明確に述べられている。「こうした背景から、『意識の揺らぎと一体になっていない状態』に留まる努力が常習である。」

 熱烈な修練すなわちタパスには三つの要素がある。それらは意図・努力・忍耐である。意図は、自身気ままにふるまうことを拒否することから始まる。それは何らかの執着や嫌悪感から一歩引きさがることを必然的に含む。修練の時間に関しては、例えば「私は一回に最低30分、一日に二回の瞑想をする」と毎日繰り返しなさい。これは努力と意思の力、そしてある一定の期間一貫して繰り返すことを必要とする。なぜなら、他の性癖や傾向からくる抵抗があるからだ。繰り返し、そして日課として修練を行うことによって意思の力は徐々に発達する。結果としてあなたは、欲望や嫌悪感の対象物があろうがなかろうが、単に楽しむことのできる平衡状態に到達する。

パタンジャリは次の節で直接我々の疑問に答え始める:
「修練しようと固く決意した修行者にとって、サマーディの達成は目前である。」(YS1-21)
マインドが内に集中し、絶対的な至福に満たされるサマーディすなわち「真我」の体験を垣間見ることがあるかもしれないが、本当の課題はそれを持続し、安定した状態にすることだ。そうするために、目撃者としての意識を養い、注意散漫になりがちな傾向からマインドと五感を内に向ける強烈で熱狂的な献身を伴う修練を行う必要がある。集中と目撃者としての意識が自動的に生じ、継続するなら、それは熱烈で確固たる修練(ティヴラ・サムヴェガ・サーダナ)として知られているものだ。我々の内にサマーディを一瞥した時にはいつも、それを外部の生活にも同様に持ち込むのが賢明だろう。シヴァ・スートラに曰く、「世界の至福は霊的合一(サマーディ)の至福なり。」

修練:普遍的な愛のヴィジョンを養い、この世界のすべてのものを「神」として受け入れなさい。

そしてYSI-22で、どれほどの時間が必要かを決定付ける条件に言及する。
 このように(如何に早くサマーディに到達するかの)特徴別の差異は(ヨギの修練が)弱いか、中程度か、熱烈であるかに因る。
 弱い修練とはムラがあり、散発的で、疑念に満ち、浮き沈みがあり、注意散漫でサマーディに到達できない。中程度の場合は、強烈で献身的な時期の後、練習を忘れたり、注意散漫になったり、否定的な考えや癖にふけったりする。熱烈な修練の特徴は「真我」であることを忘れないという絶え間ない決意と、成功と失敗、喜びと苦難、愛・忍耐・他者への同情の中で成長することを通じて平衡心を維持することだ。それは我々が選んだ神の形を礼拝するか、沸き起こる欲望を超えてすべてに浸透する神を見ようとするときに強烈になる。その出来事や環境の強烈さがどれほどのものであろうが、幻影に満ちたドラマ限りの登場人物の演技がいかに優れていようと、我々は終始「神」を見続ける。

如何にしてサマーディを持続させるか?
 YSI-17とI-18で断続的なサムプラジュナータ・サマーディ(有想三昧)と継続するアサムプラジュナータ・サマーディ(無想三昧)の両方を説明した後、パタンジャリはYSI-20で、サマーディを持続するために何が必要かについて記述する。
「他のヨギにとって、アサムプラジュナータ・サマーディの達成のための先行条件は、強烈な献身・勇気・マインドフルネス・サムプラジュナータ・サマーディ・真の洞察力だ。」
 サマーディが持続するようにするため、繰り返し断続的なサムプラジュナータ・サマーディに入る必要がある。そうすることで徐々に人間の性質の三つの汚れ、すなわちエゴイズム・マーヤ・カルマを漂白し尽くす。そこに到達する者は、次のことを発展させることでそのようになる。

・ シュラッダ:ヨーガに対する明らかな信仰、自分の能力・修行法・師匠に対する信頼を伴う熱烈な献身。
・ ヴァーリャム:そのような信仰・信頼から生じ、感情的にも修練が支援される強力な献身を生み出すエネルギー・熱狂・勇気。
・ スムリティ:これまでの経緯と学んだレッスンを、俗世の視点に後戻りしないよう忘れることなく、注意深さを保つための記憶。
・ サマーディ:毎日サマーディに入ること。マインドの揺らぎや注意力散漫によりそれが安定したものではないとしても、ヨーガの修練によってそれは進歩していく。
・ プラジュニャ:識別・洞察力。絶え間なく注意深い自己観察を続けることにより、人生の様々な出来事を通じて洞察力と導きを受ける。

霊的なエネルギーと力が集中力と注意深さをもたらす。これらは次いで、これまで歩んできた人生、つまり自身が受けてきた試練の記憶を呼び起こす。この記憶が継続的な気付きをもたらす。そのような継続的な気付きは「真我」と「偽我」(エゴ)の識別をもたらす。
アサムプラジュナータ・サマーディ(認識する対象物のないサマーディ)、継続的な認識作用の没入状態は時として悟り(Enlightment)として言及されるがそれは、持続性がなく、認識する対象のあるサマーディ(サムプラジュナータ・サマーディ)と、YSI-20で詳述された、修練と師匠に対する信頼・情熱・注意力・識別・記憶力といったある種積極的な傾向を養うことの結果であり、これらは古い習性を解消することを可能ならしめる理想的な状態を作り出す。

サーダナ(修練)の日課を守りなさい
 目標を厳守する意思はサンカルパという言葉で知られている。それには三つの要素がある。現在あなたがやりくりできると信じる程度の時間から始め、それを定期的に実践すると意図しなさい。少なくも一週間後に、あなたの定期的な修練以上の時間を要する新たな日課を定めなさい。自身で説明できるよう、毎日様々な種類のサーダナにどのくらいの時間を費やしたのかを記録しなさい。これによってあなたがいかに時間を無駄にしていて、自身の時間をどのように使うべきかより良い選択をする手助けになる。さらにあなたの修練を強力なものにする。

修練:修練に没頭しなさい。毎日一歩ずつ前に進みなさい。すべてのものを、あなたの進化のため、完全に展開しつつある「神の計画」の一部として見なさい。ヨーガの様々な修練に毎日どのくらいの時間を費やすのか明確な目標を定め、それを記録しなさい。

「目撃者としての真我」に留まり、誤った自己認識を手放すとの意図をもって実践するすべてのヨーガの形態を含むサーダナによって潜在意識は浄化され、二元性は溶けていく。そしてあらゆる場所における「神の臨在」に気づくようになる。奉仕活動を通じて我々は卑小なエゴに基づく自我と些細な問題を忘れ、普遍的な愛のヴィジョンを発展させる。

参考図書
・「パタンジャリのクリヤーヨーガ・スートラ」(日本語訳:近日発売予定)
・「イエスとヨーガシッダの叡智」(日本語訳未刊)


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