アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第5章 ヒンドゥー教とガンジー ⑦ 菜食主義と断食

2017年06月15日 10時13分25秒 | 第5章 ヒンドゥー教とガンジー
 『ガンジー自伝』(以下、同書)によるとガンジーの両親はヴィシュヌ派の信心深い信徒であり、ガンジーも当然ながら菜食主義者として育てられたようだが、学生時代に彼の数少ない友人が既に肉食に染まっていて、インドを改革し、延いては独立を果たす為には、英国人のように肉を食べて強くならなければいけないとの説得に負け、初めて山羊の肉を食べた時のことを同書に書いている。

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 そうして、その日がやってきた。そのときの私の心理状態を述べ述べ尽くすことは難しい。一方には、「改革」への熱情と人生の重大な門出に立ったもの珍しさがあった。他方には、この重大なことをやるのに、泥棒のように隠れてする恥じらいがあった。この二つのどちらがより強くわたしを圧倒したか、どちらともいえない。私たちは、人気のないところを探しながら、川べりを歩いた。そしてそこで私は生涯で初めて、肉というものを見た。
 そこには、また、パン屋からパンも買ってきてあった。両方とも、わたしにはうまいものではなかった。山羊の肉は皮をかむように固かった。私には、どうしてもそれが食べられなかった。むかむかしてきたので、食べるのを止めてしまった。
 それから後の夜は、非常に恐ろしかった。恐ろしい夢にうなされた。とろとろとねむろうとすると、生きた山羊が私のからだの中で、メーメーと鳴いているような気がした。そして後悔の念でいっぱいになって跳ね起きた。しかし、そとのき、肉食は義務なのだと思うと、わたしはいくらか元気をとりもどすのだった。
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 その後同じ友人が或る食堂のコック長としめし合わせ、肉を使ったうまい料理を作り始めたので、彼の誘いに乗り、ガンジーはその食堂で数回、肉料理の御馳走を楽しむようになった。ところが、こうして外で肉料理を楽しんだ後は家での夕食が待っており、母親に「今日は食欲がないのです・・・」などと言い逃れを言うことが、彼の心を痛めることになった、という。

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 ・・・わたしは、嘘をついている、しかも母に向かって嘘をついていることを意識した。また、父と母が、わたしが肉食家になったのを聞き知ったならば、どんなに打撃を被るか、それも承知していた。この意識のために、私の心はかきむしられるようだった。
 そこで私は、自分に言ったのである。
 「肉を食べることは大切だし、また、国で食物の『改革』を取り上げることも大切だけれども、だからといって、父や母をだましたり、嘘をついたりすることは、肉食をしないことよりいっそう悪いことでは無いか。だから、彼らの存命中は、肉食をやめにしなければならない。・・・」
 自分の両親に嘘を言うまい、という純粋な望みの故にわたしは肉を断った。・・・
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 このように、ガンジーは、当初自分の信念というよりは両親に嘘をつきたくないという理由から、それまで守って来た菜食主義の習慣を継続しようとしたことが判る。

 その後、彼は、自身で食事に関する実験を行っているので、その部分を同書から引用する。

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 ・・・そのころ、紅茶やコーヒーを有害であるとし、ココアを愛用する世論が相当行われた。それでわたしは、人間は体に力をつける食物だけをとればよい、と信じていたから、規則としてお茶とコーヒーをよして、ココアに代えた。
 主要な実験と並行させて、小さな実験を幾つか行った。例を上げると、或る時は澱粉食を止めたり、別のときにはパンと果物だけをとって生活してみたり、またある時は、チーズ、ミルク、それから卵で生活してみたりした。
 この最後の実験について、ちょっと述べておきたい。それは二週間と続かなかった。澱粉抜きの食物を推奨する改革かは、卵をほめて、卵は肉とは違うと称した。明らかに、卵を食べても、生物には街はくわえられなかった。わたしはこの説に賛成して、私の誓いを無視して卵を食べた。しかし、このあやまちは、ほんの一時にすぎなかった。わたしが誓いに新しい会食を加えるべきではなかった。わたしには誓いを宣誓した母の解釈こそが重要であった。彼女の定義によると卵は肉のなかにふくまれていたことを、わたしは知っていた。そしてわたしは、あの誓いの真の重要性に気がつくやいなや、卵をとることや、同じような実験をやめてしまった。
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 以上の通り、当時ガンジーの菜食主義は、実験や理論というより、「誓い」を守ることに重点が置かれていたようであるが、後になって「ブラフマチャリア」の視点も出てくる。

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 ・・・ここでわたしは、ブラフマチャリアの希望者に対して、警告を発しておかねばならない。わたしは食事とブラフマチャリアとの緊密な関係をくわしくのべたけれども、確実なことは、精神が中心であるということである。汚れを意識している精神は、断食でも浄められない。食事を変えても、それには効果はない。強烈な自己点検、神への服従、それから最後に恩寵による以外、精神から情欲が根絶されることはない。
 しかし、精神と肉体との間には、密接な関係がある。そして肉体のなかの精神は、いつも美食や贅沢を追い求めてやまない。この傾向を未然に防ぐためには、食べ物の制限や断食が必要となってくるようである。肉体のなかの精神は、感覚を支配する代わりに、その奴隷になってしまう。したがって、肉体は常に清潔な刺激性のない食べ物や、ときどきの断食を必要とする。食べ物の制限や断食を軽くみる人々は、それらにすべてをかけている人々と同じように、誤っている。わたしの経験が教えるところによれば、自己抑制を志すつもりの精神の持ち主にとっては、食べ物の制限や断食は非常に役立つものだ。事実、そうしたことの助けがなければ、情欲を精神のなかから根絶してしまうことはできないのである。
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 そして、最後に来るのが「非殺生」の視点である。但し、筆者が同書を読んだ限りにおいて、彼が菜食主義を「非殺生」とどれだけ関連付けていたのかは不明である。同書の最後に、以下のような文面があるので、引用しておく。

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 修練こそ、わたしにえもいわれる神聖な心の平和をもたらしてくれた。というのは、迷える者に真実と非殺生の信仰がもたらされることは、私の切なる期待であったからである。
 経験は、いずれも、真実以外に神はないことをわたしに信じさせた。そして、これらの各章の各ページがすべて、真実を実現するただ一つの手段は、非殺生であることを読者に宣言していなかったならば、わたしは、これらの章を書いたわたしの努力と言ったものは、ことごとくむだであったと思う。・・・
 普遍的な、そしてすべてに内在する真実の精神に直面するためには、人は最も微々たる創造物をも、同一のものとして愛することが可能でなければならない。しかも、それをウイ窮する人は、あらゆる生活の分野から離れていてはならないのである。これが、真実に対するわたしの献身が、わたしを政治運動の分野のなかに引き込んだ理由である。・・・
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 以上の通り、ガンジーの菜食主義には、「誓い」、ブラフマチャリア(この場合は、「自己抑制」)、そして恐らくは「非殺生」の視点が含まれていたと思われる。

 因みに、筆者の「菜食主義」について、読者諸賢に告白しておかなければならないことがある。以前筆者のブログ、PartIにおいて、「ヨギの食事」について述べたことがある。そして、2011年の1月以降、筆者は鰹出汁を除き、6年と1カ月、基本的に菜食主義を貫いてきた。「基本的に」とお断りしたのは、最後の1-2年間は、小魚(ちりめんなど)は自身の健康の為に、多少は例外として摂っていたからである。無論肉やそれ以外の魚、貝やエビなどの魚介類も厳禁としたが、卵は無精卵であれば「非殺生」には該当しないだろうということで、食べていた。
 一方で筆者は、昨年の9月から、一日8時間以上ヨーガをしてみようと思い立ち、今年の1月まで続けて見た。これには二つの理由があるのだが、その一つはゴヴィンダン先生が一日8時間以上のサーダナを20年以上続けたということなので、それがどれ度大変なことのか、数カ月間自身でも経験してみようと思ったこと。二つ目は、ヨーガの修業もほぼ丸六年になろうとしており、そろそろクンダリニ昇華を体験できるかも知れないという、今にして思えば愚かな期待を持ったことである。ところが残念ながら、クンダリニが目覚めるどころか、2016年の年末から2017年の1月にかけ、三度も結膜下出血を患い、白目が真っ赤になってしまった。2月のインド巡礼の際にもその症状は残っており、インド入国手続きの役人に「What happened to your eye?」と聞かれ、冗談半分に「Too much Yoga」と答えたら、先方も笑っていたが、本人にして見れば、最悪失明したらどうしようかと、一時は内心心配で仕方がなかった。そして結局釈尊が言った通り、「苦行は悟りの因に非ず」ということを自身で証明する結果になってしまった。
 そして話は少し遡る。南インド巡礼のツアーに参加することを決めた後、1月に入ってから、2年ほど音信が途絶えていたIさん(以前筆者のヨーガ教室に通っていたが、お子さんの教育の関係で四国に転居。藤野のトランジション・タウンを一緒に見学したことがある)から突然連絡が来た。それは、「お元気でお過ごしでしょうか。オーロヴィルにいこうかと思っています☆なんとなくご連絡したくなりました」という内容だった。筆者が以前オーロヴィルのことをIさんに話した際、I さんがそれに強い興味を示したことがあったのだが、筆者の南インド巡礼には、そのオーロヴィルも含まれていたのだ。
 実は、1月に入ってから余りにも体調が勝れないため、筆者は最悪四国までの往復飛行機代を払ってでも、Iさんに診て貰おうかと思っていたので、これはまさにシンクロニシティともいえる連絡でもあった。Iさんが、私が会いたいという希望を察知したのか、或いは本人が興味を持っていたオーロヴィルに、私が行くことを察知したのかは判らないが、とにかくその霊感に筆者は驚き、筆者の体調不良の原因を診断して欲しいと告げたところ、四国まで行かなくとも、遠隔で診ることができるということになった。
 そして、Iさんが筆者のことを思念していると、彼女はババジと繋がることが出来たそうである。そしてババジが言うには、①筆者は体のシグナルを無視して、無理しすぎている、②菜食については、人夫々生まれ育った環境や持って生まれた遺伝的な形質が異なるので、無理に継続しなくても良いということであった。ということで、6年間続けた筆者の菜食主義は、「健康」を優先する為に巡礼の直前に解除されることになった。但し、ある程度の「抑制」を保ち続ける意味から、波動を下げやすいと言われている牛肉、そして鮪は引き続き食べないことに決めた。

 参考までに、ヴィヴェーカナンダが食事そして断食に関して、彼の著書『ラージャ・ヨーガ』で述べている部分を引用し、本稿を締め括る。

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 食物に関する、ある制限が必要です。われわれは、心を最もきよらかにする食物をとらなければなりません。動物園に行けばすぐに、このことが実証されているのが見られるでしょう。ゾウがいます。巨大な動物ですが、しずかで柔和です。そしてライオンやトラのおりの方に行けば、彼らの様子を見て、食物によってどんなに大きな違いがうまれているか、おわかりになるでしょう。この肉体の中ではたらいているすべての力は食物から生まれました。われわれは毎日、それを診ています。もしみなさんが断食をはじめられるなら、第一に肉体の力がよわくなり、それから、数日の後に、心の力も影響をこうむるでしょう。まず、記憶力が減退します。それから、考えることができなくなり、推理の過程をたどることなどはいっそうむずかしくなるときがきます。ですからわれわれは、最初はどのような食物をとるべきか、気をつけなければなりません。そして十分な力を得たら、修業が進んだら、このことにはそれほど気をつかう必要はありません。・・・
 ヨーギーは、ぜいたくと苦行の二つの極端はさけなければなりません。彼は断食してはならないし、自分の肉体をひどく苦しめてはなりません。それをする人はヨーギーになれないとギーターは言います。「断食する人、ねむらない人、ねむりすぎる人、はたらきすぎる人、はたらかない人、このような人びとは誰も、ヨーギーにはなれない」(ギーター六章一六節)
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