ブラフマンという言葉も、前稿で取り上げた「アートマン」同様、定義するのに非常に難しい言葉である。しかし仮に人から突然それを説明するよう求められた場合、筆者は次のように説明すると思う。「それは『一切』であり、『至高神』であり、『宇宙の大霊』であり、『真理』であり、『存在』であり、『空』であり、『道』である」と。更に、最近読んだ空海の書籍を念頭におけば、『大日如来』であると言ってもよいと思う。但し、これだけでは恐らくは意味が十分通じないと思われるので、改めてこのブラフマンという言葉の由来から、中村元氏(以下、著者)の『ウパニシャッドの思想』(以下、同書)を引用しながら説明していきたい。
◇◇◇
『リグ・ヴェーダ』においては、ブラフマンとは、もともと念誦することばを意味した。神聖で霊力に満ち打ヴェーダ祭典のことばであった。すなわちヴェーダ聖典の讃歌・祭祀・呪詞のことばであり、祭儀に用いられる呪術的なことばを意味していた。のちにはヴェーダ聖典またはそれについての神聖な知識のことを意味した。さらに転じてそのうちに内在する神秘力をも意味した。ヴェーダのことばに宿っている不思議な呪力、霊力なのである。・・・
ヴェーダ聖典のうちのブラーフマナ文献においては、祭祀とは、人間が人格的存在としての神々に供物をささげて神々を喜ばせることによって恩恵を受けるというよりも、むしろヴェーダのことばを用いて秘密の呪力によって神々や人間を強制し駆使することであった。そうであるならば、非人格的なヴェーダ聖典のことばのほうが神々よりも優位に立つことになる。バラモンはヴェーダ聖典を管掌し、その威力であるブラフマンを内在させているから、ブラーフマナ(司祭者)と呼ばれるのである。インド農村社会において祭式を重んずるバラモンの覇権が確立するにつれて、ブラフマンは特別に重要視され、ついに「世界の根本原理」「絶対者」の名称にまで高められた。だから、インドの一般の文献では、ブラフマンというと「絶対のもの」「神聖なもの」を意味するのである。
そしてウパニシャッドにおいては「世界に生気を与えて動かしている聖なる原理」「究極の本源的な原理」と考えられるようになった。そしてこの最高原理が実体視されるに到ったのである。それは自然の奥にある活力であり、万有を形成し支持するものである。明確な概念規定は存在しなかったが、漠然としてそのようなものとして考えられたのである。
そうして後代のインドにおいては、一般に「ブラフマン」という語はもはや原義を喪失してしまった。正当バラモン系統の哲学においては、もっぱら純粋に抽象的な絶対者そのものを支持する哲学的述語となった。・・・
ブラフマンが世界原理として立てられると、やがてブラフマンからの世界開展も説かれるようになった。そして、このブラフマンは、我々の本来の自己であるアートマンと同一視されるに到る。
『このブラフマンは、前もなく、後ろもなく、内もなく、外もない。ブラフマンはこのアートマンであって、一切のものを知覚する。』
ここでは、従来たどたどしく発展してきたアートマンの形而上学と、ブラフマンの形而上学が合体したわけである。シャンカラはここに世界原因としてのブラフマンを説いているのだと解するが、世界原因の説はまだここでは述べられていない。
さらに、ブラフマンは、非人格的な根本原理と見なされた。ウパニシャッドに出てくる「ブラフマンの世界」とは、世界の創造支配者である梵天の世界を表示しているようである。が、しかしまた後に述べるように、「貴い世界」というほどの意味であったのかもしれない。
また、後世にはブラフマンは現象世界を超越したものと考えられた。シャンカラによると、ブラフマンは、空間と時間とに限定されていないで、一切の変化から離れているという。ウパニシャッドにおけるブラフマンの観念は、祭祀学的論議からシャンカラの超越論理的理解にいたるまでの過程のどこかに位置づけられるもののように思われる。
◇◇◇
以上の通り、ブラフマンの定義は余りにも多様であり、著者も「祭祀学的論議からシャンカラの超越論理的理解にいたるまでの過程のどこかに位置づけられるもののように思われる」と言って、その定義を特定することを避けるほどである。といいつつも、同書にはまだ様々な哲人の見解が述べられているので、その重要なものを更に引用して行く。
次に登場するのは、ウパニシャッドの哲人、シャーンディリヤである。
◇◇◇
自己すなわち個我と絶対者とが同一であるという思想は、初期のウパニシャッド哲人においては、すでに述べたように、ただ直観的に表明されていただけにすぎなかったが、この道理をはじめて詳細にといたのが哲人シャーンディリヤであった。
シャーンディリヤは万有の真理(satya)をブラフマンと呼び、それは我々が経験する一切の事物(全宇宙)と同一である、と説いている。従って、かれの思想をつきつめていうと、真理或は実在は、現象世界の背後に隠れて存在するものではないし、また現象世界を超越して存在するものではなくて、一切の現象がそのまま真理なのである。それは無限大であり、『全宇宙に遍満』、『一切の方角にわたって支配している』という。
さらに、シャーンディリヤのブラフマンは、『一切の行為をなし』、『一切の欲望をもち』、『欲するがままの相を現ずるもの』であり、したがって、それは『一切の香りをそなえ、一切の味を含み』、『意のごとくに速やか』である。
その絶対者は形態や思考に関しては、人間とは似ても似つかぬものである。シャーンディリヤによると、ブラフマンは『思惟したことはかならずその通りになる者』、『意図したことはかならずその通りになる者』であり、自己の思惟、意欲がそのまま現実に実現される。絶対のものは、我々の思慮を越えたものである。
◇◇◇
最後の部分で、「絶対のものは、我々の思慮を越えたものである」と書いているが、これはまさしくその通りであり、そもそも文字でも言葉でも表現不能であるから、禅宗においても「不立文字」と表現するのであろう。つまり、それは自身で体得・経験してみる他に知りようが無いものなのだ(それにも拘わらず、筆者はブラフマンを定義付けよとしているが・・・)。
ところでシャーンディリヤは、もう一つ非常に面白いことを言っているので、その部分も引用する。
◇◇◇
さて、シャーンディリヤによると、絶対者としてのブラフマンまたはアートマンは、極大にしてまた極小である。それはすばらしく大きなものであると同時に、それは、われわれのうちにある非常に小さなものでもある。それは一方では『米粒よりも、あるいは麦粒よりも、或いは芥子粒よりも或は黍粒よりも、あるいは黍粒の各よりも、さらに微細である』と説かれるとともに、また他方では『大地よりも大きく、虚空よりも大きく、天よりも大きく、これらのもろもろの世界よりも大きい』という。他のウパニシャッドにも同様の表現が認められる。
このシャーンディリヤの立言のうちに、われわれは「反対の一致」の思想を認めることが出来る。「絶対のもの」ということを非常に大きなものだと世人は考えているが、じつは、われわれ各個人のうちに潜んでいるものであって、それが絶対なものである、ということを説いたわけである。・・・
◇◇◇
つまり、ブラフマンは「極大」にして「極小」だと言うのである。因みにここで、ギーターがブラフマンをどのように説明しているか、引用してみたい。第13章、上村勝彦の訳による。
◇◇◇
・私は知識の対象を告げよう。それを知れば人が不死に達するところの。それは、無始なる最高ブラフマンである。それは有とも非有とも言われない。
・それは一切の方角に手足を持ち、一切の方角に眼と頭と口を持ち、一切の方角に耳を持ち、世界において一切を覆って存在している。・・・
・それは万物の外にあり、かつ内にあり、不動であり、かつ動き、微細であるから理解されない。それは遠くにあり、かつ近くにある。
・それは分割されず、しかも万物の中に分割されたかのように存在する。それは万物を維持し、呑み込み、創造するものであると知らるべきである。
・それは諸々の光明のうちの光明であり、暗黒の彼方にあると言われる。それは知識(真知)であり、知識の対象であり、知識により到達さるべきものである。それは全てのものの心に存在する。
◇◇◇
ここでは、「それは万物の外にあり」ということで「極大」を現わし、「かつ内にあり、・・・微細である」ということで「極小」を表現している。
このように、ブラフマンを表現しようとすると、相反する形容詞を同時に使わなければ表現できないという点で共通していることを心に留めて頂きたい。
同書を読み進めると、他にもブラフマンを表現する文章が数多く出てくるのであるが、逐一引用していくと切りがないので、最後に「世界原因」としてのブラフマンについて述べた個所を引用し、本稿を終えたい。
◇◇◇
・・・やや遅れて成立したウパニシャッドにおいては、<絶対者>はいくらか異なったしかたで説明された。
『ヴァルナの子ブリグは、じつに父なるヴァルナに近付いていった、「父上! ブラフマンを教えて下さい」と。 そこで[父は]かれに次のことを説いた、「すなわちブラフマンを食物、生気、眼、耳、意、ことばであると説いたのである」と。そこで[父は]さらにかれに、次のように説いた、「じつにそれから、このもろもろの存在が生じた処のもの、それによって、この生じたものどもが生きるところのもの、これらのものが死に行くときに、そのうちに没入するところのもの、それを認識しようとせよ。それがブラフマンである」と。』
[ウパニシャッドにおけるある哲人は、このような原理を<無限者>と呼んでいることがある。]
ここでは一般的な定義として、ブラフマンを、諸々の存在の根源と解しているのである。そして、この文句は、ブラフマンが世界の生起と存続と帰滅との起こる源泉であるということを教えているのであると、シャンカラは解する。さらにこの文句は、ブラフマンが認識されるべき対象であるということを直接に説いているのである、とシャンカラは解する。
そして、この定義は、後にヴェーダーンタ学派においては、ブラフマンの定義として採用されている。・・・
◇◇◇
シャンカラは「ブラフマンが認識されるべき対象であるということを直接に説いているのである」としているが、これは先に引用したギーターの章句とも重なる。即ち、「それは知識(真知)であり、知識の対象であり、知識により到達さるべきものである」。
PS(1): 尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
PS(2):『ヴォイス・オブ・ババジ』の日本語訳がアマゾンから発売されました(キンドル版のみ)。『或るヨギの自叙伝』の続編ともいえる内容であり、ババジの教えなど詳しく書かれていますので、興味の有る方は是非読んでみて下さい。価格は¥800です。
◇◇◇
『リグ・ヴェーダ』においては、ブラフマンとは、もともと念誦することばを意味した。神聖で霊力に満ち打ヴェーダ祭典のことばであった。すなわちヴェーダ聖典の讃歌・祭祀・呪詞のことばであり、祭儀に用いられる呪術的なことばを意味していた。のちにはヴェーダ聖典またはそれについての神聖な知識のことを意味した。さらに転じてそのうちに内在する神秘力をも意味した。ヴェーダのことばに宿っている不思議な呪力、霊力なのである。・・・
ヴェーダ聖典のうちのブラーフマナ文献においては、祭祀とは、人間が人格的存在としての神々に供物をささげて神々を喜ばせることによって恩恵を受けるというよりも、むしろヴェーダのことばを用いて秘密の呪力によって神々や人間を強制し駆使することであった。そうであるならば、非人格的なヴェーダ聖典のことばのほうが神々よりも優位に立つことになる。バラモンはヴェーダ聖典を管掌し、その威力であるブラフマンを内在させているから、ブラーフマナ(司祭者)と呼ばれるのである。インド農村社会において祭式を重んずるバラモンの覇権が確立するにつれて、ブラフマンは特別に重要視され、ついに「世界の根本原理」「絶対者」の名称にまで高められた。だから、インドの一般の文献では、ブラフマンというと「絶対のもの」「神聖なもの」を意味するのである。
そしてウパニシャッドにおいては「世界に生気を与えて動かしている聖なる原理」「究極の本源的な原理」と考えられるようになった。そしてこの最高原理が実体視されるに到ったのである。それは自然の奥にある活力であり、万有を形成し支持するものである。明確な概念規定は存在しなかったが、漠然としてそのようなものとして考えられたのである。
そうして後代のインドにおいては、一般に「ブラフマン」という語はもはや原義を喪失してしまった。正当バラモン系統の哲学においては、もっぱら純粋に抽象的な絶対者そのものを支持する哲学的述語となった。・・・
ブラフマンが世界原理として立てられると、やがてブラフマンからの世界開展も説かれるようになった。そして、このブラフマンは、我々の本来の自己であるアートマンと同一視されるに到る。
『このブラフマンは、前もなく、後ろもなく、内もなく、外もない。ブラフマンはこのアートマンであって、一切のものを知覚する。』
ここでは、従来たどたどしく発展してきたアートマンの形而上学と、ブラフマンの形而上学が合体したわけである。シャンカラはここに世界原因としてのブラフマンを説いているのだと解するが、世界原因の説はまだここでは述べられていない。
さらに、ブラフマンは、非人格的な根本原理と見なされた。ウパニシャッドに出てくる「ブラフマンの世界」とは、世界の創造支配者である梵天の世界を表示しているようである。が、しかしまた後に述べるように、「貴い世界」というほどの意味であったのかもしれない。
また、後世にはブラフマンは現象世界を超越したものと考えられた。シャンカラによると、ブラフマンは、空間と時間とに限定されていないで、一切の変化から離れているという。ウパニシャッドにおけるブラフマンの観念は、祭祀学的論議からシャンカラの超越論理的理解にいたるまでの過程のどこかに位置づけられるもののように思われる。
◇◇◇
以上の通り、ブラフマンの定義は余りにも多様であり、著者も「祭祀学的論議からシャンカラの超越論理的理解にいたるまでの過程のどこかに位置づけられるもののように思われる」と言って、その定義を特定することを避けるほどである。といいつつも、同書にはまだ様々な哲人の見解が述べられているので、その重要なものを更に引用して行く。
次に登場するのは、ウパニシャッドの哲人、シャーンディリヤである。
◇◇◇
自己すなわち個我と絶対者とが同一であるという思想は、初期のウパニシャッド哲人においては、すでに述べたように、ただ直観的に表明されていただけにすぎなかったが、この道理をはじめて詳細にといたのが哲人シャーンディリヤであった。
シャーンディリヤは万有の真理(satya)をブラフマンと呼び、それは我々が経験する一切の事物(全宇宙)と同一である、と説いている。従って、かれの思想をつきつめていうと、真理或は実在は、現象世界の背後に隠れて存在するものではないし、また現象世界を超越して存在するものではなくて、一切の現象がそのまま真理なのである。それは無限大であり、『全宇宙に遍満』、『一切の方角にわたって支配している』という。
さらに、シャーンディリヤのブラフマンは、『一切の行為をなし』、『一切の欲望をもち』、『欲するがままの相を現ずるもの』であり、したがって、それは『一切の香りをそなえ、一切の味を含み』、『意のごとくに速やか』である。
その絶対者は形態や思考に関しては、人間とは似ても似つかぬものである。シャーンディリヤによると、ブラフマンは『思惟したことはかならずその通りになる者』、『意図したことはかならずその通りになる者』であり、自己の思惟、意欲がそのまま現実に実現される。絶対のものは、我々の思慮を越えたものである。
◇◇◇
最後の部分で、「絶対のものは、我々の思慮を越えたものである」と書いているが、これはまさしくその通りであり、そもそも文字でも言葉でも表現不能であるから、禅宗においても「不立文字」と表現するのであろう。つまり、それは自身で体得・経験してみる他に知りようが無いものなのだ(それにも拘わらず、筆者はブラフマンを定義付けよとしているが・・・)。
ところでシャーンディリヤは、もう一つ非常に面白いことを言っているので、その部分も引用する。
◇◇◇
さて、シャーンディリヤによると、絶対者としてのブラフマンまたはアートマンは、極大にしてまた極小である。それはすばらしく大きなものであると同時に、それは、われわれのうちにある非常に小さなものでもある。それは一方では『米粒よりも、あるいは麦粒よりも、或いは芥子粒よりも或は黍粒よりも、あるいは黍粒の各よりも、さらに微細である』と説かれるとともに、また他方では『大地よりも大きく、虚空よりも大きく、天よりも大きく、これらのもろもろの世界よりも大きい』という。他のウパニシャッドにも同様の表現が認められる。
このシャーンディリヤの立言のうちに、われわれは「反対の一致」の思想を認めることが出来る。「絶対のもの」ということを非常に大きなものだと世人は考えているが、じつは、われわれ各個人のうちに潜んでいるものであって、それが絶対なものである、ということを説いたわけである。・・・
◇◇◇
つまり、ブラフマンは「極大」にして「極小」だと言うのである。因みにここで、ギーターがブラフマンをどのように説明しているか、引用してみたい。第13章、上村勝彦の訳による。
◇◇◇
・私は知識の対象を告げよう。それを知れば人が不死に達するところの。それは、無始なる最高ブラフマンである。それは有とも非有とも言われない。
・それは一切の方角に手足を持ち、一切の方角に眼と頭と口を持ち、一切の方角に耳を持ち、世界において一切を覆って存在している。・・・
・それは万物の外にあり、かつ内にあり、不動であり、かつ動き、微細であるから理解されない。それは遠くにあり、かつ近くにある。
・それは分割されず、しかも万物の中に分割されたかのように存在する。それは万物を維持し、呑み込み、創造するものであると知らるべきである。
・それは諸々の光明のうちの光明であり、暗黒の彼方にあると言われる。それは知識(真知)であり、知識の対象であり、知識により到達さるべきものである。それは全てのものの心に存在する。
◇◇◇
ここでは、「それは万物の外にあり」ということで「極大」を現わし、「かつ内にあり、・・・微細である」ということで「極小」を表現している。
このように、ブラフマンを表現しようとすると、相反する形容詞を同時に使わなければ表現できないという点で共通していることを心に留めて頂きたい。
同書を読み進めると、他にもブラフマンを表現する文章が数多く出てくるのであるが、逐一引用していくと切りがないので、最後に「世界原因」としてのブラフマンについて述べた個所を引用し、本稿を終えたい。
◇◇◇
・・・やや遅れて成立したウパニシャッドにおいては、<絶対者>はいくらか異なったしかたで説明された。
『ヴァルナの子ブリグは、じつに父なるヴァルナに近付いていった、「父上! ブラフマンを教えて下さい」と。 そこで[父は]かれに次のことを説いた、「すなわちブラフマンを食物、生気、眼、耳、意、ことばであると説いたのである」と。そこで[父は]さらにかれに、次のように説いた、「じつにそれから、このもろもろの存在が生じた処のもの、それによって、この生じたものどもが生きるところのもの、これらのものが死に行くときに、そのうちに没入するところのもの、それを認識しようとせよ。それがブラフマンである」と。』
[ウパニシャッドにおけるある哲人は、このような原理を<無限者>と呼んでいることがある。]
ここでは一般的な定義として、ブラフマンを、諸々の存在の根源と解しているのである。そして、この文句は、ブラフマンが世界の生起と存続と帰滅との起こる源泉であるということを教えているのであると、シャンカラは解する。さらにこの文句は、ブラフマンが認識されるべき対象であるということを直接に説いているのである、とシャンカラは解する。
そして、この定義は、後にヴェーダーンタ学派においては、ブラフマンの定義として採用されている。・・・
◇◇◇
シャンカラは「ブラフマンが認識されるべき対象であるということを直接に説いているのである」としているが、これは先に引用したギーターの章句とも重なる。即ち、「それは知識(真知)であり、知識の対象であり、知識により到達さるべきものである」。
PS(1): 尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
PS(2):『ヴォイス・オブ・ババジ』の日本語訳がアマゾンから発売されました(キンドル版のみ)。『或るヨギの自叙伝』の続編ともいえる内容であり、ババジの教えなど詳しく書かれていますので、興味の有る方は是非読んでみて下さい。価格は¥800です。