アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第5章 ヒンドゥー教とガンジー ⑤ 無所有

2017年05月25日 15時45分28秒 | 第5章 ヒンドゥー教とガンジー
 「本来無一物」という禅語がある。これには色々な解釈があるようであるが、ネットで調べてみると真の意味は、全ての物は「空性」即ち「無」であるゆえに、何物にも執着してはならぬという教えを説いた言葉だそうだ。筆者が三十代に、生長の家の『生命の実相』を読んだ時にも、そのような説明がなされていたように記憶している。ところで、人間は裸一貫で生まれて来て、死ぬときは何も持たずにあの世に行く。つまり、いくらお金を貯め、物を蓄えても、所詮死ぬ時は、あの世には持って行けない。それでは、本当に人間が「所有する」ものとは何なのか? あの世に人間が持って行くことが出来るものはあるのだろうか? 本稿ではそんなことを改めて考え直してみたい。

 ガンジー自伝の第五部、40話の題名は「ギーターの研究」であり、接神論者(セオソフィスト)の友人たちと一緒に読書会を開き、ヴィヴェーカナンダの『ラージャ・ヨーガ』(日本語訳あり)、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』そして『バガヴァッド・ギーター』を読んだと書かれている。特にガンジーは、ギーターに対する信仰を持ち、その内の十三章分を暗記してしまったと書いてある。そして、このように書いている。

◇◇◇
 ギーターを読むことが、わたしの友人にどんな感化を及ぼしたかについては、友人だけが言えることである。しかしわたしにとって、ギーターは行為における不可欠の指針になった。それは、私の日常必携の事典となった。無所有(アパグラハ)や平等(サマバーヴァ)という言葉が、わたしの心をとらえた。どのようにして平等を生み出し、そして維持していくかは、問題である。
 たとえば、人を侮辱し、尊大で腐敗した役人や、意味の無い反対をして別れた昨日までの共同者と、つねに他人に対して善をなしている者を同じように扱うことが、いったい平等であったか。さて、全ての所有物をすててしまうことが、一体無所有であったか。肉体それ自身、立派な所有物ではなかったか。妻や子供は所有物でなかったか。私は、わたしのもっていた書棚の本全部を破り捨てるべきであったか。わたしは、わたしの持っていたもの全部をあきらめて、神にしたがうべきであったのかどうか。その解答ははっきりしている。すなわち、私の持っているものをあきらめない限り、私は神に従うことは出来なかったのである。わたしは、イギリス法の研究の助けを借りて、所有ということを考えた。私は「受託」という言葉の意味を、ギーターの教えに照らして、いっそう明らかに理解することに努めた。そしてわたしは、無所有に関してギーターの教えていることは、救いを求める者は莫大な財産の管理はするが、そのうち一銭たりとも、彼の私有とみなしてはならない、ということであると知った。無所有と平等は、心情の変化、態度の変化を前提とするということが、白日のようにわたしに明らかにされた。・・・
◇◇◇

つまり、ガンジーは、仮に自分が購入するなどの手段で入手したものであったとしても、それはあくまでも「受託」されているもの、つまり預かりものとして、自分自身のために使ってはならないという信念を持っていたということであり、或る意味では、謙譲の究極の境地と言えるかもしれない。

 因みに、ギーターの主要なテーマの一つに、「無執着」或いは「離欲」といったことが挙げられる。特にこの「離欲」無くして、人はヨーガ即ち「神人合一」の境地に達することはできない。当然「所有」ということも諦める必要がある訳であり、ギーターの第18章53-54節(上村勝彦氏訳)には次のように書かれている。

◇◇◇
 我執、暴力、尊大さ、欲望、怒り、所有を捨て、「私のもの」という思いなく、寂静に達した人はブラフマンと一体化することができる。
 ブラフマンと一体になり、その自己が平安になった人は、悲しまず、期待することもない。彼は万物に対し平等であり、私への最高の信愛(バクティ)を得る。
◇◇◇

 この「無所有」とか「無執着」といったことは、禅宗のみならず伝統的な仏教においても重要な徳目であり、中村元氏の『ブッダ伝』には次のように書かれている。

◇◇◇
 執著を離れ、我執を捨てることは、わたしのものという所有の観念を捨てることでもあります。これはジャイナ教の五戒の第五「無所有」の戒律の精神と同じことで、仏教でもこれを説きます。

・わがものとして執著したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと「物惜しみ」とを捨てることがない。それゆえに諸々の聖者は、所有を捨てて行なって安穏を見たのである。(スッタニパータ809)
・かれは世間において、<わがもの>という所有がない。また無所有を嘆くこともない。彼は[欲望に促されて]、諸々の事物に赴くこともない。彼は実に<平安なる者>と呼ばれる(同861)
・われらは一物をも所有していない。おおいに楽しく生きて行こう。・・・(ダンマパダ200)

 具体的にいえば、家族や財産をわがものと見なしてはならぬ、子供や牛などがあるのを喜ぶのは悪魔のしわざであると考えたようです。その経典は前のほうに出ています。
 それでは、なぜわがもの、わが所有という考えを捨てなければならないのでしょうか。わがもの、自分の所有だと思っているものは移り変わり、いつまでも自分のものでいることはないからです。・・・
◇◇◇

 それでは、冒頭の質問、「本当に人間が所有するものとは何なのか? あの世に人間が持って行くことが出来るものはあるのだろうか?」に対する答えはあるのだろうか? 同じ『ブッダ伝』に、次のように書かれている。サンユッタ・ニカーヤより。

◇◇◇
 ・・・人がこの世でなす善と悪との両者は、その人の所有するものであり、人はそれを執って[身につけて]おもむく。それは、かれに従うものである。
◇◇◇

 つまり、人があの世に持って行くものは、「善業」と「悪業」だけだということである。それは、キリスト教においても基本的には同じことであり、聖書にはこのように書かれている。マタイ福音書第6章より。

◇◇◇
 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗みだすような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
◇◇◇

 このように、ギーター(ヒンドゥー教)、仏教、ジャイナ教、キリスト教が「無所有」について教えることは、皆同じである。


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