アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第16章 神の詩 ⑤修行

2012-02-03 05:33:51 | 第16章 神の詩
島岩氏の『シャンカラ』(第13章⑤参照)に、インドのカースト制度(インドではヴァルナと言い、紀元前1,000年から紀元前600年頃に成立)の根拠が次のように説明されている。

「このヴァルナ・ジャーティ(ジャーティ:ヴァルナ内部の細かな社会集団)体制に、思想的根拠を与え続けたのは、バラモンであった。その根拠づけの一つがまず、ヴェーダ聖典の伝統的権威に裏付けられたダルマ(法)の整備であう。それはたとえば、創造主ブラフマンの口、腕、腿、足からそれぞれ、バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラが誕生したとする『リグ・ヴェーダ』の記述を典拠として、四ヴァルナの上下関係を神意に基づくものとした『マヌ法典』以来のダルマの伝統の中に求められる。もう一つは、上位ヴァルナほど浄であり、下位ヴァルナほど不浄であるとする浄・不浄による根拠付けである。・・・最後は、ウパニシャッドにまでその起源が遡る業・輪廻思想による根拠づけである。即ち、『人が各自のヴァルナ・ジャーティに生まれたのは、前世の業の結果であり、現世でヴァルナ・ジャーティの義務に専念することでのみ、来世での幸福が約束されるのだ』、という形で現状が説明されるのである。」

そして、更にそれを裏付けるように、ギーターの中に各カースト(ヴァルナ)の義務が次のように記載されている。『神の詩』第18章から引用する。

敵を懲罰する者 アルジュナよ
バラモン クシャトリア ヴァイシャ
そしてスードラは生来持つ物質性(グナ*)によって
それぞれに義務(仕事)が定められている   (第18章41節)

平静 自制 「修行」  (注:「 」は筆者が付した)
純潔 寛容 正直
知識 智慧 深い信仰心 -
これらは生来の性質によるバラモンの義務である (第18章42節)

武勇 支配力 決断力
知謀 機知および資力に富むこと
戦闘における幽鬼 寛大 指導力
これらは天性によるクシャトリアの義務である  (第18章43節)

農耕 牛飼い 商売は
ヴァイシャの天性による仕事であり
労働と召使の仕事は
スードラに与えられた仕事である   (第18章44節)

*グナ:プラクリティの構成要素である、サットヴァ、ラジャス、タマスを纏めてグナ、
或いはトリグナ(三種のグナ)と呼ぶ。例えば、バラモンに生まれた人は、
生まれつきサットヴァ(純質)のグナを多く保持しているとされる。第13章⑫参照

つまり、修行というのは、生来の性質(サットヴァ、即ち純質)によるバラモンの義務(仕事)であるとされている。そしてバラモンの修行とはヴェーダの聖典に則った祭式の学習なども含んでいると考えられるが、究極的には真我実現に向けてのものと解すべきであろう。古代のインドにおいては厳しいカースト制度のもとで、カースト間の移動は禁止されていたようであるから、修行はバラモンとして生まれた者だけに課された義務ということになるが、現代社会においてはそうした身分秩序の制限を超えて、真我実現を目指す人たちの義務と素直に考えれば良いであろう。
そして、真我実現を目指す者がどのような修行を行うべきかに就いては第6章に記載されている。

八段階のヨーガ(本章④参照)を登り始めた初心者は
行為すること(体による修行)が定法であり
既にヨーガの頂上に達した人は
一切の行為を止めるのが定法である (第6章3節)

ヨギは常に心を至上者(かみ)に置き
人里離れた所に独り住んで
いつも注意深く心を統御し
欲望と所有感を捨てなければならない  (第6章10節)

ヨーガを実習する人は人里離れた所に行き
地面にクシャ草を敷いて
その上に鹿皮と柔らかい布をかぶせる
座は高すぎず 低すぎぬように -
それを神聖な場所において
そこにヨギはしっかりと座を組み
心と感覚を統御して心意識(ハート)を清め
精神を一点に集中して修行する     (第6章11-12節)

体と頸(くび)と頭を一直線に立てて
鼻の先端を凝視せよ
心乱さず 静かに和やかに 怖れなく
性生活を完全に放棄して
専心(ひたすら)わたしを想い わたしを究極目標とせよ  (第6章13-14節)

このように体と心と行動とを
統御する修行を積み上げて
ヨギは物質界を脱出して
わが住処(すまい)なる神霊王国(かみのくに)へ来るのだ  (第6章15節)

アルジュナよ ヨーガを行ずるには
あまり多く食べ過ぎてはいけない
また小食に過ぎてもいけない
眠りすぎても 睡眠不足でもいけない  (第6章16節)

食べること 眠ること 仕事すること
また休養や 娯楽(たのしみ)についても
節度ある習慣をもてば ヨーガの実習により
物質的苦悩を除くことができる     (第6章17節)

確固不動の決意と信念をもって
ヨーガの修行をつづけよ
小我の妄動より発する一切の欲望を捨て
あらゆる方面から感覚を統御せよ   (第6章24節)

十分な確信をもって一歩また一歩と
知性(ブッディ)に導かれてサマーディの峰に登れ
そして心をただ一つ真我(アートマン)に固定し
ほかの一切を思うな 考えるな    (第6章25節)

冒頭、「初心者は行為することが定法」との記載(第6章3節)があるが、これは坐法(アーサナ)のことと考えて間違いないであろう(場合によっては、カルマ・ヨーガも含むとの解釈も成り立つかも知れないが)。以前にも触れたと思うが、このアーサナは修行の上で素晴らしい効用をもたらすので主なものを簡単に箇条書きにしておく。
(1) 体を柔らかくすることで気の流れを改善する
(2) 毒素を排出し、肉体を浄化する
(3) 各チャクラを刺激し、チャクラの覚醒を促す
(4) 副交感神経優位の状態をもたらす (良く眠れるようになる)
(5) 以上の複合作用により健康を増進し、老化を防ぐ

ということで、良いことずくめなのであるが、もう一つ意外に知られていない重要な効用がある。それは、ヨーガ・スートラに拠れば、瞑想(三昧も含む)の際に安定した坐りをもたらす助けになるということであり、これがアーサナを修習する最も重要な目的でもあるということである。

次に、「ヨーガの頂上に達した人は 一切の行為を止めるのが定法である」の意味は、いろいろに解釈できそうである。例えば三昧の境地に入れば呼吸も止まるし心の動きも止滅するので(無論筆者は未経験だが、最終的には心臓も止まり、仮死状態になると云う)、一切の行為を行っていないことになるが、果たしてそれだけであろうか?筆者が思うに、行為の主体はあくまでも自我であるから、真我に留まることによって「自己は行為していない」との自覚に至ることも含んでいると解することもできる(本章③で引用した、第3章27-28参照)。考えすぎであろうか?

それから、「体と頸(くび)と頭を一直線に立てて 鼻の先端を凝視せよ」(第6章13)の先ず前半部分であるが、これは瞑想と調気(プラーナヤーマ)の姿勢を述べたものであり、この姿勢が整わないままプラーナヤーマを実施すると腰を痛めることがあるので注意が必要である。この点はヴィヴェーカナンダもその著書の中で述べているし、実は筆者も経験した(アーサナを開始して半年程経った頃、一時腰痛に悩まされたが、調気法の際の姿勢を改めたところ、腰痛も改善した)ことである。後半の「鼻の先端を凝視せよ」という部分は、確かにそういう行法もあるが、そればかりを行えということではなく(やぶ睨みの練習を勧めている訳ではなく)、基本的には精神集中の練習を勧めているものだということが、シュリ・ユクテスワ師の言葉として『あるヨギの自叙伝』に紹介されていたものと記憶している。

それ以外の部分は、時代背景が異なるので多少違和感を覚える部分もあるが(無論鹿皮など買い求めなくても現代ではヨガマットがあれば十分であり、山奥に隠棲する必要もない)、基本的には読んで字の如しである。
他にも、修行に触れている部分があるので、最後に引用しておきたい。以下は、普段の心掛けでもあり、八段階のヨーガ(アシュターンガ・ヨーガ)で言えば、禁戒と勧戒に相当すると言って良いと思う。

肉体的修行について言えば -
神々を礼拝し 長上の人や
師 賢者を敬って仕え
清潔 正直 節制 非暴力であること  (第17章14節)

言葉の修行は - 真実を語ること
やさしく快い言葉 有益な言葉を語ること
他人の心を乱したり扇動したりせぬこと
そしてヴェーダ聖典を規則的に読誦すること (第17章15節)

心の修行は -
足ることを知って常に心おだやかに
正直 率直 沈着であり
自己抑制をして身心の浄化につとめること  (第17章16節)

体 言 心の三種の修行を
清らかな信仰を持つ人々が
報果(むくい)を求めずに行うときに
これをサットワの修行という     (第17章17節)

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