田中嫺玉氏は、ギーターの第四章を智識(ジニャーナ)のヨーガと名付けている。一方でヴィヴェーカナンダは『ギャーナ・ヨーガ』という本を著しているが、それも智識のヨーガのことで、日本語での表記が異なるだけである(本ブログ第13章⑭参照)。ところで、それは本章①知性のヨーガとどのように異なるのだろうか、正直なところ今一つ筆者にも判然としないのであるが、一応言葉の意味だけを説明しておく。知性は心のなかでもサットヴァの性質を有し、プルシャの光を最も良く反映している為、普通の人はそれを自分自身と思いこんでいる所のものである。但し、基本的に知性(ブッディ)は心(自我)の一部であるからプラクリティ(つまり非実在)に属するのに対し、智識は基本的には真我からもたらされるものであるからプルシャに属しているものである。しかし修行者がヨーガなどの修行を通じて真我実現に至った時、知性は、最終的に智識と一体になるというのが筆者の理解である。
先ずは『神の詩』第四章からの引用であり、以下の前段はまさに真我実現したヨギを表現した部分である。本章②での引用と一部重複する。
すべて欲望を持たずに行動する者は
完全智を得た人と心得よ
賢者たちは そのような人々を
大智の火で業(カルマ)を焼き尽くした人と呼ぶ (第4章19節)
仕事の結果に全く執着しないひとは
常に楽しく 自由自在である
あらゆる種類の活動をして
しかも無活動 無業報である (第4章20節)
このような英智の人は精神を完全に統御して
“我所有”(わがもの)の観念が全く無い
肉体を維持するに足るだけ働き
したがって悪業報を全く受けない (第4章21節)
無理なく入ってくるもので満足し
我・他 彼・此(あれこれ)を比較して悩み羨むことなく
成功にも失敗にも心を動かさぬ者は
どんな仕事をしても束縛されない (第4章22節)
物質界(このよ)の利害得失を超越して
無執着の活動をする
自由な人のする仕事は
ことごとく至上者への供犠(ささげもの)となる (第4章23節)
聖なる意識で活動すれば
必ず聖なる領域(くに)に達する
聖なる意識で捧げた供物も 供養者(そのひと)も
ことごとく永遠の大実在(ブラフマン)である (第4章24節)
種々様々な 天神地祇(かみがみ)に
それぞれ異なった形式で供養する修行者(ヨギ)もあり
ブラフマンの火のなかに
捧げものをする修行者もいる (第4章25節)
聴覚その他の感覚を
抑制の火に投じて供え物とし
また 音その他の感覚対象を
供犠の火壇に供える者たちもいる (第4章26節)
真我実現を熱望している人々は
心と感覚をすべて抑制し
五官の機能と呼吸までも供犠として
精神統一の火に投じる (第4章27節)
厳しい誓いをたてて
ある者は財産を捧げ ある者は苦行をする
またヨーガの八秘法*を行う者もあり
またある者は無上の智識を求めてヴェーダを学ぶ (第4章28節)
恍惚境に入るため呼吸を支配する者もいる
呼気(プラーナ)を吸気(アパーナ)に また吸気を呼気に捧げ
ついに呼吸を全く止めて恍惚境に入る
また食を制し 呼気を呼気に捧げて供物とする (第4章29節)
供犠の真意を知って行う者は
罪障の業報を免れ 心身を清めて
その供物の残余(のこり)である甘露を味わいつつ
永遠の楽土に入って行くのだ (第4章30節)
敵を撃滅する者よ(筆者註:アルジュナを指す) 物品の供犠より
智識の供犠は はるかに勝る
プリターの息子(筆者註:アルジュナ)よ すべての活動は
究極には超越知識に通じる (第4章33節)
導師に近づいて真理を学び
うやうやしく問い 教えに従って師に仕えよ
自己の本性を覚った見真の人は
弟子に智識を授けることができるのである (第4章34節)
このようにして真理を知ったならば
君は再び幻影に迷うことなく
全宇宙の生物はすべて わたしの一部であり
わたしの内にあり わたしの所有だと知るのだ (第4章35節)
たとえ君が極重の罪人だとしても
この大智の舟に乗ったならば
あらゆる苦痛と不幸の大海を
難なく渡り超えて行くことができよう (第4章36節)
アルジュナよ 燃えさかる炎が
薪を焼き尽くして灰にするように
あらゆる行為の業報はことごとく
智慧の火によって燃え尽き灰となる (第4章37節)
この大いなる智識こそ
この世における無上の浄化力
ヨーガによって これを完成した人は
ただ内なる真我を楽しむ (第4章38節)
バラタ王の子孫(筆者註:アルジュナ)よ 心の迷いと疑いは
君の無知が原因で生ずるのだ
さあ 智慧の剣でそれを斬り捨て
ヨーガで武装し 立ちあがって戦え (第4章42節)
*ヨーガの八秘法:またはヨーガの八段階(八つの行法)とも言う。禁戒、勧戒、坐法、
調気(プラーナヤーマ)、制感、凝念、静慮(瞑想)、三昧を指す。
ここでは必ずしも八段階のヨーガ(アシュターンガ・ヨーガ)だけがその修行法であるとは言っていない。苦行を通じてもヴェーダを学ぶことを通じても真我実現に到達することが出来ると解するのが妥当であろう。ポイントは、全ての行為は無執着あるいは無欲で行い、且つ神に捧げるものとして行うべきことであり、無論自己実現に至るための修行もその例外ではない(本章②を参照)。そしてその修行の際には、導師(グル)に師事することの重要性が説かれている。尚、ここで言っているヨーガとは、真我実現により、知性(ブッディ)が智識と一体になった状態を指しているものと考えて間違いないと思う。
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先ずは『神の詩』第四章からの引用であり、以下の前段はまさに真我実現したヨギを表現した部分である。本章②での引用と一部重複する。
すべて欲望を持たずに行動する者は
完全智を得た人と心得よ
賢者たちは そのような人々を
大智の火で業(カルマ)を焼き尽くした人と呼ぶ (第4章19節)
仕事の結果に全く執着しないひとは
常に楽しく 自由自在である
あらゆる種類の活動をして
しかも無活動 無業報である (第4章20節)
このような英智の人は精神を完全に統御して
“我所有”(わがもの)の観念が全く無い
肉体を維持するに足るだけ働き
したがって悪業報を全く受けない (第4章21節)
無理なく入ってくるもので満足し
我・他 彼・此(あれこれ)を比較して悩み羨むことなく
成功にも失敗にも心を動かさぬ者は
どんな仕事をしても束縛されない (第4章22節)
物質界(このよ)の利害得失を超越して
無執着の活動をする
自由な人のする仕事は
ことごとく至上者への供犠(ささげもの)となる (第4章23節)
聖なる意識で活動すれば
必ず聖なる領域(くに)に達する
聖なる意識で捧げた供物も 供養者(そのひと)も
ことごとく永遠の大実在(ブラフマン)である (第4章24節)
種々様々な 天神地祇(かみがみ)に
それぞれ異なった形式で供養する修行者(ヨギ)もあり
ブラフマンの火のなかに
捧げものをする修行者もいる (第4章25節)
聴覚その他の感覚を
抑制の火に投じて供え物とし
また 音その他の感覚対象を
供犠の火壇に供える者たちもいる (第4章26節)
真我実現を熱望している人々は
心と感覚をすべて抑制し
五官の機能と呼吸までも供犠として
精神統一の火に投じる (第4章27節)
厳しい誓いをたてて
ある者は財産を捧げ ある者は苦行をする
またヨーガの八秘法*を行う者もあり
またある者は無上の智識を求めてヴェーダを学ぶ (第4章28節)
恍惚境に入るため呼吸を支配する者もいる
呼気(プラーナ)を吸気(アパーナ)に また吸気を呼気に捧げ
ついに呼吸を全く止めて恍惚境に入る
また食を制し 呼気を呼気に捧げて供物とする (第4章29節)
供犠の真意を知って行う者は
罪障の業報を免れ 心身を清めて
その供物の残余(のこり)である甘露を味わいつつ
永遠の楽土に入って行くのだ (第4章30節)
敵を撃滅する者よ(筆者註:アルジュナを指す) 物品の供犠より
智識の供犠は はるかに勝る
プリターの息子(筆者註:アルジュナ)よ すべての活動は
究極には超越知識に通じる (第4章33節)
導師に近づいて真理を学び
うやうやしく問い 教えに従って師に仕えよ
自己の本性を覚った見真の人は
弟子に智識を授けることができるのである (第4章34節)
このようにして真理を知ったならば
君は再び幻影に迷うことなく
全宇宙の生物はすべて わたしの一部であり
わたしの内にあり わたしの所有だと知るのだ (第4章35節)
たとえ君が極重の罪人だとしても
この大智の舟に乗ったならば
あらゆる苦痛と不幸の大海を
難なく渡り超えて行くことができよう (第4章36節)
アルジュナよ 燃えさかる炎が
薪を焼き尽くして灰にするように
あらゆる行為の業報はことごとく
智慧の火によって燃え尽き灰となる (第4章37節)
この大いなる智識こそ
この世における無上の浄化力
ヨーガによって これを完成した人は
ただ内なる真我を楽しむ (第4章38節)
バラタ王の子孫(筆者註:アルジュナ)よ 心の迷いと疑いは
君の無知が原因で生ずるのだ
さあ 智慧の剣でそれを斬り捨て
ヨーガで武装し 立ちあがって戦え (第4章42節)
*ヨーガの八秘法:またはヨーガの八段階(八つの行法)とも言う。禁戒、勧戒、坐法、
調気(プラーナヤーマ)、制感、凝念、静慮(瞑想)、三昧を指す。
ここでは必ずしも八段階のヨーガ(アシュターンガ・ヨーガ)だけがその修行法であるとは言っていない。苦行を通じてもヴェーダを学ぶことを通じても真我実現に到達することが出来ると解するのが妥当であろう。ポイントは、全ての行為は無執着あるいは無欲で行い、且つ神に捧げるものとして行うべきことであり、無論自己実現に至るための修行もその例外ではない(本章②を参照)。そしてその修行の際には、導師(グル)に師事することの重要性が説かれている。尚、ここで言っているヨーガとは、真我実現により、知性(ブッディ)が智識と一体になった状態を指しているものと考えて間違いないと思う。
このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。