アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第17章 ヨーガ・スートラ ⑧プラクリティの役割

2012-06-08 06:04:50 | 第17章 ヨーガ・スートラ
プルシャは純粋理念即ち<真我(アートマン)>(或いはブラフマン)であり、プラクリティはそれ以外のもの全て(つまり被造物)である。換言すると、プルシャとプラクリティは“見る者”と“見られるもの”の関係であり、“見られるもの”には我々の身体のみならず心や潜在意識までもが含まれる。“見る者”は不動であり、“見られるもの”は三種のグナ(トリグナ)から構成されて、刻一刻その姿を変えている。谷口雅春師はこれらを“実相”(即ちプルシャ)と“現象”(プラクリティ)とに区別しているが基本的には同じ意味である。ところで、プルシャとは永遠の存在であり、全ての智識であり、至福である。そのプルシャ即ち<神>が、どうしてプラクリティ(自然、人間も含まれる)を創造したのだろうか。この疑問にヨーガ・スートラがどのように答えているか、『インテグラル・ヨーガ』(同書)からの引用で追っていきたい。

Ⅱ章16節で、パタンジャリは「未来の苦は、回避することができる」とした上で、次のように続ける。

「17  その、避け得る苦の原因は、見る者【プルシャ】と見られるもの【プラクリティ、自然】の結合である。」

「パタンジャリはまず、この苦の原因を明らかにする。それは、“見る者”と“見られるもの”の結合である。― ヨーガ哲学は二つの重要な概念を提示する。その一つは、<プルシャ>、もう一つは<プラクリティ>である。<プルシャ>とは真の<自己>である。見る者は<プルシャ>である。そして<プラクリティ>とは、それ以外の全てである。“自分”の他は、すべて“見られるもの”である。ところがどうもわれわれは、いつも、見られるものつまり自分の所有物と自分自身とを、同一視してしまう。<自己>である自分によって、それらの全てが所有されるのだ。だからわれわれは「私の身体、私の心、私のことば、私の知識」と言うのだ。自分が“自分のもの”と呼ぶものが、自分であるはずはない ― 。自分自身について言うとき、次のような二つの言い方がある。「どう? 私の身体、細いでしょう?」「どう? 私、細いでしょう?」・・・はて、誰が細いのか?自分かそれとも身体か ― ?  自分以外のものとのこの同一視、それが我々のあらゆる苦の原因である。それをやめて、自分がいつも唯の自分自身(自分だけ)であれば、自性は変ったり変わらなかったりするだろうが、それらが我々に苦をひき起こすことは決してない。― なぜならそういう変化は我々の所有するものに起きるのであって、我々自身に起きるのではないからだ。だからあなたの真の<自己>の内にとどまろう。・・・」

「18  見られるものは、照明(プラカーシャ)・活動(クリヤー)・惰性(スティッティ)というグナの三つの性向を備え、元素[五大]と感覚器官から成っているが、その目的とするところは、プルシャに経験と解放[解脱]を与えることである。」

「ここでパタンジャリは“ドリシャ”即ち“見られるもの”について述べる。<アートマン>、<プルシャ>、“見る者”、これらは全て同一の実在すなわち真のあなたを指している(筆者註:本ブログ第15章④心の構造を参照)。知られるものがあるから、あなたは知る者となる。見るべき何かがあるから、あなたは見る者となる。そこで彼は、我々に経験を与えるところのこの見られるものとは何かを分析する。そしてそれは、三つのグナによって支配されるさまざまな元素と器官の組み合わせであると言う。彼は、“プラカーシャ”、“クリヤー”、“スティッティ”ということばを使う。プラカーシャとは照明という意味で、サットヴァのことである。クリヤーは行為で、ラジャスを表す。スティッティは鈍重、即ちタマスである。ところで、我々の見るこれら外界の自性はなぜ在るのか、なぜプラクリティなるものが存在するのか、である ― 」

「自然(プラクリティ)[自性]は、あなたに経験を与えて、ついにはあなたをその束縛から解放するために、在る。たとえ人間が『解放されたくない』と言っても、それは彼らを少しずつ教化する ― やがて、「私は全てのことに飽きた。もうたくさんだ」と感じる日が来るまで。だが我々がそのように感じるのはいつか? それは、いやというほど叩きのめされ、焼かれた後にしてはじめてである。プラクリティの目的は、そういう殴打を与えることなのだ。だから我々は自然を責める必要は全くない ― 」

「自然(プラクリティ)は元素と器官の組み合わせである。器官には、知性、心、感覚、身体も含まれる。普通我々は、自然とは我々の身体以外のあるもののことだと考えているが、我々自身を真の<自己>だと感じるときには、その身体さえもが自然の一部である。それは、身体もやはり様々な元素の組み合わさったものだからだ。・・・心でさえも、そして感覚や知性でさえも自然の一部である。ただ、非常に精妙なものではあるが。それらは“事象”である。だからそれらは変化する。事象であるものすなわち自然は、何でも変化する。身体は刻々に変化する。細胞が死んで、新しい細胞が生まれる。それと同じように心と知性にも、絶えまない変化がある。」

「自然の中のものは何一つとして不断で不変の幸福をもたらすことができない。それは心そのものが絶え間なく変化するからだ。我々は、同じ胃を持っているのに、毎日おなじものは食べたくない。からだつきはちっとも変わらないのに、毎日同じ服は着たくない。我々の要求が変わるのは、“心の変化”がその鍵である。もしそれがいつも同じなら、どうして変化を求めるだろう? そしてそのことがわかったら、我々は物事を変わるに任せ、それに執着しないだろう。あることが変わるなら、それはそうさせてくべきだ。代わりに何かが来るだろうから。我々は流れる雲を見るように、変化を見ているべきである。ところが我々は、見ているだけでは気がすまない。その端っこにしがみついて、離そうとしない。だから緊張が生まれる。変化とは、流れる水のようなものなのだ。水は、流れるままにしておけば、それを眺めているととても楽しい。・・・人生はすべて、過ぎてゆくショーである(筆者註:本ブログ第6章世界劇場③を参照)。それを一瞬でも引きとめようとすれば、我々は緊張を感じる。自然は逃げようとする、我々はそれを引き止め、引き戻そうとする。我々がそれを引き止めようとするときには、遮蔽物をつくる。そして結局はそれが我々に苦しみをひき起こす ― 」

次の19節でパタンジャリは、グナの四つの段階に就いて述べているが、同書の説明では意味が判り辛いと思われるので、本節では佐保田鶴治先生の『解説 ヨーガ・スートラ』の説明(但し、著者の説明とは若干異なる)に筆者の註釈を加えたものを【 】内に加える(本章②ヨーガとサーンキャ哲学も参照)。

「19  グナの段階には、特殊のもの、特殊でないもの、定義されるもの、定義され得ないものの四つがある。」

「ここでパタンジャリは、プラクリティについての考察をもう少し進める。彼は自然の全体を四つの発展段階に分けて捉える。彼が挙げたのとは逆の順序で言うと、まず、自然の静的なつまり定義され得ない状態である“アヴィアクタ”、即ち非顕現のものがある【これはトリグナが展開する以前のプラクリティ、即ち根本自性を意味する】。次がわずかに顕現した段階の“定義されるもの”【これは覚即ちブッディ(或いはマハット)とも呼ばれる我々の知性である】。三つ目が、自然が精妙な器官つまりブッディ[覚]と心を形づくる、より展開の進んだ段階【即ち五唯(タンマートラ)と我慢(アハンカーラ)】。そして四つ目の段階が、聞き、感じ、見、触れ、嗅ぎ、味わう粗大なもの【五大など】である。」

「20  見る者とは見る力そのものであり、それ自体は純粋だが、心を通じて見るという現れ方をする。」

「プラクリティについて論じた後パタンジャリは、<見る者>つまり<プルシャ>について述べる。光というものは、純粋で不変だが、自然という媒体の為に変化するように見える。太陽の光線は、実際には曲がっていないのに、水の中を通過するとき曲がるように見える。フィラメントの光は純粋でも、それを覆っているガラスが赤ければ、その光は赤く見える ― 。 それと同じで、我々も同じ光である。然し我々は同じようには見えず、同じようには行動せず、同じようには考えない ― それは我々の身体と心という自然のせいである。心がいくらかの法律的観念を蓄えていれば、その人は‘弁護士’と呼ばれるし、医学的知識なら‘医者’である。・・・」

「ヨーガ的な思考を通すとき、われわれはすべての人々を自分自身として見ることができる。我々は、一人の例外もなく、全ての人々を抱きしめることができる。そこでは最も罪深い人も愛されるであろう ― それは、我々自身がかつては罪人だったからである。今日の罪人は明日の聖者である。かつては自らも同じ船上の人であったことを知るとき、われわれは決して罪人を咎めない。逆にその人に救いの手をさしのべることができる ― 。・・・」

「21  見られるものは、見る者のためにのみ存在する。」

「前のスートラで見たように、自然はプルシャに経験を与えるためにこのように在る、というので、我々はその経験をプルシャがしているのだと思ってしまう。しかし本当は,プルシャは何も経験していない。それは単なる目撃者なのだ。ところが経験しているかのように見えてしまうので、我々はそういうレベルからの理解を試みるより仕方がない。そのレベルから先は進めば、プルシャは行為者でも享受者でもないということが判って、見方や態度も変わるが、今は、今自分達のいるところからはじめねばならないわけだ ― 。」

「22  それ【=見られるもの】は解脱した者にとっては破壊されているが、他の者にとっては共有財として存在しつづけている。」

「ヴェーダーンタの用語を使うと、自然は“マーヤー”すなわち“幻影”と呼ばれる(筆者註:本ブログ第6章④投影された世界を参照)。だがそれは、誰にとって幻影なのか? それを理解している者にとってである。その他の者にとっては、それは依然として実在(筆者註:恐らく‘Reality’の翻訳だと思うが、精確には“現実”とすべきか?)であろう。・・・」

「23  所有する者【プルシャ】と所有されるもの【プラクリティ】の結合が、それら両者が各自の本性と力(シャクティ)を把握する原因である。」

「“サンヨーガ(結合)”は、プルシャが自然の助けを借りて自らを悟るために、必要である。サンヨーガとは、完全な結合或いは接合の意味である。しかし此処で言う結合とは、個別的自己とより高い<自己>とのそれではなく、プルシャとプラクリティ、つまり<自己>と自然とのそれである。それらは完全に分離しているときはそれら自身を表現しない。それらが繋がっているから、我々はその両方を知ることができる ― つまりそれらは相補的なのである。・・・」

「24  この結合の原因は無知[無明]である。」

「ここでパタンジャリは、たった今述べたばかりの観念を一笑に付す。サンヨーガの原因は無知なりと。ちょっと混乱してしまいそうだが、きちんととらえていけばどうということはない。つまり、前のスートラでは我々はまだ世界の中にいて、自然なるものの不可解を感じている。ところが、プルシャが自らを知ってしまうと、『何故こうした結合が生じたのか? それは私が自分自身を忘れていたからだ。私は何と無知だったのだろう。この無知のために私はこの結合を生んでいたのだ』と考える。・・・しかしこの態度は、実現[悟り]の後にしかやって来ない。・・・」

随分以前、確か高校の授業だったと思うが、宇宙の創造に就いては「無明縁起説」即ち、「この世の中は“無明”によって出来たものである」という説が有ると聞いて、「そんなバカな」と皆で笑った記憶があるが、今にして思えば、笑われるのは当時の自分自身であったようである。

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