アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第16章 神の詩 ②カルマとアートマン

2012-01-13 05:56:07 | 第16章 神の詩
カルマとは仏教で云うところの「業」であり、ヨーガの理論によればそれは前世からの行為が心に及ぼした印象やその結果が集積されたもので、煩悩や薫習(ヴァーサナ)などと共に心(チッタ)の重要な構成要素となっている(詳しくは第15章④心の構造を参照)。そしてラマナ・マハルシはこの業が今生(こんじょう)での人間の運命を決定付けており、基本的に人はその運命から逃れることは出来ないという、(第15章⑩運命を参照)。本稿においては、この業(カルマ)と真我(アートマン)の関係に就いて、聖典ギーターからの引用を中心に考えてみたい。
先ずはカルマに就いて、第4章からの引用である。

自然界の三性質(トリグナ*)とカルマに応じて
わたしは人間社会を四つに区分した
この四階層(カースト)はわたしが創ったのだが
わたしは全ての行為を超越している   (第4章13節)

わたしはどんな活動にも影響されず
そして どんな結果も望んでいない
わたしについての この真理を知る者は
仕事に縛られず その結果にとらわれない  (第4章14節)

古来より自由になった者たちは
この真理を理解して活動した
ゆえに君も先覚者たちを見習って
この聖なる意識で義務を遂行せよ   (第4章15節)

活動(カルマ)とは また無活動(アカルマ)とは何か
賢明な者でも これを定義するのに迷う
わたしはここで活動(カルマ)とは何かを説明する
これを知って君はあらゆる罪から離れよ  (第4章16節)

活動(カルマ)の諸相は まことに複雑 神秘であり
これを理解することは難しい だが
人は活動(カルマ) 誤活動(ヴィカルマ) 無活動(アカルマ)について
正しく学ばなければならない   (第4章17節)

活動のなかに 無活動を見
無活動のなかに 活動を見る人は
たとえどんな種類の仕事をしていても
相対世界を超越した覚者である  (第4章18節)

すべて欲望を持たずに行動する者は
完全智を得た人と心得よ
賢者たちは そのような人々を
大智の火で業(カルマ)を焼き尽くした人と呼ぶ  (第4章19節)

仕事の結果に全く執着しない人は
常に楽しく 自由自在である
あらゆる種類の活動をして
しかも無活動 無業報である    (第4章20節)

このような英智の人は精神を完全に統御して
“我所有”(わがもの)の観念が全く無い
肉体を維持するに足るだけ働き
したがって悪業報を全く受けない   (第4章21節)

無理なく入ってくるもので満足し
我・他 彼・此(あれこれ)を比較して悩み羨むことなく
成功にも失敗にも心を動かさぬ者は
どんな仕事をしても束縛されない  (第4章22節)

物質界(このよ)の利害得失を超越して
無執着の活動をする
自由な人のする仕事は
ことごとく至上者への供犠(ささげもの)となる  (第4章23節)

聖なる意識で活動すれば
必ず聖なる領域(くに)に達する
聖なる意識で捧げた供物も 供養者(そのひと)も
ことごとく永遠の大実在(ブラフマン)である  (第4章24節)

  *トリグナ:サットヴァ、ラジャス、タマスを指す。ギーターの第3章27節に、
   物質自然(プラクリティ)の三性質(トリグナ)による活動を我執の雲に
   おおわれた魂は自分自身が活動しているものと錯覚し「私が為している」
   と思いこむとある。

ちなみに、ここでいう「わたし」とは、クリシュナであり同時にアートマン(真我)を指している。これに対置される概念として、“我所有”(わがもの)という表現がでてくるが、これは所謂「自我」であり、トリグナの働きであると言う。つまり、自分の意識を自我ではなく、真我において行動すれば、真我は何らの結果を望んでいるわけではない(14節)のであるから、カルマに影響されることは無いのだとの意味である。

この「わたし」が、クリシュナであり、同時にアートマンであるということは、第10章20節において次にように説明されている。その前後の章も併せて引用する。

クリシュナよ 今一度詳しくお話し下さい
あなたの神秘な御力と顕現(あらわれ)について
どんなに聞いても私は飽きない
聞けば聞く程もっとその甘露(アムリタ)を味わいたくなるのです (第10章18節)

[至上者語る]
よろしい ではアルジュナよ
わたしの光り輝く表現(あらわれ)の
主要なものだけを語って聞かせよう   (第10章19節)

アルジュナよ わたしは真我(たましい)として
一切生類の胸(筆者註:ハート)に住んでいる - また
わたしは万物万象の始めであり
中間であり そして終わりである   (第10章20節)

アーディティヤ(太陽神)たちのなかでわたしはヴィシュヌ
光るもののなかで わたしは太陽
風の神々のなかでは その支配者マリーチ
星々のなかで わたしは月である    (第10章21節)  ・・・

そして、略同じ趣旨のことが、第13章でもより詳しく説かれている。

バラタ一族の最も秀れた者よ (筆者註:アルジュナを指す)
動くものも 動かぬものも
生まれ出たものはことごとく
用地(クセートラ、即ち体)とその認識者との結合であることを知れ (第13章27節)

そして すべての生物のなかに
ひとしく至上主(パラメーシュワラ)が住んでいる
必滅の体のなかにあること不滅なるものを
知る人は まことに存在の実相を見ているのだ   (第13章28節)

あらゆる所に あらゆる生物のなかに
等しく至上主を見る者は
自分で自分を傷つけることなく
まっすぐに至高の目的地に近づく  (第13章29節)

すべての行為(カルマ)は物質自然(プラクリティ)によって
つくられた肉体が行うのであって
自己の本体(アートマン)とは無関係であると知る者は
存在の実相を見ているのである    (第13章30節)

物質体(にくたい)の千差万別を見て
差別観におちいらず 生物は全て
一なるものより発することを知ったとき
その人はブラフマン意識に達する    (第13章31節)

クンティーの息子よ 霊魂(アートマン)は不滅であって
物質自然(プラクリティ)の性質作用を超越している
それは肉体のなかに在るが
何事も行為せず 影響を受けない     (第13章32節)

エーテルは到る所にあるが その精妙さの故に
どんな物とも混じり合わぬように
霊魂(アートマン)はどの体のなかにいても
何ものにも影響をうけない   (第13章33節)

バラタ王の子孫よ 一つの太陽が
この全世界を照らしているように
霊魂(たましい)は肉体のなかにあって
体の全部(すべて)を意識で照らしている  (第13章34節)

智慧の眼を開いて
肉体とその認識者との相違を知る者は
物質自然(プラクリティ)の鎖から脱出する方法も知って
至上の目的地に到達する    (第13章35節)

以前触れたと思うが、プラクリティはプルシャ以外の全てであるから(本ブログ第13章⑫)、たとえば35節でいう‘認識者’とは自我ではなく、真我(即ちクリシュナでもある)を指している。即ち、カルマから解き放たれるためには、“我所有”(わがもの)といった観念から離れ(即ち無執着と離欲)、本当の自分とは真我であるとの自覚を深める修行を行じ、且つそのように行為することが大切であるという趣旨である。

以上はギーターの中で非常に重要な部分であり、ある意味で、これを理解できれば、ギーターの要諦は理解できたと言えるものと思う。

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