アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第12章 万教帰一 ③宗教の普遍性

2010-12-17 19:06:25 | 第12章 万教帰一
話は前後するが、本ブログの第10章⑥ユニティブレスの節において、筆者はドランヴァロの『ハートの聖なる空間へ』から、次の文章を引用した上でこの“ユニティブレス”の技法を紹介している。

「シュリ・ユクテスワ師は私を直接核心へと導いてくれたので、私もみなさんにそうすることにしましょう。・・・」

ところが、実はその前にあった段落の引用を、筆者は故意か偶然か(今では明確に記憶していないが)、避けていたようである。その部分を読むと、ドランヴァロとシュリ・ユクテスワ師の関係がより明確になるので、改めて引用してみたい。

「私は1994年、ジョージア州ジェキル島で行われた“太陽のハート”というイベントに呼ばれ、話をすることになっていました。そこでは何人ものスピリチュアルな指導者たちが入れ替わり立ち替わり壇上に立ち、聴衆がスピリットとの融合を高めるよう導いていました。いよいよ次が私の番となり、舞台裏の狭い楽屋にしつらえた瞑想用の祭壇の前に腰を下ろして出番を待っていた時のことです。祭壇にはローソクがともり、SRF(20世紀前半、インドから渡米したヨガナンダが組織したクリヤー・ヨーガを普及させる米国の団体、Self Realization Fellowshipの略)の人達によって準備された写真セットが飾ってありました。クリシュナ、キリスト、ババジ、ラヒリ・マハサヤ、シュリ・ユクテスワ(筆者註:ヨガナンダの導師)、ヨガナンダの肖像でした。舞台で話す内容はすでに用意してあったので、あとは誰かが呼びにくるまで中心を保って待つのみです。それには瞑想が一番でした。私はそこに並ぶ教師たちの偉大さに敬意を表し、目を閉じて瞑想に入りました。するとまわりの世界がゆっくりと彼方へ消え去り、エネルギーが増していくと同時に一つのビジョンが現れました。この瞬間、その日のイベントの流れが変わり、そして私のスピリチュアルな人生の殆どが変わってしまったのです。目の前に現れたのは、とても気品のある表情をたたえたシュリ・ユクテスワ師(筆者註:1936年没、即ち故人)でした。私は彼の弟子のヨガナンダ(筆者註:SRF創設者、1952年没)とは親交がありましたが、師その人については殆ど知りませんでした。にもかかわらず、そこに来てくれたのです。」

つまり、ドランヴァロが瞑想している時に、故人であるシュリ・ユクテスワ師がその瞑想の中に現れ、ユニティブレスの手法を指導してくれたと言うのである。そんなことは信じられないという読者の方も居られるかも知れないが、筆者はドランヴァロが書いていることを信じている(そもそも信じているからこそ本ブログに引用している)。

尚、ドランヴァロが舞台裏の控室で見た写真、特にババジ、ラヒリ・マハサヤ、シュリ・ユクテスワそしてヨガナンダに就いては、ヨーガに有る程度興味を持っている方は既に御存知かもしれないが、余り馴染みの無い方もいると思うので(そういう筆者も半年前までは殆ど知らなかった)いずれ本章で別途紙幅を割き、更に詳しく説明するつもりでいる。

ところで、ヨガナンダの導師であり、彼を米国に派遣することで、米国でのクリヤー・ヨーガの普及に一役買ったシュリ・ユクテスワ師(以下、同師)が著した『聖なる科学』という本がある(以下、同書)。同書は元々聖書とヒンズー教の教えの一致点を解説する為に書かれたようである(実際各所に聖書が引用されている)が、その中で同師が宗教の普遍性を説明している部分があるので引用する。

「あらゆる宗教の間には、本質的な一致点があり、種々の信仰が説く真理も、帰するところは一つである。また、世界は、外的世界も内的世界も、整然たる一つの方式によって展開されており、そこには、あらゆる聖典が認めているただ一つの目標がある。本書の目的は、これらの事をできる限り明らかにすることであるが、この基本的真理を会得することは必ずしも容易な事ではない。各宗教間の抗争や、人間的無知のために、一般の人々にとって、ヴェールの背後にある森厳な真理をのぞき見ることは、殆ど不可能に近いありさまである。それぞれの教義は、対立や紛争の精神をはぐくみ、霊的無知が教義間の溝を広げている。各宗派が主張する教義の別を超越して、あらゆる偉大な信仰が説く真理の間に共通する絶対的一致点を見いだす者は、特に恵まれた少数の者のみである。」

又、同書が説くところは、筆者が本ブログ(特に第6章)で解説してきたことや、バシャールの説くところとも一致する部分があるので、同書第一章から、その一部を引用する。

「“パラムブラフマ(神、至上霊)は、初めもなく終わりもない不生不滅の存在であり、完全無欠である。それは一体にして不可分のものである(スートラの引用)” 」
「不生不滅の永遠の存在であるスワミ・パラムブラフマ(父なる神)は、実在する唯一の真の実体(サット)であり、宇宙のすべてのすべてである。」
「神はなぜ体認しがたいか」
「人は生来、直観的に、目に見えない一つの実体の存在を信じており、これに対する信仰心を内に宿している。われわれの五感(視、聴、嗅、味、触)の対象である、眼前の世界を構成しているもろもろの事物は、その“一つの実体”があらわすさまざまな属性(現れた形相)であるが(筆者註:第6章②汎神論と色即是空を参照)、人間はこの属性によって構成された肉体の中に自己意識を没入させているために、この不完全な肉体の器官が認識しうる‘同じ次元’の属性しか理解することができず、それらの属性が起因する‘実体’に就いては、実際に体認することができない。それゆえ、この物質界の人間は、マーヤと呼ばれる‘神の幻術’によって写しだされている(筆者註:第6章④投影された世界を参照)その属性の中から自己意識を引き揚げて、本来の神性を取り戻さないかぎり、この唯一の実体(父なる神)を識ることはできないのである。」

「“その(パラムブラフマ)中に、すべての知識と愛の起源があり、あらゆる力と喜びの根源がある”(スートラ)」
「プラクリティ(神の性質)」
「現象世界を構成する全能の創造力(無限の姿形をとって万物を構成しているエネルギーの本源。その本質は‘喜び’で、永遠の至福とも呼ばれる)と、その世界をあまねく意識している全知の知性(あらゆる知識、感情等の心理機能の本源。これはまた‘愛’―思いやる心、理解する心―であり、普遍の愛または全知の愛とも呼ばれる)とは、父なる神の性質(プラクリティ)(創造活動―自己表現活動―を演出する潜在的実体)を構成する。」

「どうすれば神を体認できるか」
「人は神の似姿につくられているため、注意力を内面に集中すると、前述の神の性質である創造力と知性が、自分自身の本性として内在しているのを体認することができる。即ち、全能の創造力は‘楽しみ’(ボーガ:喜びを感じさせるもの)(筆者註:バシャールの言う‘ワクワク感’と同じだと思う)を創り出す意思として、また、全知の知性はそれを‘楽しむ’(喜びとして感ずる)意識として内在している。」

同師の話はこれくらいにして、本章の主題である「万教帰一」という言葉に就いて改めて説明したい。実はこの言葉は、筆者が30台後半の頃『生命の実相』(谷口雅春著、全40巻、若い頃病弱で結核を患っていた稲盛和夫氏がこの本を読んだだけで結核が快癒したというエピソードがある)を読んで初めて知った。‘生長の家’の信者の方を除いて、この大著を全て読んだ方は殆どおられないと思うので、敢えてこの超大作の真髄とも言える重要な教義を抽出すると、次の三つに要約されると思う。

1.人間は全て神の子である(仏教においては仏子とも言う)。
2.三界は唯心の所現(現象世界は、唯‘こころ’の現れである)。
3.万教帰一(真理は一つであり、全ての宗教の教えの真髄は同じである)。

筆者が『生命の実相』を読み、1と2を知って感動したことは言うまでもないが、仏教もキリスト教も否定しない、その懐の深さに感じ入ったことを今も覚えている。また、この本を読んで以降、或る意味で筆者の精神世界の理解が深まり、更なる探求が始まったと言っても過言ではない。
ところで、何故谷口雅春氏は他の宗教を否定しないのか。それは取りも直さず、彼が真理を体認しており、本当の意味で悟っていたからだと筆者は思っている。本当に悟っていれば、他の宗教が説く意味を本質においてより正しく理解出来るであろうし、そうであれば、他の宗教を否定する意味も必要も全く無いからである。

次に、再びヨーガの世界に戻り、その経典とも言えるパタンジャリの「ヨーガ・スートラ」を解説した『インテグラル・ヨーガ』(スワミ・サッチダーナンダ著)から、本章の主題に関連する段落を幾つか引用する。

「正知のよりどころは、直接的知覚、推理、及び聖典の証言である。(ヨーガ・スートラ7)」
「・・・それが普通に言う聖典、つまり賢者、聖者、預言者たちのことばであるがゆえに我々が信ずる聖典である。彼等は真理を見、それを説いた、だから我々はそれを信ずる。東洋では、‘これこれの修練をせよ’と言われたら、聖典もやはりそのように勧めていなければならないとされる。ただ私がそう言うからそうする、というのではだめなのだ。同じ道を行った誰もがそれを承認し、古い聖典もまた、それを承認していなければならない。真理は同じはずだから・・・。それは新しく発見されるものではない。この、我々の時代の発明は、全て簡単に反故になる。今日は最高で最先端をゆくものが、明日になれば最低・最悪だ。それらはまだ最終的な完成に至っていないのだ。だが、聖典を通じて示される預言者たちのことばは、最終的なものだ。それらは簡単には修正され得ない。」
「だがそこでもわれわれは、根本の真理とその提示との違いを見極めなければならない。真理は、ある形つまり媒体を通じてしか示され得ないのだ。つまり“自己”なる真理は同じだが、ことばや形そして様式を介して表されるとき、それは個人や時代の要請に応じてさまざまな現れ方をするということを、われわれはいつも忘れてはならない。それは、儀式は修正を受ける、言い回しも変化する、ということだ。しかし中味の真理が変化するなんてあり得ない・・・真理というのは常に同じはずだから。」

次に、ヨーガ・スートラと仏教(般若心経)の共通点である。

「所有する者(プルシャ)と所有されるもの(プラクリティ)の結合が、それら両者が各自の本性と力(シャクティ)を把握する原因である。(ヨーガ・スートラ23)」
「この結合の原因は、無知(無明)である。(ヨーガ・スートラ24)」
「・・・プルシャ(筆者註:真我と置き換えて良いと思う)が自らを知ってしまうと、‘何故こうした結合(筆者註:プルシャとプラクリティ)が生じたのか?それは私が自分自身を忘れていたからだ。私は何と無知だったのだろう。この無知のために私はこの結合を生んでいたのだ’と考える。そしてそのときそれを笑う。しかしこの態度は、実現(悟り)の後にしかやってこない。・・・これらのスートラは、仏陀の“四つの高貴なる真理”(四聖諦)を想起させる。それは、この世の悲惨(苦)、その原因(集)、その除去(滅)、そのために用いられる方法(道)である(筆者註:般若心経の中に、“無苦集滅道”との句がある)。パタンジャリの場合は、“苦は避けることができる”という。次に“その苦の原因は無知である”と言う。続いて・・・“苦を除去するもの”と“その方法”ということばを使う。―こうしてみると両者は実に良く似ている。どちらがどちらの真似をしたかなどという詮索は必要ない。真理はいつも同じなのだ。思いを深くめぐらせば、誰でも同じ答えを得る。仏陀はそれを得た。パタンジャリもそれを得た。イエス・キリストもそれを得た。マホメッドもそれを得た。答えはいつも同じである。ただそれを導き出す方法がいろいろあるだけである。」

最後に、『あるヨギの自叙伝』から、ガンジーの言葉を引用し、本節の締め括りとしたい。

「私は、キリスト教の聖書も、コーランも、ゼンド・アヴェスタも、ヴェーダと同様、神の霊感によって書かれた書であると信じている。真理を学ぶ場合、私は聖師(グル)につくのが望ましいと確信しているが、真のグルたるに値するほど完全な悟りと純粋さを備えた師を見付けることが極めて困難な現代に於いては、大多数の人がグルなしでやっていかなければならない。だからといって、現代人は、決して己の宗教の真理を理解することに絶望する必要はない。なぜならば、ヒンズー教も、他のいかなる偉大な宗教も、その根本原理は一つで理解しやすいものだからである。私は全てのヒンズー教徒と同様、神と、神の唯一性を信じており、また、生まれ変わり(筆者註:輪廻転生)や神の救いも信じている。・・・それと同様(筆者註:自分の妻を指す)、ヒンズー教に対しても、私はその欠点や限界を承知しながら、なおそれとの間に、ある絆を感ずるのである。バガヴァッド・ギーターの音楽やトルシダスのラーマーヤナほど私の心に喜びを与えてくれるものは他にはない。おそらく、私が最後の息を引き取るときに私を慰めてくれるものは、ギーターであろう。ヒンズー教は排他的な宗教ではない。それは、世界のあらゆる預言者を礼拝する寛容さを持っている。・・・ヒンズー教は各人に、その信条あるいはダルマ(掟、果たすべき義務等)に従って神を礼拝するよう教えている。そのために、それはすべての宗教と、平和裡に共存しているのである。」
「もしキリストが、今日地上に再び下生しておられたら、“私に向かって、主よ、主よ、と言う者がみな天国にはいるのではない。ただ天にいます父のみ旨を行う者だけがはいるのである”と記されているように、彼は、キリストの名さえ知らない多くの人々にも祝福を与えられるであろう。イエスは自分自身の生涯を通して、我々全ての者が目指すべき壮大な目的と唯一の目標を人類に示された。彼は、単にキリスト教徒の師ではなく、全世界、全人類の師であると私は信じている。」

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