アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第12章 万教帰一 ⑬ クリヤー・ヨーガの実践

2011-02-25 06:40:46 | 第12章 万教帰一
以前「人間社会を変容する鍵」(第12章⑪)において、人間の五つの体に夫々対応している5種類のヨーガを説明したが、これとは別に、マーシャル・ゴーヴィンダン師(以下、同師)は『ババジと18人のシッダ』(以下、同書)において、もう一つのヨーガを説明している。これは行為のヨーガ(クリヤー・カルマ・ヨーガ)と呼ばれるもので、日常生活の中で実践すべき生活態度と考えれば良いと思う。以下、同書からの引用である。

「クリシュナ神は、『バガヴァッド・ギーター』の中で、次のようにアルジュナ(筆者註:マハーバーラタに出てくる英雄)に語っている。“汝の職務は行為そのものにあり、決してその結果にはない。行為の結果を動機とせず、また無為に執着してはならぬ。アルジュナよ、神との合一の中にとどまり、執着を捨て、成功と失敗において均衡を得よ。ヨーガとは即ち均衡である。”(『バガヴァッド・ギーター』第2章47-48節) クリヤー・カルマ・ヨーガは“私心なく巧みに遂行される奉仕”と定義することができる。通常、人は何らかの見返りを期待して行動する。これは幸福の源に対する根本的な誤解があるためである。自己の外部にある事物や活動の中に幸福を追い求める人は、幸福が常に内面においてのみ体験されるものであることを忘れている。つまり自分に幸福をもたらす状況と幸福そのものを混同してしまう。カルマ・ヨーガにおいて、人はこうした間違いを犯すことはない。なぜならカルマ・ヨーギーは幸せを求めて行動するのではなく(それは生来から人に備わっている特性である)、いかなる状況においても、そこで自分に求められている責務を愛に満ちた奉仕の心で果たすので、行動の結果に対する執着から解放されているからである。このような行為は新しいカルマや、行為の動機や執着の原因となる欲望を生まないために、人は持続する心の安らぎを得る。さらにまた、カルマ・ヨーガにおける行為は愛の精神に基づいてなされるために、人はそれを“上手く”行うことができる。この理由は、無私の精神に基づいて行動すると、高次の意識が自我の狭量な要求に妨害されることなく、人を通して働くからである。」
「クリヤー・カルマ・ヨーガの実践は、他者への奉仕活動に毎週数時間を当てることから始まる。カルマ・ヨーギーは日々の諸々の小さな行為を通して他者への奉仕を導いている神の意思と、自我の囁きとを識別するようになる。自分自身は決して“行為者”ではなく、他者を愛して奉仕するために配された神の媒体であることが分かるにつれて、その人のあらゆる行為がカルマ・ヨーガとなっていく。カルマ・ヨーギーは自分が創造の大海原における波の一つであることを理解する。するともはや、その人は自我に根ざした欲望に駆られることもなく、全ての行為は神聖な愛から生まれたものになる。」
「カルマ・ヨーギーは、怒り、自己中心主義、貪欲、更には、個人的な欲望から解放されている。彼等は広い心を持っており、常に他と分かち合って援助することを厭わない。また彼等は純粋な心を得ると同時に、万人、そして全ての中に神を見出すようになる。シッダたちのモットーに“簡素な生活と高邁な思考”というのがある。カルマ・ヨーギーはこのモットーに沿って簡素な暮らしを営む。」

上記に続き、同師は“タントラ”に就いて簡単に説明しているのであるが、正直なところ筆者は未だこれを良く理解出来ていないのでここでは触れない。仮に今後筆者の関心が向いて、別途研究する機会があれば、その時点で改めて紹介することにしたい。
以上はヨーガを志すものの基本的な生活態度であるが、同師はもう少し具体的に、クリヤー・ヨーガを実践する上での指針を示しているので、以下に引用する。

「パタンジャリは『ヨーガ・スートラ』の第1章第2節で“ヨーガとは潜在意識の諸様相を浄化することである”とヨーガを定義している。我々の日常生活の体験は潜在意識にあるさまざまな思考、感情、好悪によって色づけされる。こうした色づけは本質的な実在を覆い隠す。ヨーガを日常生活に統合することは、こうした色付けなしに、物事をありのままに見ることを意味する。全ての技法を実践するにつれて、クリヤー・ヨーガの実践者の内には、徐々にこうした新しいビジョンが芽生えてくる。次に挙げる項目は、クリヤー・ヨーガの実践者が、ヨーガを日常生活に組み入れる上での指針となるだろう。

・真の自己、サットグル(筆者註:後述)、普遍的なビジョンを愛する。
・クリヤー・ヨーガのサーダナ(鍛練)を規則的に行う。
・無私の奉仕のヨーガである“カルマ・ヨーガ”を実践する。
・真理の探求者との親睦を図る“サットサンガ”へ参加する。
・食事はヨーガの菜食とする。(筆者註:ベジタリアン宣言第12章⑨参照)
・通常の睡眠をヨーガの休息である“ヨーガ・ニドラー”に変える。(筆者は未経験)
・清浄な心、忍耐、沈黙を保つなどの規則を守る。
・ババジと18人のシッダに霊的な導きを求める。」

続いて同師は、上記の項目を“サットグル”から始め、一つずつ説明していく。

「“グル、神、真の自己は一つである。”これはヨーガの世界では良く知られた金言である。この金言は“サットグル”への帰依が自己実現へと至る最短の道であることを示している。“グル”とは“闇を駆逐する者”を意味する。ババジのような“サットグル”とは、一触、一瞥、或いは、一言を発するだけで、ヨーガの実践者に直接的に光明を与えることができる存在のことである。ヨーガの実践者は、このような形で光明を得ることに先立って、通常、サットグルから長期間に亘る間接的な影響を受けている。この間、彼等は技法の規則的な実践を通して、覚醒を得るための下地作りをしているのである。サットグルへの帰依は、ヨーガの規則的な実践や他者への愛に満ちた奉仕を通してなされる。こうしてやがて全ての活動が、その人を通して世界を創造する神の現れとなっていく。又、人が一般に感じる世界との乖離感は、次第にそれとの一体感へと変わる。然しなによりもまず大切なのは、自分自身への愛を育むことである。人は自己の存在を構成する肉体、生気体、感情体、メンタル体、知性体及び霊体を愛して育まねならない。それを如何に行うかについては、分別をもって臨むことが必要となる。自己を愛することがヨーガの基本である。自己を愛することができてこそ、人は他者を愛し、遂には神を愛することができる。」

次いで、クリヤー・ヨーガのサーダナ(鍛練)に就いてである。

「ヨーガ・シッダのもう一つの有名な金言に、“人が人生で得る喜びは、その人が培った自己鍛練の度合いに比例する”というのがある。セルフ・コントロールや自己鍛練無しには、人は移ろいやすい思考、感覚、感情に常に翻弄されてしまう。大半の人間は他人が発する否定的な思考で感情の影響をたやすく受けてしまう。というのも、人は自分の意識に去来する思考や感情の“流れ”を習慣的に自分のものとして受け入れて、それと同化してしまうからである。サーダナには鍛練という意味がある。サーダナにはすでに述べたヨーガの主要な五部門の実践を初めとして、“真理”(神や“真の自己”と同義)を思い出すための全ての行為が含まれる。“真の自己”を思い出す行為とは、自分の思考、感情、感覚に対して分別を持って臨むことであり、これによって自己中心的な姿勢が取り除かれる。自己鍛練の分野は、ヨーガの実践にとどまらず、仕事、休息時間、家庭生活、食事にも及ぶ。毎日一定の時間をすでに述べた技法の実践に充てることによって、人は心の奥深くへと入り、そこに眠るエネルギーと意識の貯蔵庫を開く事が出来る。自己鍛練に向けられる全ての努力はヨーガの実践を補完する。そして自己鍛練の目的は、自己を統御することにある。“マスター”とは自己の一側面ないしは複数の側面を統御するに至った人である。このような域に達するための第一歩は技法の実践にある。そしてさらには、自己鍛練の及ぶ範囲を生活の全ての分野へと次第に広げていくことである。食欲のコントロールに成功することは、セルフ・コントロールを実現する上での大きな助けになるとシッダたちは教えている。一見重要に思えないことであっても、一つの分野で自己を統御することに成功すると、非常に困難な状況においても自己を統御する道が開けてくる。」

続いて、サットサンガである。これは、国内においては、東京(小金井)大阪で夫々月に一回開かれている。

「“サットサンガ”とは真理の探究者の親睦を意味する。クリヤー・ヨーガの実践者は、同じ道を歩む者と定期的に交流して体験や意見を分かち合い、互いに励まし合うことが望ましい。クリヤー・ヨーガは一歩一歩の前進によって踏破される長い道程であり、その道筋では欲望、無知、怠慢、混乱などの様々な障害が待ち受けている。ヨーガを実践する仲間たちは、こうした障害の克服に向けて互いに助け合うことができる。誰一人として他者の覚醒の肩代わりすることはできない。一人ひとりが自分の習慣や気質に取り組まねばならない。クリヤー・ヨーガを実践する仲間は、いっそうの前進を可能にする激励や洞察を互いに与えあうことができる。・・・クリヤー・ヨーガの教師は、以上の目的のために集会を開く。集会はシッダの著作を共に学ぶ機会としても活用される。」

続いて同師は、「ヨーガの菜食」に触れているが、これに就いてはすでに本ブログ「ベジタリアン宣言」(第12章⑨)で紹介済みなので割愛する。更に同師は、睡眠をヨーガの休息即ち「ヨーガ・ニドラー」に変えることを説明している。この技法は、睡眠時の意識状態を、熟睡状態の更に先にある「トゥーリヤ」と呼ばれる純粋意識状態に至らしめる技法ということである。かなり難しい技法のようで、二段階目のイニシエーションで伝受されることになっており、筆者は来月(2011年3月)これを受講する予定である。いずれ回を改めて説明することになると思うので、今回は割愛する。

続いて、誠実、忍耐、沈黙およびその他の留意点である。

「適切な食物の摂取によって肉体に栄養を補給することが大切なように、心や知性を適切に育むことも大切である。ヨーガの実践者は、ヨーガの鍛練や自己変容の支えとなる感覚的な体験や知的な刺激を求めるべきである。持続的な自覚を保つことを忘れて、単に感覚的な欲求の充足を追求することは自滅行為である。知性や感情レベルの反応が原因となって、自己不信や他の否定的な感情に支配されることもあり得るからである。ババジのクリヤー・ヨーガにおいては、誠実さが最も重要な特質である。誠実さとは自分が意図することを行うことであり、自分の欠点や動機を正直に認めることを意味する。つまり、過ちを犯したことに気付いた時点で、自己を振り返って行動を改め、同じ過ちを再び繰り返さないという決意を持つことである(筆者註:『論語』にも“過ちて改めざる、これを過ちという。”とある)。忍耐心を持つこともヨーガにおいては極めて重要である。忍耐心のある人はたとえ何百万回失敗したとしても最終的には成功を得る。他方、忍耐心に欠ける人は、直ぐに諦めて月並みな人生に甘んじてしまう。沈黙を守ることは、“クリヤー・モウナ・ヨーガ”と呼ばれる(筆者註:ガンジーの属する宗派はジャイナ教であるが、ヨガナンダ師がガンジーに会見したその日、かれは沈黙の行を行っていたことが『あるヨギの自叙伝』P448に記されている)。沈黙の行は不要な私語を慎むだけではなく、心の平静を保つために行われる。沈黙を守る行を規則的に実践することは自己実現への至る道であるだけでなく、五つの体の全てにプラーナによって充電する。自己実現や自己変容の達成に最適な環境を整える為にクリヤー・ヨーガの実践者が心掛けるべき他の行いや姿勢として、非暴力、正直さ、平静さ、慈悲心、不盗、自己制御、そして性行為・食事・仕事における節制を挙げることができる。さらにまた、日常生活における活動の三大分野である、ヨーガの実践、自分で選んだ分野での仕事、そして休息と日常の雑務に、一日の時間を割り当てることが理想である。」

最後に、ババジと18人のシッダに霊的な導きを求める項目に関する説明を引用し、本稿の締め括りとする。

「ババジと18人のシッダは聖なる変容の模範を示し、直接的な導きの源として働くことを通して、全ての真理探究者たちに創造的な刺激を与えている。クリヤー・ヨーガの上級クラス(筆者註:第三段階のイニシエーションか?)で示される瞑想の訓練では、日常生活の諸問題の解決方法やシッダ達の英知が込められた詩の解釈についての霊的な導きを得るために、ババジと18人のシッダたちとの意思の疎通を図る方法を学ぶ。クリヤー・ヨーガを実践する者は、皆、無数の問題に直面する。しかし一般人とは異なり、彼等は無限の英知の源、聖なる大師であるババジ、更には真の自己(筆者註:真我)からの導きを得ることができる。こうした源からの導きは、まったく予期せぬときにやって来ることがある。訓練を積めば、こうした導きが発せられる源を識別することは困難ではない。“善なるものは全て神に由来し、悪しきことはすべて自我の働きによる”とシッダたちは教えている。ある行為がこのいずれに属するのかを知るためには、果たしてその行為が自分にだけ利益をもたらすものか、或いは、他者のためにもなるのかどうかを見極めれば良い。“愛あるところに我在り”とババジは言う。全ての人々がババジを求めて、ババジその人になることを願う!さらにまた、人々の心に普遍的な愛のビジョンが芽生えて、世界平和が実現することを祈る。オーム・シャーンティ・シャーンティ・シャーンティ! オーム・クリヤー・ババジ・ナマ・アウム。」

尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。



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