アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第12章 万教帰一 ⑩バガヴァッド・ギーター

2011-02-04 06:33:05 | 第12章 万教帰一
マハーバーラタは高校時代に世界史で習ったインドの一大叙事詩の名前なので、記憶している方も多いと思う。この物語の粗筋は、上村勝彦氏が訳した『バガヴァッド・ギーター』(以下、同書)の「まえがき」に載っているので、興味のある方は同書を参考にして頂くものとして、ここではごく簡単に説明しておく。
これは、インドのクル族の王族達が三世代に亘って争いを繰り返し、やがて他の部族も巻き込み、二派(パーンダヴァ軍とカウラヴァ軍)に分かれて大きな戦闘を行い、この戦闘で英雄達の多くは死んで行くが、生き残った英雄達もその後15年程の間に次々と死んだり殺されたりして行くといった壮大なドラマである。因みに、以前インドの国営テレビがこれをTVドラマに仕立て、90回程に分けて放映したところ、92%という驚異的な視聴率を記録したということであり、筆者の記憶に間違い無ければ、NHKがBS放送で10年程前に放映していた筈である(多分筆者はその内の2-3回分を見ており、非常に面白かった記憶があるので、最近になって全作品を改めて見てみようと思いDVDを捜したが、日本語字幕の付いたものは販売されていないようである)。

ここでヒンズー教の聖典とも言われるバガヴァッド・ギーター(以下、ギーター)を説明するのに、マハーバーラタの話から始める理由を説明しておくと、先ずはギーターが、マハーバーラタ全18巻の中の、第6巻に編入されたものであること。そして、前段で述べた大きな戦闘がまさに開始されようとする直前になって、パーンダヴァ軍に属する勇者、アルジュナが、親族の殺し合いは気が進まないと言って戦車の上で怖気づいてしまうのに対し、同じくパーンダヴァ軍に属するクリシュナ(神の化身)が、真理を説き聞かせながらアルジュナが戦うことは彼の義務であるから戦うべきであると説得する形で両名の対話が進んで行く(因みに、バガヴァッド・ギーターは日本語で神の詩と訳されている)。従って、ギーターを理解するためには、或る程度マハーバーラタのあらすじを、主たる登場人物の名前と併せて知っておいた方が良いとは思うが、筆者の感覚からすると、同書のまえがきを読めば十分だとも思われる。但しまえがきと言っても、正味15頁位はあって、ここに登場する人物だけで50名位居るので、名前を確り覚えながら読もうとするとかなり大変であることだけは予めお断りしておく。

筆者は第12章⑧で、クリヤー・クンダリニ・ヨーガの第一イニシエーションを受講する前にギーターを読んでおくことが推奨されていると書いたが、その理由はこれまで本ブログで説明していないし、第一イニシエーションにおいても、『ババジと18人のシッダ』でも、特に説明が無かったと記憶している。従って、以下の理由は筆者の推測である。

1.第一イニシエーションで習得する、アーサナ(ポーズ)、呼吸法、瞑想法は、あくまでも“技法”であり、その技法の目的は、修行者が個々に勉強する必要があること。
2.その技法と修行の目的を学ぶのに、ギーターが役立つこと。
3.更に、その技法を修得するに際しての、心構えや普段の生活態度にも触れていること。
4.瞑想にも有益な智慧の宝庫であること。

ということで、智慧の宝庫であるギーターを、この場で全て説明することなどとても出来る話ではないが、その中でも特にヨーガに関連していて、参考になりそうな部分を簡単に引用しておきたい。

先ずはヨーガとは何か、以下は第6章18節から25節までの引用である。因みに、このギーターの内容は、殆どがクリシュナ(神の化身)から勇者、アルジュナに向けた言葉である。

「心が制御され、自己(アートマン、筆者註:真我と考えて良いと思う)においてのみ安住する時、その人は全ての欲望を願うことなく、“専心した者”であると言われる。“風のない所にある灯火が揺るがぬように”とは、心を制御し、自己(アートマン)のためのヨーガを修めているヨーギンの比喩であると伝えられる。そこにおいて、心はヨーガの実習により抑制されて静まり、人は自ら自己の内に自己(アートマン)を見て満足し、そこにおいて、官感を超えた、知性に拠り認識されるべき究極の幸福を人は知り、そこに止まって真理を逸脱することなく、それを得れば他の利得を劣るものと考え、そこに止まれば、大きな苦しみに拠っても動揺させられることがない、そのような苦との結合から離れることがヨーガと呼ばれるものであると知れ。このヨーガを決然と修めよ。意図(願望)から生じた一切の欲望を残らず捨て、意(こころ)により官感の群れを全て制御し、堅固に保たれた知性により、意(こころ)を自己(アートマン)にのみ止めて、次第に寂静に達すべきである。他の何ものをも思考すべきではない。」


次に、ヨーギンの心得である(第6章10節から17節)

「ヨーギンは一人で隠棲し、心身を統御し、願望無く、所有無く、常に専心すべきである。清浄な場所に、自己の為、高すぎず低すぎない、布の皮とクシャ草で覆った堅固な座を設け、その座に坐り、意(マナス:思考器官)を専ら集中し、心と官感の活動を制御し、自己の清浄のためにヨーガを修めるべきである。体と頭と首を一直線に不動に保ち、堅固(に坐し)、自らの鼻の先を凝視し、諸方を見ることなく、自己(心)を静め、恐怖を離れ、梵行(禁欲)の誓いを守り、意を制御して私(筆者註:クリシュナのこと)に心を向け、私に専念し、専心して坐すべきである。このように常に専心し、意を制御したヨーギンは、涅槃をその極致とする、私に依拠する寂静に達する。食べ過ぎる者にも、全く食べない者にも、睡眠をとりすぎる者にも、不眠の者にも、ヨーガは不可能である。節度をもって食べ、散策し、行為において節度をもって行動し、節度をもって睡眠し、目覚めている者に、苦を滅するヨーガが可能である。」

次に、ギーターの重要なキーワード、“無執着”(ヴァイラーギャ)である。ギーターは“執着”の弊害を説き、故に智慧を確立する為には、官感を制御して“執着”から離れることが重要であると説く(第2章、60節から)。

「実にアルジュナよ、懸命な人が努力しても、かき乱す官感が、彼の意(こころ)を力ずくで奪う。全ての官感を制御して、専心し、私(筆者註:クリシュナのこと)に専念して坐すべきである。官感を制御した人の智慧は確立するから。人が官感の対象を思う時、それらに対する執着が彼に生じる。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生じる。怒りから迷妄が生じ、迷妄から記憶の混乱が生ずる。記憶の混乱から知性の喪失が生じ、知性の喪失から人は破滅する。愛憎を離れた、自己の支配下にある官感により対象に向かいつつ、自己を制した人は平安に達する。平安において、彼の全ての苦は滅する。心が静まった人の知性は速やかに確立するから。専心しない人には知性はなく、専心しない人には瞑想は無い。瞑想しない人には寂静はない。寂静でない者に、どうして幸福があろうか。・・・全ての欲望を捨て、願望無く、“私のもの”という思いなく、我執無く行動すれば、その人は寂静に達する。アルジュナよ、これがブラフマン(梵)の境地である。それに達すれば迷うことはない。臨終の時においても、この境地にあれば、ブラフマンにおける涅槃に達する。」

第3章25節以降では、上記と基本的に同じ趣旨のことを、プラクリティ(根本原質)という概念を使って説明している。このプラクリティという概念は、現象世界を構成する全て(物質、心、官感、更には自我意識までも含む)のことであり、プルシャ(純粋精神:実在)に対置される。即ち、プラクリティは実在ではないということになる。従って、簡単に言ってしまえば、実在ではないプラクリティに執着してはならぬ、というのが以下の趣旨である。

「愚者が行為に執着して行為するように、賢者は執着することなく、世界の維持のみを求めて行為すべきである。・・・諸行為はすべて、プラクリティ(根本原質)の要素(グナ)によりなされる。我執(自我意識)に惑わされた物は“私が行為者である”と考える。しかし勇士よ(筆者註:アルジュナに対する呼びかけ)、要素(筆者註:プラクリティ)と行為が(自己)と無関係であるという真理を知る者は、諸要素が諸要素に対して働くと考えて執着しない。プラクリティの要素に惑わされた人々は、要素のなす行為に執着する。全てを知る者は、全てを知らない愚者を動揺させてはならぬ。すべての行為を私の内に放擲し、自己(アートマン)に関することを考察して、願望なく、“私のもの”という思い無く、苦熱を離れて戦え。」

次はヨーギンの徳目であり、クリシュナが愛しく感じるヨーギンのタイプという視点から説いている。又これは、ヨーガを修める者の戒律や(禁戒、勧戒とも云う)とも密接に関連している個所である。

「全ての者に敵意を抱かず、友愛あり、憐れみ深く、“私のもの”という思いなく、我執なく、苦楽を平等に見て、忍耐あり、常に満足し、自己を制御し、決意も堅く、私(筆者註:クリシュナのこと)に意(心)と知性(ブッディ)を捧げ、私を信愛するヨーギン、彼は私にとって愛しい。世間が彼を恐れず、彼も世間を恐れない、喜怒や恐怖や不安を離れた人、彼は私にとって愛しい。何事にも期待せず、清浄で有能、中立を守り、動揺を離れ、全ての企図を捨て、私を信愛する人、彼は私にとって愛しい。喜ばず、憎まず、悲しまず、望まず、好悪を捨て、信愛(バクティ)を抱く人、彼は私にとって愛しい。敵と味方に対して平等であり、また尊敬と軽蔑に対しても平等であり、執着を離れた人、毀誉褒貶を等しく見て、沈黙し、いかなるものにも満足し、住処なく、心が確定し、信愛に満ちた人、彼は私にとって愛しい。しかし、以上述べた、この正しい甘露(不死)の教えを念想し、信仰し、私に専念する信者たち、彼等は私にとってこよなく愛しい。」

そして最後は、ギーターの主題に就いて、訳者の上村勝彦氏が解説している部分である。

「一般の社会人は、自分の仕事を遂行しながら寂静の境地に達することが可能であろうか。多くの古代インドの宗教書は、社会人たることを放棄しなければ、解脱することは不可能であると主張する。それに対し、ギーターは、自己の義務を果たしつつも究極の境地に達することが可能であると説く。それどころか、社会人は決して定められた行為を捨てるべきではないと強調するのである。ギーターにおいて説かれる、“最高の秘密であるヨーガ”は、平等の境地であり、ブラフマンとの合一であり、又、その境地に帰結する“放擲のヨーガ”である。そしてギーターの和訳及び概観から明らかになったように、本書においては、祭祀に関する記述をはじめ、一見本題とは無関係に思われるような様々な個所が、多くの場合、“放擲のヨーガ”と関連してとかれているのである。全ての行為を絶対者(最高神)に捧げる祭祀として行い、行為者は“祭祀の残り物を食べる”、即ち、行為の結果(果報)を期待することなく、ひたすら無償の行為を行うべきである、というのがギーターの主題である。」

ギーターを読んでいると、放擲、無執着(ヴァイラーギャ)、捨離と言った言葉が盛んに出てくることに気付く。そこで一つの疑問が生じるのであるが、ヨーガの実践に際して、我々はクンダリニ昇華とか解脱にすら執着してはいけないのであろうか。その答えは、この上段に引用した文章の最後に書いてある。即ち、
「行為の結果(果報)を期待することなく、ひたすら無償の行為を行うべきである。」

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