アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第12章 万教帰一 ⑪人間社会を変容する鍵

2011-02-11 07:25:59 | 第12章 万教帰一
マーシャル・ゴーヴィンダン師は『ババジと18人のシッダ』(以下、同書)の第12章「クリヤー・ヨーガの道」において、クリヤー・ヨーガの全容を更に詳細に説明しているので、紹介しておきたい。先ずは、人間社会を変容する鍵と題し、クリヤー・ヨーガの定義を次のように述べている。

「ヨーガは“神との合一と成就の域に至るための科学的な技法”と定義することができる。そしてクリヤー・ヨーガとは、ババジによって確立され、ババジ自身や彼の弟子たちが広めたヨーガの伝統である。・・・“クリヤー”とは字義的に“気付きを伴う行為”(或いは“自覚的な行為”)を意味する。クリヤー・ヨーガは各人が自己の可能性を実現することに役立つ、一連の実践的なヨーガの技法として教えられてきた。それはまた各人が霊的な導きの源や、高次の意識に至ることを助ける。クリヤー・ヨーガの実践者が、こうして得た霊的な導きや高次の意識を各自の活動分野やその人が他に影響を及ぼすことができる分野において応用するならば、人間社会の変容に貢献することが出来るだろう。クリヤー・ヨーガを真摯かつ規則的に実践すると、“自己の在り方”に対する視野が広がる。更には、“自己実現”が自我意識に取って代わるようになり、“普遍的な愛のビジョン”が花開くのに伴って、実践者の活動は、森羅万象に顕現する神性に捧げる、愛に満ちた奉仕の行為となる。・・・クリヤー・ヨーガは科学的な方法としての要素を全て備えている。・・・技法の成果を実際に得る為には、真摯で規則的な技法の実践と熟練が必要となるために、クリヤー・ヨーガは“技巧”(アート)であるとも言える。“至高の実在”は定義を超えているために、それは“実在の精髄(エッセンス)”としてのみ体験することが出来る。クリヤー・ヨーガは人と“神”(“真理”)とが一体であることを我々に教えてくれる。」

ババジのクリヤー・ヨーガは、人間の五つの体(後述)に対応する、五つの分野に大別することが出来るとマーシャル・ゴーヴィンダン師はいう。

「ババジのクリヤー・ヨーガの実践は、人間が存在する五つの重要な次元、即ち、肉体、生気体、メンタル体、知性体、霊体の全てに完全な変容をもたらすので、総合ヨーガとも呼ばれる。クリヤー・ヨーガは各人が普遍的なビジョンを抱くことを妨げている各層の条件付けを徐々に取り除く。肉体は聖なる意識の乗物、即ち、寺院である。従って人は自分の肉体を神性の表現媒体として大切にすべきである。一連の技法からなるババジのクリヤー・ヨーガは、以下の五つの分野に大別することが出来る。

・クリヤー・ハタ・ヨーガ(アーサナ)
・クリヤー・クンダリニ・プラーナヤーマ(呼吸法)
・クリヤー・ディヤーナ・ヨーガ(瞑想法)
・クリヤー・マントラ・ヨーガ
・クリヤー・バクティ・ヨーガ(愛と奉仕の活動)

以下に説明するこれらの5分野は、人間の五つの体、即ち、肉体、生気体、メンタル体、知性体、霊体に夫々対応している。これらの体は、同心円状に重層的に存在する、段階的に微細さが異なる生命エネルギーであると考えることができる。」

ここで、少し寄り道をさせて頂く。本ブログでこれまで頻繁に引用してきた、バーバラ・アン・ブレナンの『光の手』(上巻P95)によると、彼女は7層のオーラ(やがて更にその上の層も見えるようになったと云う)が見えると述べている。参考までにそれらの層の名前を内側の層から列挙しておくと、肉体的段階として、エーテル界ボディ、感情界ボディ、精神界ボディの三つ、更にアストラル段階のかけ橋として、星気界(アストラル)ボディ、その上の霊的段階として、エーテル・テンプレート、天空界ボディ、ケセリックボディの三つ、都合7つの層を挙げている。クリヤー・ヨーガが五つの体と云うのに対して7層のオーラなので、明らかに数は合わないが、何となく似たような言葉が使われている。もしかしたら夫々の本を英語で読むと同じ言葉が使われている部分もあるかも知れない(但し筆者は英語で読んだわけではないので、勝手な推測である)。いずれにせよ、ここで重要なのは、人間は肉体だけでなく、メンタル(感情)体や霊体といった複数の体を持っていて、それらを浄化して行くことが覚醒に至る道であるということを確り認識しておくことだと思う。

さて、上記の5種類のヨーガの内最初の3種類即ち、クリヤー・ハタ・ヨーガ(アーサナ)、クリヤー・クンダリニ・プラーナヤーマ(呼吸法)、クリヤー・ディヤーナ・ヨーガ(瞑想法)に就いては、これまでの本章各節において概略を説明済みなので、残るクリヤー・マントラ・ヨーガとクリヤー・バクティ・ヨーガ(愛と奉仕の活動)を同書の説明から引用しておく。先ずはクリヤー・マントラ・ヨーガである。

「“マントラ”の“マン”(man)は“思考する”と意味し、“トラ”(tra)は“守る”や“解放する”を意味する“トライ”(trai)という語に由来する。即ちマントラは、習慣的な性癖(サンサーラ)の束縛から人を解放するためにある。大半の人間は習慣的な性癖に縛られているが、これに代わるものとしてマントラを唱えることで、こうした性癖から解放される。習慣的な行為にエネルギーを注ぐ代わりにマントラを唱えると、エネルギーは後者に向かうために、習慣は徐々にその力を失う。マントラを繰り返し唱えることで、洞察力を曇らせる怒り、恐れ、貪欲、情欲といった欲望を取り除くことが出来る。一旦欲望が取り除かれて浄化された心は、丁度鏡が現実を明瞭に映し出すように、高次の霊的な真実を映すようになる。」
「マントラは深い瞑想状態にあるシッダたちによって見出された。心が静まり純化されると、チャクラや様々な意識レベルに対応する霊妙な音が聞こえるようになる。イエスは、“神の言葉”を聞く事についてこう語っている。“聞く耳のある者は聞くがよい”と。(ルカ第8章8節)言葉には二つの種類がある。一つは英語、フランス語、ヒンドゥー語のように、人々が意思伝達の為に用いる言葉である。もう一つは異なる意識のレベルの間で意思を伝達するために用いられる言葉である。大半の人間は前者の言葉にしか関心を示さないが、多くの宗教的な伝統では後者の言葉が存在してきた。たとえば、聖体拝領の際にワインをキリストの血に変えるために祭司が用いる呪文であるとか、東方正教の“ハートの祈り”やグレゴリオ聖歌などがこれに当る。通常の祈りとは異なり、こうした“言葉”は何かを求めるためのものではなく、心の集中と浄化に役立つ。・・・」
「思考には往々にして欲望が含まれている。欲望が満たされないとき、人は欲求不満を募らせる。欲求不満は心に混乱を生み、更に混乱は自己への気付きを曇らせる。この結果として、人は内に在る聖なる力と意識を見失い、状況と習慣の犠牲者になる。」
「大半の思考には弱い力しかないが、これを繰り返し念じると強大な力を持つようになる。繰り返し念じた思考は習慣になる。そして人の行動の大半は習慣の産物である。人の個性とはその人の思考の総和であり。そこには特定の対象への独自の好悪の反応が混在している。これらは、ヨーガでは“チッタム”(chittam)と呼ばれる潜在意識に蓄えられている。ヨーガとは即ちこのチッタムを浄化する過程である。パタンジャリは“ヨーガとは潜在意識の諸様相を浄化することである”と述べている。(『ヨーガ・スートラ』第1章2節)」
「クリヤー・マントラ・ヨーガは、潜在力を秘めた音を無言で繰り返すことによって英知を目覚めさせる。マントラを繰り返し唱えることは、“ジャパ”(japa)又は“マントラ・サーダナ”(mantra sadhana)と呼ばれる。マントラは安らぎ、無上の喜び、光明、そして気付きをもたらす。それはまた、直感を増して英知を覚醒させ、英知に一層の霊感を吹き込む。これによって創造的な思考は努力なしに自然に生まれる。頭で考える代わりにマントラを繰り返し唱えると、インスピレーションが湧きおこってくる。マントラ・ジャパには、信念(shraddha)、愛(bhava)、そして集中(dharana)が求められる。」
「マントラは自我中心の心を、神を中心に据えた状態に変える言葉である。ババジのクリヤー・ヨーガにおけるマントラは、すべて神性の様々な側面に対応している。最も強力な潜在力を秘めたマントラには、高次の意識へと至る鍵となる強力な“ビージャ”(種子)音節ないしは音が含まれる。これらは深い瞑想状態にあるシッダたちによって発見されたものである。マントラは通常の肉体意識を超えて、そのマントラに対応するチャクラを体験することを可能にする。」
「マントラは神である。マントラとは、単に神の象徴や名前であると信じている人が多い。しかしマントラは本質において神そのものである。聖書には次のような記述がある。“初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。全てのものは、これ(言葉すなわち‘オーム’)によってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。”(ヨハネ、第1章1~3節) つまり言葉には物事を変容させる聖なる力である“シャクティ”が含まれており、これは音を通して顕現する。マントラは創造力を生み出し、共振の原理によって人を神性と同調させる。・・・特定の神格、聖者あるいはシッダのマントラを繰り返し唱えることによって、こうした存在の臨在と祝福を呼び起こすことが出来る。」
「マントラは暗い部屋を照らすロウソクの光に似ている。それはカルマによって生じた病を無力にする注射にも似ている。多くの場合は感覚の妨害によって浪費されてしまうエネルギーも、マントラを唱えることによって保持・増強される。この結果、欲望は徐々にその力を失い、落ち着きと自己抑制の力が生まれる。疑惑、不安、混乱に見舞われたときには、マントラを繰り返し唱えることで心を静めることができる。」
「マントラから効果を得るためには、個人的な利益を求めることなくそれを唱える必要がある。すると物事に執着しない態度が培われて、人は内なる自己を体験するようになる。こうした理由からマントラは“空け渡す”とか神への“礼拝”を意味する“ナマハー”(Namaha)という言葉で終わる場合が多い。」
「マントラを書物から学ぶことは適切ではない。マントラはそれを実際に体験し、その精妙な波動や意識の状態を伝達出来る人から学ぶべきものである。マントラの習得は、さまざまなヨーガの行法の実践によって、学習者と場の双方が清められる場、即ち、“スピリチュアル・リトリート”(“アンタル・クリヤー・ヨーガ”=“霊的な静修の集い”)で行われる必要がある。」

以上、クリヤー・マントラ・ヨーガの説明にかなりの紙幅を割いたが、これはクリヤー・ヨーガの第二段階のイニシエーションを受講すると、その場で指導して頂けることになっている(筆者は本ブログを執筆している2011年2月の時点で未だ経験していない)。

最後に、クリヤー・バクティ・ヨーガ(愛と奉仕の活動)の説明を引用する。

「愛と献身のヨーガであるクリヤー・バクティ・ヨーガは、自己実現に至る最短の道ともいわれる。神に捧げられた歌の歌唱、祈りの言葉の朗唱、礼拝の儀式の催行、そして聖地への巡礼は、我々の精神とハートを“愛の実在”に対して開いてくれる。聖なる実在が森羅万象に遍在することを実感するようになると、その人の活動の全てが優しさに満ちるようになる。一般的に、人は様々な傾向や欲望に陥りやすいので、愛と献身の心は揺らぎ易い。これを安定させるためには、先に述べた愛と献身の活動に従事することが必要となる。バクティ・ヨーガに心を惹かれる人は、情緒的な気質を持っているので、ときには自分の感情が手に負えない否定的なものであると感じることがあるかもしれない。感情の安定を図る為には、他のヨーガの行法、即ちアーサナ、瞑想法、呼吸法、カルマ・ヨーガ(筆者註:行為のヨーガ、いずれ解説する予定)、マントラ・ヨーガなどの実践が役に立つ。」

ここまでで五種類のヨーガや、バガヴァッド・ギーターの説くヨーギンの心得などを、ポイントのみではあるが、一通り解説してきたつもりである。これを読んだ読者諸賢はどのような感想を持ったであろうか。筆者は、これまでヨーガの事を殆ど知らなかったので、その奥の深いことに改めて驚嘆すると共に、インドにおいてこのような霊的な教えが、綿々と伝えられてきたことに改めて畏敬の念を持ったのであるが、実はもう一つ新たな気付きがあった。これは、若しかしたらと思いながら、確信が持てなかったので、改めて他の書籍も調べた上で判ったことなのであるが、実のところ、ヨーガはヒンドゥー教の一派に分類されている(即ち、宗教)ということなのである。

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