アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第12章 万教帰一 ⑫幸福論

2011-02-18 06:38:19 | 第12章 万教帰一
筆者は未だかつて幸福になりたくないと思っている人に出会ったことがない。これは全人類に共通する願望だと言っても過言では無いと思う。ところが、この全ての人が求める幸福を得ることは、なかなか容易ではない。どんなに出世しても、どんなに金持ちになっても、何がしかの不幸を抱えており、死ぬときになって、本当に自分は幸福であったと言える人は一握りなのではないだろうか。寧ろ、特別出世した訳でもなく、普通の生活をしている人の中に、幸福な人が多いように思える。そこで一つの疑問が生じる。幸福とは、自分の努力によって至ることの出来る境地なのであろうか。若しそうであるなら、どうしたら幸福になれるのであろうか。

幸福論は様々な作家や文学者によって書かれているようであるが、筆者が高校時代に初めて接したのは、スイスの法律家(政治家でもあった)であるヒルティの『幸福論』(以下、同書)である。そのきっかけは親切な友人が同書を貸してくれたものだったと記憶しているが、高校生の頃は、聖書の引用が多いので、当時キリスト教に全く興味の無かった筆者にとっては都度聖書を確認しながら読むのが煩雑で抵抗があったのと、2-3頁も読むと眠くなってしまうので、結局読破できぬまま友人にその本を返したように記憶している。
ヒルティにはもう一つ、『眠られぬ夜のために』という名著があって、これも40台になって仕事のストレスが最も高い時期に(就寝前に心を静めるため)読んだ。同書とどちらが先であったかははっきり記憶していないが、相前後して同書に再度挑戦したところ、当時は既に『生命の実相』や聖書にも馴染んでいたこともあり、比較的すっきり理解できた。
ところで、何故この時期になっていきなり、幸福論をブログの話題にしたいと思ったのか正直なところ筆者も良く判らないが、2-3カ月前この第12章の構成をいろいろ考えているうちに、自然にこのテーマを思いついたので一旦メモに書き留め、改めて随筆風に書き始めた次第である。

ここで話は変わるが、塩野七生氏の大著、『ローマ人の物語』を読んでいると嘗ての大英帝国や現代の合衆国が、古代のローマ帝国の異民族に対する統治策を良く研究していたことが良く判り、非常に参考になる。又、塩野氏は貨幣制度、税制、軍事制度や公共投資に至るまで良く研究しており、この本は現代の官僚や政治家にもかなり参考になるのではないかと思う。そういう意味では、塩野氏は筆者の尊敬する作家の一人であることに違いは無いが、一つだけ筆者なら別の解説をするのに・・・と思った個所があった。それは、五賢帝の時代が過ぎた後、アフリカ育ちながら、内乱を収めて皇帝に就任したセヴェルス帝が、功成り名遂げた後、遠征先のイングランドで病み、臨終の床で口にする言葉に関するところの記述である。その少し前のくだりから引用する。

「年が変わった紀元211年の二月四日、皇帝セプティミウス・セヴェルスは、このヨークで最後の息を引き取った。戦場から駆け付けたカラカラ(筆者註:セヴェルス帝の息子で、後のカラカラ帝)と、病状悪化の知らせを受けてロンドンを発ち、暫く前から父の許に来ていたゲタ(筆者註:もう一人の息子)と、セヴェルスの行くところにはどこであろうと同行した妻のユリア・ドムナに加え、ブリタニア戦役遂行中の主だった将軍たちが見守る中で息を引き取った。死ぬことがほとんど解放でもあるかのような、静かな死であった。65歳を迎える二か月前、治世ならば18年、の死である。歴史家、カシウス・ディオが伝えるところによれば、セヴェルスは苦しい息の下からカラカラとゲタの二人に向かい、次のように言い遺したという。“互いのことも考えて、兄弟で仲良く統治するように。兵士たちを優遇し、それが他の何よりも優先することを忘れてはならない。”こう言ったセヴェルスは、その後にまるで独り言のように、次のように続けた。“私は全てをやった。元老院議員でもあった。弁護士もやった。執政官も務めた。大隊長もやった。将軍でもあった。そして、皇帝もやったのだ。つまりは、国家の要職は全て経験し、しかも十分に勤めあげたという自信ならばある。だが、今になってみると、その全てが無駄であったようだ。”」
「ローマ時代の史家たちは、この後のカラカラとゲタの間の展開を知っているがために、皇帝セヴェルスのこの最後の言葉を、自分が創設した皇統のあまりにも早い終焉を予感した嘆きであると解釈する。そして、後代の歴史家たちは、ローマ帝国の滅亡までを知っているがゆえに、セヴェルスは、下降一方のローマ帝国はもはや止めようがないということを悟ったのだと解釈する。恐らく、この両方ともが正しいのであろう。だが、私はある一事ならば、心から彼に同情した。」

と述べて、塩野氏は彼女の持論を次のように展開する。

「真冬の北イングランドを知っている人ならば、そしてその人が、同じ季節のレプティス・マーニャ(筆者註:セヴェルス帝の生まれたアフリカの都市)を知っていれば、確実に私に同意してくれると思う。重くたれる空の下、雨だけがじめじめと降り続き、誰も必要にでも迫られなければ外出は見合わせる。元気なのは、常緑樹と芝生の緑だけ。一方セヴェルスが生まれたレプティス・マーニャでは、冬というのに燦々と降り注ぐ太陽の下、光と影は明確に分かれ、彼方に目をやれば、染まるように蒼い地中海がどこまでも広がる。・・・セヴェルスは、その生まれ故郷を夢見ながら、暗く寒く雨が降りやまない北イングランドで死んだのである。私ならば、息子二人の不仲や帝国の将来への不安がなくても、この一事だけでもメランコリーになるだろう。マルクス・アウレリウスも、緑の影も濃いわたしのチェリオの丘、わが愛するローマ、と書き遺しながら冬のウィーンで生涯を終えたが、ローマの皇帝にも、前線で死を迎える時代がやってきたのである。・・・」

塩野氏が以上のように感じたのであれば、これに対して筆者がとやかく言う筋合いでは無いが、一応筆者の見解を以下に披露しておきたい。

カシウス・ディオに拠れば、セヴェルス帝は、皇帝になるまでの経歴を含め、それを十分に勤めあげたにも拘らず、その輝かしい経歴全てが無駄であったと死の床で言い遺したのである。つまり、セヴェルス帝は人生の目標を、当時の世界帝国ローマの、名誉ある役職(元老院議員や将軍)を登りつめることに置いていたのだと思う。そして、それは当時の名門貴族出身者にとって栄誉ある出世コースであり、共通の目標でもあった。そして、遂にはその究極の地位である皇帝にまでなったが、彼は死の床で、自己(真我)実現、即ち真の幸福を掴むことが出来なかったことに漸く気付き、それを悔いたのである。即ち、如何に出世しようと、如何なる栄誉を受けようとも、如何に富を築こうとも、それらは人生における瞬時の輝きであることに違いは無いかもしれないが、自身が求める本当の幸福とは基本的に全く関係の無いことなのである。それでは、如何にすれば幸福になれるのであろうか。

ここで又話は変わるが、筆者が成る程と思って聞いた“幸福になる為の条件”を簡単に二説紹介しておきたい。その内の一説は、以前出向していた会社の技術担当役員から聞いた話で、或る著名な科学者若しくはエンジニア(名前は失念した)の言葉だったと記憶している。彼は、幸福になる為の条件として幾つかを挙げたが、筆者が記憶しているのは次の三つである。順序は多少前後しているかも知れないが一番目の項目が最重要とされていたことは間違い無い。
1.正しい人生観を持つこと
2.適切な職業に就くこと
3.良い家族と友人に恵まれること

もう一説は、ヒルティの『幸福論』(岩波文庫、第二部)からである。これは、有益な教養という切り口からの説明だが、これも基本的に幸福になる為の条件である。ヒルティは、「人間に有益な真の教養には、根本的に三つのことが必要だと思われる。」と前置きし、

イ) 生来の官能性と生来の利己主義とをより高い関心によって克服すること。
ロ) 肉体と精神の諸能力の健全な均整のとれた発達
ハ) 正しい哲学的・宗教的人生観である。

筆者は、ここに挙げた6つの項目全て、但し前者の1と後者のハ)は基本的に同じことを言っているので、正しくは5つの項目であるが、全て正鵠を射ていると思う。然しその中で最も重要なのは、言うまでもなく、正しい(宗教的)人生観である。宗教と云うと、日本人は何やら胡散臭い印象を持つ人が多いかも知れないが、そもそも宗教という言葉の意味を考えると、全ての教え或いは学問の大本という意味である。又、西田幾太郎氏は『善の研究』の中で、「宗教的要求は我々の已まんと欲して已む能わざる大なる生命の要求である、厳粛なる意思の要求である。宗教は人間の目的其の物であって、決して他の手段とすべき者ではないのである。」と述べている。

それでは、正しい宗教的人生観(或いは、正しい信仰)とは何なのか。筆者は、ここでどの宗教が良いとか悪いとかの判断を下すつもりはないが、少なくも次に述べる四つの基軸を持っていることが重要だと考える。

その第一は、第6章①でも説明済みであるが、輪廻転生である。これは元々ヒンズー教の基本的な教えだったものが、仏教にも影響を与え、初期のキリスト教においても信じられていたのだが、残念なことに西暦553年の公会議において、聖書からこの部分が削除されてしまったことは、既に本ブログで二度程述べている。
この輪廻転生を直接証明することはなかなか困難なのだが、退行催眠によって前世の記憶を思い出したり、霊能力者が或る人の前世を言い当てたりといった話は枚挙に暇が無いので、間接的ながらそうした事実が人の生まれ変わりを証明していると言えなくもない(この点に就いては、ヴィヴェーカナンダがかなり明快に説明しているのだが、これを引用するとかなり長くなるので、改めて説明することにしたい)。
更に、この輪廻の思想は、カルマ(因果応報)とも密接に結びついており、禅宗においても「衆善奉行、諸悪莫作」と教えている。即ち、悪に手を染めず、何事につけ良い行い、或いは正しい行いを続ければ、仮にこの人生でその報いを受けずとも、来世において必ずその結果を受け取るのである。こうした教えは、少なくも我々を悪から遠ざける。逆に、ここに悪事を働いて一時的な利益或いは地位や権力を得た人が居たとしよう。仮にその人が、生きている間にその悪事を隠し通し、その地位を全うすることが出来たとしても、必ず来世においてその報いを受けることになるのである。こうした思想は倫理観の基礎となって我々を「善」に方向付け、我等の波動を高めて心を浄化する。すると、以前説明した波動理論(第9章①)に従って、より良い環境と運命(幸福)を自身が引寄せるばかりでなく、何回かの転生を経て人は解脱に導かれることになるのである。

第二に、聖書に出てくるキリストの有名な言葉で、「人は神と富とに兼ね仕えること能わず」(ルカ16章13節)というものがある。キリストは一言で「富」(mammon)と云っているが、これは現世利益(物質欲)の象徴として言っているものであり、財のみならず地位や権力なども全て含んでいると解釈すべきであろう(キリストが40日間の断食をした際、サタンがこの世の全ての国とその栄華を見せて、自分を拝むならこの全てを与えると誘惑した時、「サタンよ、退け」と言ったのはこのことである)。これらは言葉をかえれば、ヒンズー教で言うところの「マーヤ」、即ち幻影の中で人が求めるものである。第6章④でも説明した通り、我々が見ている世界は実在ではないのである。このことは、「バガヴァッド・ギーター」(第12章⑩)においてもプルシャとプラクリティという言葉を使って説明したばかりなので参照願いたい。実在でない(自分の外にある)ものをいくら追いかけても神から離れるばかりで、幸福には至らない。それは既述のセヴェルス帝の例が示す通りである。又、メーテルリンクが『青い鳥』で伝えたかったのも正にこのことではなかったか。神より富を先にして幸せに辿りつくことは無い。「先ず神の国と神の義とを求めよ。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6章33節)とキリストが説いた通りである。

第三は、「自身を愛するが如く、汝の隣人を愛せよ」(マルコ12章31節)ということである。即ち、宗教である以上「神を愛しなさい、或いは崇めなさい」と云うのは、当然であるが、「自分と同じように隣人を愛せよ」ということを確りと教えなければ、その教えは本物では無いと思うのである。この部分は、すでに「無条件の愛」(第10章⑤)で説明しているので、その部分を再度引用する。
(パリサイ人の中の律法学者がイエスを試そうとして)「先生、律法の中で、どの戒めがいちばん大切なのですか」。(と聞いたのに対し、)イエスは言われた。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一の戒めである。第二もこれと同様である。『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』。これらの二つ戒めに、律法全体と預言者とが、かかっている。」
繰り返しになるが、「これらの二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっている。」とイエスがいうからには、これらが最も重要且つ根本的な戒めであることは想像に難くない。ここで、敢えて筆者流の大胆な解釈を試みれば、この二つの戒めは、事実上同じことを言っているのである。即ち、第一の戒め、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』は、瞑想など(現代においては勿論ヘミシンクでも良い)を通じて、自分が神の一部である、即ち神我一体ということを悟りなさい、或いはその境地を目指しなさいとの意味であり、それを悟れば、全ての人が“神の子”(神の一部であり、神の顕現或いは仏教的に言えば“仏子”)であるということが判るのだから、自分を愛するように『隣人を愛する』ことも自分即ち神を愛することと同義であることが判るのである。
従って、自分たちの信じている宗教だけが正しく、異なる宗教との間に垣根を作ろうとする教えがあるとすれば、正直なところそのような宗教には疑問を禁じ得ない。

第四は、罪人或いは罪の意識の扱いである。生まれながらの聖人君子はともかくとして、物心ついたころから悟っている人など普通はいないと思う。従って、皆多かれ少なかれ心の中に罪の意識と経験を持っている。ジョシュアD.ストーン博士も、『完全アセンション・マニュアル』(上巻P164)の中で、パラマハンサ・ヨガナンダ師の素晴らしい言葉を引用している。即ち、「聖者とは、決して諦めることのなかった罪人である」と。つまり、一旦気持ちが神から離れて、罪を犯してしまった者でも、その罪を深く悔いて神のもとに戻ろうと決意すれば(所謂回心)、神は受け入れてくださるのである。徒に信者に対して「罪人よ」と呼びかけ、心の傷口に塩を擦り込むような説教は本物とは言えない。何故なら罪を犯したのは我々の「自我」(Ego)であり、「真我」(Self)は唯それを見ていただけなのである。従って、我々の本質が真我であると悟れば、罪の意識に苦しむ必要は最早なくなるのである。この間の事情を、キリストは放蕩息子の喩えを引いて見事に説明している。引用しようかとも思ったが、かなり長くなるので、興味のある方は聖書を繙いて頂きたい(ルカ15章11節―32節)。

最後に、筆者なりに「幸福」を定義しておきたいと思う。その前に、前回の「人間社会を変容させる鍵」(第12章⑪)において示した、マーシャル・ゴーヴィンダン師に拠るヨーガの定義を想い起こして頂きたい。即ち、ヨーガとは「神との合一と成就の域に至るための科学的な技法」である。この“神との合一と成就”というのは、全人類の究極の目標であり、それは“至福”と定義すべきものだと思う。但し、これは聖書に書かれている通り、非常に“狭き門”であり、多くの人にとって容易に達成できるような目標ではない(インドの聖者、ラーマクリシュナは10万人に一人だと言っている)。従って、この神(或いは、宇宙意識)との合一を「幸福」と定義すると、殆どの人が幸福になれなくなってしまう。それで、筆者はこれを“至福”と定義付けた次第だが(但し筆者の専売特許ではない)、それでは「幸福」とは一体何か。即ち、

真の「幸福」とは、 “正しい信仰”を持ち、回心した人が、“至福”に至る過程において見出す、心の奥底から静かに湧き上がる喜びであり、真我によってもたらされるものである、と思う。

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