ヨーガ・スートラ第Ⅱ章1節は、前稿にて『インテグラル・ヨーガ』(同書)から引用した通り「サンスクリットの用語を使うと、“クリヤー・ヨーガはタパス、スヴァディアーヤ、イシュヴァラ・プラニダーナより成る”ということであり、前稿にてこの内の“タパス”と“スヴァディアーヤ”について既に説明した。したがって、今回解説を試みる“イシュヴァラ・プラニダーナ”はクリヤー・ヨーガの主要な構成要素の、三つ目ということになる。
先ずは同書からの引用である。
「クリヤー・ヨーガの最後の部分は、単純だが偉大である。それは、至高の<存在>に身を委ねることである。私はこれを、行為の果実を<神>或いは<神>の顕れであるところの人類に献げることだと理解している。何もかも献げよ、あなたの研究もジャパも修練も、すべてを<主>に献げよ。あなたがこれらのものを<主>に献げるとき、<主>はそれらを受け入れられるが、それらを何倍にもして返し与えられるだろう。あなたは与えたものを決して失わない。たとえ徳行・善行であっても、エゴイスティックな気持で行えば、それらは何らかの形であなたを縛るだろう。何をするときでも、いつでも、“これが<主>に献げられますように”と感じながらせよ。いつも忘れずにそれをするならば、心は自由で静穏だろう。何でも自分が所有しようとするな。一時それを預かってはいるが、自分はただの受託者で、所有者ではないと思え ― 」
「一つの魂を受け取って、それを九カ月の間養い育て、やがてはそれをこの世に送り出す母親のようであれ。その母親がもし、赤ん坊を何時までも子宮の中に留めておきたいと思ったら、どういうことになるだろう? そこにはすさまじい苦しみがあるだろう。何かが熟してしまったら、それは次に手渡されねばならない。だから、献身こそが真のヨーガなのである。“私は<あなた>のものである。すべては<あなた>のものである。<あなた>の意思が行われるであろう”と言え。“私のもの”は縛り、“あなたのもの”は自由にする。そこら中に“私のもの”をばら撒いておくと、それらが後々あなたの足元をすくうことになる(それどころか真正面から吹き飛ばされかねない)。だがすべての“私のもの”を<あなたのもの>に変えれば、あなたはいつも安全だ。」
「だから我々は皆、自分の人生を人類全ての為に献げよう。一瞬ごとに、吐く息吸う息が、この身体の原子の一つ一つが、このマントラを―“献げ、献げ、与え、与え、愛し、愛し”を唱えるべきである。それが最良のジャパである。それが、我々全てに永続的な平安と喜びをもたらし、心をチッタ・ヴリッティ(筆者註:こころの動き)の喧騒から自由にしておいてくれる、最良のヨーガである。」
以上が第Ⅱ章第一節の解説であるが、続いて第2節で、「それら(筆者註:即ちクリヤー・ヨーガの三つの構成要因であるタパス、スヴァディアーヤ、イシュヴァラ・プラニダーナ)は、障害[煩悩]を最小にして、サマーディを達成させる。」とパタンジャリは説く。その解説を再び同書から引用する。
「ここでパタンジャリは、何故クリヤー・ヨーガがなされねばならないかを説明する。それは、障害を最小にして、サマーディに入るためである。彼は全てを非常に簡単な言葉で語っているが、クリヤー・ヨーガは必要不可欠であるということを知って、それを決して忘れてはならない。我々はそれなしには障害に打ち克ってサマーディに入ることができない。我々が“ハタ・ヨーガ”とか“ジャパ・ヨーガ”とか呼んで行うことのすべてと、ヨーガ施設やアシュラムでの生活はすべて、このクリヤー・ヨーガの一部である。つまり瞑想とサマーディに向けての準備なのである。」
ということで、これだけ読むと特に難しいことを言っている訳ではないのであるが、佐保田鶴治先生(以後、同氏)は、このイシュヴァラ・プラニダーナには二種類あるというユニークな説を唱えている。即ち、ここで言うイシュヴァラ・プラニダーナはあくまでもサマーディの境地に達するためのものであり、所謂バクティ(献身のヨーガ参照)とは異なるのだという見解である。非常に興味深いので、関連する部分を『解説 ヨーガ・スートラ』から引用するが、この為にはヨーガ・スートラの第Ⅰ章24節に戻る必要がある。因みに同氏はイシュヴァラを「自在神」と訳している。
「Ⅰ-24 自在神というのは、特殊の真我(筆者註:プルシャ)であって、煩悩、業、業報、業遺存などによってけがされない真我である。」
「自在神の性格がここで明らかにされている。自在神は、宇宙の創造主、維持者、破壊者たる絶対神ではないのである。彼は我々の真実の主体である真我(プルシャ)と同種のものであるが、ただ特別な真我なのである。我々の真我は無始以来煩悩その他の悪条件によっておかされ、汚されて来ているが、自在神という真我は無始以来いまだかつて、これらのものにけがされたことがない。我々の真我も解脱すれば、煩悩等の悪い条件に支配されなくなるけれども、自在神とは呼ばれないのである。こういう特別な真我を何故考えなければならなかったのか? その発想の動機は、後に述べるように、ヨーガ行法におけるグル即ち師匠の意義の重大さと関係しているであろう。ヨーガの実践においてグルの存在が不可欠な条件であるとすれば、グルにはまたそのグルが無ければならないがその師資(師匠と弟子)の相伝をさかのぼってゆくと、ついにはグルをもたない最原初のグルにぶつかるはずである。この最初のグルは、グルもなく、ヨーガも行じなくて、初めから解脱していた真我でなければならない(Ⅰ-26節参照)。これが一つの発想動機であるが、もう一つの動機は、もしヨーガにグルがどうしても必要であるならば、グルに巡り合う機会に恵まれないものは、ヨーガ修行を断念しなければならないことになる。かかる場合の救済策として、一心に神を念想するならば、神がヴィジョンとなって現れ、行者を導くグルの役目をして下さる、という信仰が生まれる(Ⅱ-44節参照)。第三には、当時実際の行法として、最高の神である自在神(自在神はインド教になって現れる神で、それ以前の神々‘デーヴァ’とは違って至高絶対の神とみなされていた)に祈念し、この至上神の姿を眼の当たり拝しようとする、所謂観神三昧の観法が行われていた、と創造されることである(Ⅰ-28節参照)。煩悩についてはⅠ-5節のところで述べた。業(カルマ)とは行為のことであるが、行為には善悪の価値が付随するところに意味がある。業報とは、既に為された行為の善悪に応じて、後の行為者の環境、経験などとなって実現したもので、経文Ⅱ-13に境涯(人間、天人等の境遇)、寿命(長寿、短命)、経験(苦、楽)を業報として挙げている。業遺存というのは、業すなわち善悪の行為が為された時、それの見えない影響または印象として潜在意識内に残存してゆくものを言う。この業遺存が原因となって、境涯等の業報が生ずるのである(Ⅱ-12節参照)。以上のような条件によって汚された真我は自由のない世界を輪廻してゆくのである。もっとも、サーンキャ・ヨーガの哲学からいえば、真我は本来輪廻するはずのないものでないけれども、世俗に臣下の勝敗を主君の勝敗とみなすように、真我が輪廻するとみなされるのである。」
ここまで説明したので、続いて同氏の訳になる経文を本稿に関係する部分だけ引用する。
「Ⅰ-25 自在神には、無上最勝な、一切知の種子がそなわっている。」
「Ⅰ-26 自在神は太古のグルたちにとってもグルなのである。何故かといえば、自在神
は時間に制限されたお方ではないから。」
「Ⅰ-27 この自在神を言葉であらわしたものが、聖音“オーム”である。」
「Ⅰ-28 ヨーガ行者は、この聖音を反復誦唱し、そしてこの音が表示する自在神を
念想するがよい。」
「Ⅰ-29 上記の行法を修するならば、内観の力を得、三昧に対する障害をなくす
ことができる」
以上を読み比べて、どちらが正しいかという判断は出来ないが、筆者としては、「イシュヴァラ・プラニダーナ」はあくまでも至上神への全託であり、それがサマーディ達成の為であっても、されにその先にある解脱の為(つまりバクティを通じての自己実現)であっても特に区別する必要性はないように感じている。又、筆者の勝手な想像が許されるとすれば、同氏はグルに師事することなく、イシュヴァラ・プラニダーナによってサマーディに到達することができたのかも知れない。そうであればそれは驚くべきことであるが、氏は哲学に対する造詣が大変に深いようなので、哲学の道(即ちジュニャーナ・ヨーガ、本ブログ第13章⑬“単一宗教と普遍宗教”を参照)から到達した可能性もありそうである。
いずれにせよ、クリヤー・ヨーガすなわち(ヨーガの修練を含む)苦行、聖典の研究、そして至上神への全託が、修行者をサマーディに導いてくれるということである。但し、既に気付いた方も居られるかもしれないが、これら3つの行(サンスクリット語でタパス、スヴァディアーヤ、イシュヴァラ・プラニダーナ)は本章⑦勧戒で触れた5つの戒めの中に全て(Ⅰ-43~45節が3つの行に該当する)含まれている。
このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
先ずは同書からの引用である。
「クリヤー・ヨーガの最後の部分は、単純だが偉大である。それは、至高の<存在>に身を委ねることである。私はこれを、行為の果実を<神>或いは<神>の顕れであるところの人類に献げることだと理解している。何もかも献げよ、あなたの研究もジャパも修練も、すべてを<主>に献げよ。あなたがこれらのものを<主>に献げるとき、<主>はそれらを受け入れられるが、それらを何倍にもして返し与えられるだろう。あなたは与えたものを決して失わない。たとえ徳行・善行であっても、エゴイスティックな気持で行えば、それらは何らかの形であなたを縛るだろう。何をするときでも、いつでも、“これが<主>に献げられますように”と感じながらせよ。いつも忘れずにそれをするならば、心は自由で静穏だろう。何でも自分が所有しようとするな。一時それを預かってはいるが、自分はただの受託者で、所有者ではないと思え ― 」
「一つの魂を受け取って、それを九カ月の間養い育て、やがてはそれをこの世に送り出す母親のようであれ。その母親がもし、赤ん坊を何時までも子宮の中に留めておきたいと思ったら、どういうことになるだろう? そこにはすさまじい苦しみがあるだろう。何かが熟してしまったら、それは次に手渡されねばならない。だから、献身こそが真のヨーガなのである。“私は<あなた>のものである。すべては<あなた>のものである。<あなた>の意思が行われるであろう”と言え。“私のもの”は縛り、“あなたのもの”は自由にする。そこら中に“私のもの”をばら撒いておくと、それらが後々あなたの足元をすくうことになる(それどころか真正面から吹き飛ばされかねない)。だがすべての“私のもの”を<あなたのもの>に変えれば、あなたはいつも安全だ。」
「だから我々は皆、自分の人生を人類全ての為に献げよう。一瞬ごとに、吐く息吸う息が、この身体の原子の一つ一つが、このマントラを―“献げ、献げ、与え、与え、愛し、愛し”を唱えるべきである。それが最良のジャパである。それが、我々全てに永続的な平安と喜びをもたらし、心をチッタ・ヴリッティ(筆者註:こころの動き)の喧騒から自由にしておいてくれる、最良のヨーガである。」
以上が第Ⅱ章第一節の解説であるが、続いて第2節で、「それら(筆者註:即ちクリヤー・ヨーガの三つの構成要因であるタパス、スヴァディアーヤ、イシュヴァラ・プラニダーナ)は、障害[煩悩]を最小にして、サマーディを達成させる。」とパタンジャリは説く。その解説を再び同書から引用する。
「ここでパタンジャリは、何故クリヤー・ヨーガがなされねばならないかを説明する。それは、障害を最小にして、サマーディに入るためである。彼は全てを非常に簡単な言葉で語っているが、クリヤー・ヨーガは必要不可欠であるということを知って、それを決して忘れてはならない。我々はそれなしには障害に打ち克ってサマーディに入ることができない。我々が“ハタ・ヨーガ”とか“ジャパ・ヨーガ”とか呼んで行うことのすべてと、ヨーガ施設やアシュラムでの生活はすべて、このクリヤー・ヨーガの一部である。つまり瞑想とサマーディに向けての準備なのである。」
ということで、これだけ読むと特に難しいことを言っている訳ではないのであるが、佐保田鶴治先生(以後、同氏)は、このイシュヴァラ・プラニダーナには二種類あるというユニークな説を唱えている。即ち、ここで言うイシュヴァラ・プラニダーナはあくまでもサマーディの境地に達するためのものであり、所謂バクティ(献身のヨーガ参照)とは異なるのだという見解である。非常に興味深いので、関連する部分を『解説 ヨーガ・スートラ』から引用するが、この為にはヨーガ・スートラの第Ⅰ章24節に戻る必要がある。因みに同氏はイシュヴァラを「自在神」と訳している。
「Ⅰ-24 自在神というのは、特殊の真我(筆者註:プルシャ)であって、煩悩、業、業報、業遺存などによってけがされない真我である。」
「自在神の性格がここで明らかにされている。自在神は、宇宙の創造主、維持者、破壊者たる絶対神ではないのである。彼は我々の真実の主体である真我(プルシャ)と同種のものであるが、ただ特別な真我なのである。我々の真我は無始以来煩悩その他の悪条件によっておかされ、汚されて来ているが、自在神という真我は無始以来いまだかつて、これらのものにけがされたことがない。我々の真我も解脱すれば、煩悩等の悪い条件に支配されなくなるけれども、自在神とは呼ばれないのである。こういう特別な真我を何故考えなければならなかったのか? その発想の動機は、後に述べるように、ヨーガ行法におけるグル即ち師匠の意義の重大さと関係しているであろう。ヨーガの実践においてグルの存在が不可欠な条件であるとすれば、グルにはまたそのグルが無ければならないがその師資(師匠と弟子)の相伝をさかのぼってゆくと、ついにはグルをもたない最原初のグルにぶつかるはずである。この最初のグルは、グルもなく、ヨーガも行じなくて、初めから解脱していた真我でなければならない(Ⅰ-26節参照)。これが一つの発想動機であるが、もう一つの動機は、もしヨーガにグルがどうしても必要であるならば、グルに巡り合う機会に恵まれないものは、ヨーガ修行を断念しなければならないことになる。かかる場合の救済策として、一心に神を念想するならば、神がヴィジョンとなって現れ、行者を導くグルの役目をして下さる、という信仰が生まれる(Ⅱ-44節参照)。第三には、当時実際の行法として、最高の神である自在神(自在神はインド教になって現れる神で、それ以前の神々‘デーヴァ’とは違って至高絶対の神とみなされていた)に祈念し、この至上神の姿を眼の当たり拝しようとする、所謂観神三昧の観法が行われていた、と創造されることである(Ⅰ-28節参照)。煩悩についてはⅠ-5節のところで述べた。業(カルマ)とは行為のことであるが、行為には善悪の価値が付随するところに意味がある。業報とは、既に為された行為の善悪に応じて、後の行為者の環境、経験などとなって実現したもので、経文Ⅱ-13に境涯(人間、天人等の境遇)、寿命(長寿、短命)、経験(苦、楽)を業報として挙げている。業遺存というのは、業すなわち善悪の行為が為された時、それの見えない影響または印象として潜在意識内に残存してゆくものを言う。この業遺存が原因となって、境涯等の業報が生ずるのである(Ⅱ-12節参照)。以上のような条件によって汚された真我は自由のない世界を輪廻してゆくのである。もっとも、サーンキャ・ヨーガの哲学からいえば、真我は本来輪廻するはずのないものでないけれども、世俗に臣下の勝敗を主君の勝敗とみなすように、真我が輪廻するとみなされるのである。」
ここまで説明したので、続いて同氏の訳になる経文を本稿に関係する部分だけ引用する。
「Ⅰ-25 自在神には、無上最勝な、一切知の種子がそなわっている。」
「Ⅰ-26 自在神は太古のグルたちにとってもグルなのである。何故かといえば、自在神
は時間に制限されたお方ではないから。」
「Ⅰ-27 この自在神を言葉であらわしたものが、聖音“オーム”である。」
「Ⅰ-28 ヨーガ行者は、この聖音を反復誦唱し、そしてこの音が表示する自在神を
念想するがよい。」
「Ⅰ-29 上記の行法を修するならば、内観の力を得、三昧に対する障害をなくす
ことができる」
以上を読み比べて、どちらが正しいかという判断は出来ないが、筆者としては、「イシュヴァラ・プラニダーナ」はあくまでも至上神への全託であり、それがサマーディ達成の為であっても、されにその先にある解脱の為(つまりバクティを通じての自己実現)であっても特に区別する必要性はないように感じている。又、筆者の勝手な想像が許されるとすれば、同氏はグルに師事することなく、イシュヴァラ・プラニダーナによってサマーディに到達することができたのかも知れない。そうであればそれは驚くべきことであるが、氏は哲学に対する造詣が大変に深いようなので、哲学の道(即ちジュニャーナ・ヨーガ、本ブログ第13章⑬“単一宗教と普遍宗教”を参照)から到達した可能性もありそうである。
いずれにせよ、クリヤー・ヨーガすなわち(ヨーガの修練を含む)苦行、聖典の研究、そして至上神への全託が、修行者をサマーディに導いてくれるということである。但し、既に気付いた方も居られるかもしれないが、これら3つの行(サンスクリット語でタパス、スヴァディアーヤ、イシュヴァラ・プラニダーナ)は本章⑦勧戒で触れた5つの戒めの中に全て(Ⅰ-43~45節が3つの行に該当する)含まれている。
このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。