アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第18章 真理 ⑦五つの鞘

2012-11-02 06:57:41 | 第18章 真理
これまで仏教の中において、“真我(=アートマン)が有る”という説と“無い”という説を夫々幾つか紹介し、どうやら仏教各派の中に於いても、本当に深い境地に達した著者による書物は、「真我」或いは「アートマン」という表現ではないものの、「真如」としてその存在を認めているというのが本章に於ける筆者の結論めいたものになっている。そこで、仏教以外に於いて、真我や心(自我)がどのように扱われているのか再度考え直してみたい。

ところで、以前にも本ブログ第15章‘心と意識’に於いて度々引用した、ラマナ・マハルシ(以下、同師)との会話を記録した『あるがままに』(同書)の中に、“心の鞘”、或いは“五つの鞘”という表現があり、筆者は当初それが何を意味するのか良く判らなかった。先ずはその部分を同書から引用する。

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もし我々が真我を自我とみなせば、我々は自我となる。もし真我を心として見なせば、我々は心となる。もし真我を身体として見なせば、我々は身体となるのである。さまざまな形で我々を包みこむ“心の鞘(コーシャ)”をつくり出すのは想念だ。水面に映る影は揺らいでいるように見える。影の揺らぎを止めることができるだろうか? もし揺れが止まれば、あなたは水に気付くことなく光だけを見るだろう。同じように、自我とその活動に注意を払うことをやめ、ただその背後にある光だけを見なさい。自我とは「私」という想念である。真実の「私」が真我なのである。
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更に、「解脱を願う者にとって、本を読むことにどんな価値があるのか」との質問に、同師は次のように答えている。

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全ての聖典は解脱を得るためには心を静かに保たなければならないと述べている。それゆえ、心を静かに保つべきだということが、聖典の最終的な教えである。ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必要はない。心を静めるためには、人は自分自身の内に、真我とは何かと問い続けるべきである。この探求がどうして書物のなかでできるだろうか? 人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。真我は“五つの鞘”*の内にあるが、書物はその外にある。真我は五つの鞘を棄て去っていくことで探求されるものであるため、それを書物のなかに求めるのは無駄なことである。いずれ学んだことをすべて忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。
*五つの鞘:パンチャ・コーシャ 真我を覆い隠す五つの身体の鞘。アナーマヤ・コーシャ、身体の鞘(筆者註:食物鞘とも言う)。プラーナマヤ・コーシャ、生気の鞘。マノマヤ・コーシャ、心の鞘。ヴィジニャーナマヤ・コーシャ、知性の鞘。アーナンダマヤ・コーシャ、至福の鞘。
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ところが、その後スワミ・ヨーゲシヴァラナンダの『魂の科学』を読み始めたところ、いきなり著者序文の最初の部分で、‘三種の身体と五つの鞘’ということを扱っており、筆者はこれを読んでなんとなく納得が行くようになった。

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真我は三種の身体によって被い隠されていますが、この真我をどのようにしたら霊視できるのか、それが本書の主題です。そこでまず、私達の身体がどのような仕組みになっていて、この身体の所有者は一体誰なのか、ということについて話してみたいと思います。
ところで、“私は”とか、“私に”とか言う場合、そう呼ばれているものは、実は二つの実在原理が集まってできあがっているのです。その一つは生命の無い物質である、もう一つは生命です。そしてこの場合、生命は生命のない物質の内に隠されています。ですから生命そのものである真我の居処は、物質元素から創られているこの身体であって、真我は城主であり、身体はこの城主を守る城のようなものです。そしてこの城は、肉体、微細体、原因体という三つの部分から成り立っています。
肉体はまた、粗雑体とも呼ばれていますが、この肉体は真我に到達する道の上に立つ中央門のようなものです。ですから私達は、まずこの門を通過せねばなりません。この肉体は五種の粗雑元素からできており、過去に行った種々中の行為を繁栄して創り出されています。そしてこの肉体は二つの部分から成り立っています。
そのうちのより粗雑な部分は食物鞘(筆者註:前出の身体の鞘、アナーマヤ・コーシャ)であり、もう一つは生気鞘(プラーナマヤ・コーシャ)です。これらの鞘はともに、城主である真我に粗雑次元での奉仕をしているわけですが、こうした肉体自身が真我に奉仕する力を持ち合わせているわけではありません。この、力とかエネルギーと呼ばれるものは、実は、肉体の内側にある別の身体から送られてくるものなのです。
別の身体とは微細体のことですが、この身体の場合は、肉体に具わっているような神経とか動、静脈血管、その他の筋肉とか骨といったようなものを持ち合わせているわけではありません。微細体の場合は、非常に微細な気体のような物質からできています。ですから肉体の四肢のようなものを具えてはいませんが、しかし、肉体全体の内に浸透し広がっている身体なのです。そして力の面から言えば、この微細体は肉体を動かす立場にあると言えます。
言い換えれば、肉体の動きのすべては、この微細体から送られてくる力や刺激によってのみ惹き起こされるのです。この刺激として伝わって来る力の中には、知識と運動という二種の力が混じり合っています。そして、これら二種の力によって、いわゆる、肉体中の生命力と呼ばれている力が生じてきます。この生命力があれば、肉体は生き長らえ、そのすべての機能を果たすことができるのです。
ところでこの微細体も、二つの部分から成り立っています。その一つは、運動の力が勝る意思鞘(プラーナマヤ・コーシャ)であり、他は知識の力が勝る理智鞘(ヴィジニャーナマヤ・コーシャ)です。そして不思議なことには、こうした知識と運動という生命力も、実は、この微細体に属するものではありません。これとは別に、他のもう一つの身体が、カーラナ・シャリーラとか、リンガ・シャリーラ、アヴィヤクタ・シャリーラと呼ばれている、いわゆる原因体です。
原因体は微細体よりさらに精妙な身体であり、微細体へと力を送っているのですが、この原因体自身も、その活動力を歓喜鞘(アーナンダマヤ・コーシャ)の内部から受け取っています。原因体は光の塊のように視えますが、本来は生命力の無いものであり、他の二つの身体同様、自分では生命力を生じさせる力は持ってはいません。
このように、真我を内に宿す城を創りあげている三種の身体は、生命そのものである真我と比べた場合、全く生命をもたぬものであると言えます。この事実を、私達は、日常生活の上でもはっきりと知る事ができます。すなわち、それまで活発に動き回っていた人の身体が急に動かなくなり、死んだようになった時、私達は普通、真我がその人の身体から抜け出してしまったと言ったりしますが、この事実は、五つの鞘全部に生命活動が生じるのは、生命としての真我がそこに宿っているからである、という事を教えてくれています。そして、歓喜鞘に属する心素から知識と運動という形で力が生じてくるのも、実は、この生命としての真我と心素とが接触しているからなのです。・・・

身体という真我の城を考えた場合、そこには勿論、大宇宙を支配している主宰神(イシュヴァラ)も宿っています。この事実は、多くの偉大な行者や聖者達が実際に経験していることです。しかし、神を求めんとする人々の多くは、神は自分自身の身体外の世界、つまり、ヒンズー寺院とか、イスラム寺院、キリスト境界・・・バドリナートなど、人びとが巡礼に訪れる聖地にいるのだと思ったりしています。私達の身体の内部に宿っておられるこの主宰神が、身体外の世界にいらっしゃるのだと思い違いしていることが、まず真理探究を妨げる最初の大きな障害となっているのです。・・・
最も信頼のおける聖典である奥義書(ウパニシャッド)には、次のように述べられています。
『心臓の内奥に潜める絶対者ブラフマンを拝せず、他所に神を拝せんとする者は、カウストゥバ(ヴィシュヌ神の身に付けし極上の宝石)を手中にしながら、他のつまらぬ宝石を求めんとする者に他ならず』 (マホ・ウパニシャッド Ⅵ-20)

つまり、心臓の内奥に潜む絶対者ブラフマンを拝まず、他の神を求める、すなわち、神を他所に見出そうとする者は、自分の手中にある宝石を投げ出して、ガラスの破片を捜し求めているようなものであると説いています。ところで、真我(アートマン)と神我(パラマートマン)とは非常に似通ったものなのですが、私達はその両者を霊視できないでいます。なぜでしょうか。それは、両者とも非常に精妙な存在だからです。他の奥儀書にも次のように書かれています。
『生類の玄洞(心臓)に鎮まれている真我は、微なるよりも微に、大なるよりもさらに大なり。』
すなわち、真我は精妙にして極小。そしてまた、絶対者ブラフマンは万物の中にあって極大。これら両者は心臓内の洞穴に宿っていると説いています。
◇◇◇

つまり、ポイントは、真我がチッタ(心素、心王とも言う)と接触することによって初めて歓喜鞘に知識や運動が生じ、それが順次微細体や生気体を通じて肉体にまで波及しているという事なのである。逆に言うと、‘唯心’とか‘唯識’といっても、心も識も所詮はチッタ(心素)の一部なのであるから、それ自体には生命力はなく、真我を通してでなければ知識や運動のエネルギーを受け取ることは出来ないということになる。

ところで、この‘五つの鞘’に就いては、日本語訳が多少異なることもあり、筆者自身気付かない所で、人間の「五つの体」として、別の角度から本ブログで説明していたことに後で気付いた(第12章⑪)。それは、『ババジと18人のシッダ』の中で、クリヤー・ヨーガの全容を詳細に説明している部分(再掲)である。

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ヨーガは“神との合一と成就の域に至るための科学的な技法”と定義することができる。そしてクリヤー・ヨーガとは、ババジによって確立され、ババジ自身や彼の弟子たちが広めたヨーガの伝統である。・・・“クリヤー”とは字義的に“気付きを伴う行為”(或いは“自覚的な行為”)を意味する。クリヤー・ヨーガは各人が自己の可能性を実現することに役立つ、一連の実践的なヨーガの技法として教えられてきた。それはまた各人が霊的な導きの源や、高次の意識に至ることを助ける。クリヤー・ヨーガの実践者が、こうして得た霊的な導きや高次の意識を各自の活動分野やその人が他に影響を及ぼすことができる分野において応用するならば、人間社会の変容に貢献することが出来るだろう。クリヤー・ヨーガを真摯かつ規則的に実践すると、“自己の在り方”に対する視野が広がる。更には、“自己実現”が自我意識に取って代わるようになり、“普遍的な愛のビジョン”が花開くのに伴って、実践者の活動は、森羅万象に顕現する神性に捧げる、愛に満ちた奉仕の行為となる。・・・クリヤー・ヨーガは科学的な方法としての要素を全て備えている。・・・技法の成果を実際に得る為には、真摯で規則的な技法の実践と熟練が必要となるために、クリヤー・ヨーガは“技巧”(アート)であるとも言える(筆者註:“技法”と訳されることも多い)。“至高の実在”は定義を超えているために、それは“実在の精髄(エッセンス)”としてのみ体験することが出来る。クリヤー・ヨーガは人と“神”(“真理”)とが一体であることを我々に教えてくれる。

ババジのクリヤー・ヨーガの実践は、人間が存在する五つの重要な次元、即ち、肉体、生気体、メンタル体、知性体、霊体(筆者註:これらが‘五つの鞘’に夫々対応している)の全てに完全な変容をもたらすので、総合ヨーガとも呼ばれる。クリヤー・ヨーガは各人が普遍的なビジョンを抱くことを妨げている各層の条件付けを徐々に取り除く。肉体は聖なる意識の乗物、即ち、寺院である。従って人は自分の肉体を神性の表現媒体として大切にすべきである。一連の技法からなるババジのクリヤー・ヨーガは、以下の五つの分野に大別することが出来る。

・クリヤー・ハタ・ヨーガ(アーサナ)
・クリヤー・クンダリニ・プラーナヤーマ(呼吸法)
・クリヤー・ディヤーナ・ヨーガ(瞑想法)
・クリヤー・マントラ・ヨーガ
・クリヤー・バクティ・ヨーガ(愛と奉仕の活動)

以下に説明するこれらの5分野は、人間の五つの体、即ち、肉体、生気体、メンタル体、知性体、霊体に夫々対応している。これらの体は、同心円状に重層的に存在する、段階的に微細さが異なる生命エネルギーであると考えることができる。
◇◇◇

ということで、以下夫々の技法の説明が続くのであるが、それらの詳細は本ブログ第12章で説明済みであり、本稿では割愛させて頂く。
尚、これまでで大体、真我の存在を否定する説は誤りであると立証することが出来たと思う。即ち、端的に言えば、真我とは生命(いのち)そのものであり、それは神である。
次回は阿頼耶識と真我の関係に就いて考えてみたい。

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