既に本章⑥において、大乗起信論(以下、起信論)の概要を説明したが、これを読んでいると、「如来蔵」という言葉が頻繁に出てくる。筆者はこの言葉を、当初「真我」或いは「真如」と同義に解釈していたが、どうやらそういう意味では無いように思われる。というのも、起信論において、この如来蔵は阿頼耶識の一部として説明されている一方で、「真如」或いは「如来」という概念が別に出て来るからである。つまり、如来蔵は、「真如」でも「真我=アートマン」でもないということになると、それでは阿頼耶識の一部を構成する「如来蔵」とは一体何なのであろうかという素朴な疑問が湧いてくる。以下、起信論を引用しながら如来蔵の意味を明らかにし、翻って阿頼耶識と真我(真如)の関係を考えてみたい。
先ずは、起信論第一門、正しい教えの提示(顕示正義)からの引用(岩波文庫)である。
◇◇◇
正しい教えの提示は、[まず衆生心という]一つの心なるもの(一心法)に関して、二つの部門に分かれる。二つとは、第一に<心の真実のあり方>(心真如)に就いて説く部門。第二に、<心の生滅するあり方>(心生滅)に就いて述べる部門である。この両部門はそれぞれに一切のもの(法)を包摂している。何となれば、[両部門は同じ一つの心の両面で、]相互に切り離せないから、[そして一切は唯心で、心の外に対象となるものが外界に実在することはないからである。]
◇◇◇
ということで、「一つの心」は、第一の<心の真実のあり方>(心真如)と第二の<心の生滅するあり方>(心生滅)に大きく分かれており、夫々は「一つの心」の両面であると述べている。
次に<心の真実のあり方>(心真如)の説明だが、以下の通りである。尚、この部分は本章⑥で既に引用されている。
◇◇◇
<心の真実のあり方>(心真如)とは、全てのものの共通の根元(一法界)、その全体に通じるすがた(大総相)であり、また、種々の教えの本体(法門体)である。すなわち、それは心の本性(心性)が、[生滅変化を越えて]不生不滅である点を指す。
◇◇◇
この部分だけ読むと、「心の本性」という言葉や、「共通の根元」、「教えの本体」といった表現が出てくるので、「心真如」とは「真我」或いは「真如」のことを指しているのではないかとも思ってしまうのであるが、もう暫く読み進めて行きたい。
次に「離言真如」ということが説明されている。
◇◇◇
けだし、全てのもの(法)、[すなわち我々の意識の対象として現れる現象]は、ただ、誤った心の動きによって種々の異なった相(すがた)をもって現れている。もし人がそのような[誤った]心の動きから離れられれば、あらゆる対象の[異なった]相は生滅するであろう。それ故、あらゆるものは本来、言葉で[種々に]表された相を離れ、名称・文字によって示された相を離れ、認識を起こす拠り所(心縁、即ち心の対象)としての相を離れており、徹底して[無差別]平等であり、変化することもなく、破壊することもできない。ただ、これすべて、心そのもの(一心)であるから、これを[心の]<真実なるあり方>(真如)と名付けるのである。しかし、あらゆる言語表現は便宜的な仮の表現(仮名:けみょう)にすぎず、[それに対応する]実体はない。それはただ誤った心の動き(妄念)に随って[生じた]にすぎず、[その実体は]知覚されえない。したがって、<真如>(真実のあり方)と呼んでも、[一切のものと同様、その名に対応するような]実体があるわけではない。いわば、[この名は]言語表現のぎりぎりのところで、言葉を用いて、他の[余分な、或いは誤った]表現を排除するのである。この<真如>という言葉の表すもの(体)は何ら否定すべきものではない。というのはすべてのもの(法)は[それ以外のあり方がないという意味で]<真>であるからである。また、新たに立てるべき何ものもない。というのは、すべてのものは平等に<如>(ありのまま)であるからである。こういう次第で、人はまさにこの点を良く知るべきである。すべてのものは言葉で表現できず、心に思い浮かべることもできないので、そのことをものの<真実のありのまま>(真如)と呼ぶのである。
◇◇◇
ここで説明された通り、「真如」とはどうやらブラフマンのことを指しているようなので、これを「真我」或いは「アートマン」と呼び変えても(筆者がこれまで主張してきた、真我=アートマン=ブラフマンという見解からすれば)差し支え無いと思う。然し、「心真如」と敢えて別の言葉を使っているからには、それには「真如」とは別の意味があるのではないかというのが、筆者の見解である。
次に、依言真如ということを説明している部分を起信論から引用する。
◇◇◇
また、遂に、[<真如>は右の如く、言葉で表現できず、ただ体得(悟入)すべきことであるが、]しばらく、言葉を借りて説明すると、真如ということには二つの意味がある。二つとは何か。
第一には、<ありのままに空>(如実空)ということ。[すべての現象は妄念の所産であって<空>すなわち真実においてはないということが]究極的なものの真実の相を示しているからである。
第二には、<ありのままに不空>(如実不空)ということ。[心の]真実のあり方自体には、煩悩に汚されていない[如来の]徳相が本来備わっている(不空=具足)からである。
ここでいう<空>とは、[心の真実のあり方にあっては]本来、すべての汚れたものがそこに結び付いていないことを言う。すなわち、[心の真実のあり方は]すべての現象の差別相を離れている。何となれば、そこでは虚妄な心の動きがないからである(空=妄念の欠如)。かくて<真如>の本性は有るとも、無いとも言えず、有ることも無いとも、無いのでもないとも言えず、有って、且つ無いとも言えない。また、同一とも、種々別異であるとも、同一でないとも、別異でないとも、同一にして別異とも言えないと知るべきである。これをまとめれば、要するに、全ての衆生は誤った心の動きが働くので、一瞬一瞬、分別して、[種々の差別相があると思うが、]そのような誤った心の動きは皆[心の真実のあり方と本来]結び付いていないので、その点を<空>というのである。したがって、もし誤った心の動きがなくなれば、[心の]真実のあり方自体には、最早否定し去るべき何ものも無い。
また<不空>というのは、上来すでに、ものの本性[すなわち真実のあり方]は空、[すなわち煩悩など]虚妄なものは存在しないことを顕かにしたが、それが真実なる心(真心)にほかならない。[この真実なる心(すなわち心真如)は、同時に、生滅に関わらない点で]常住、堅固、不変であり、[悟りに伴う]清浄な徳相に満ち満ちているので、[この満ちている点を]<不空>と表現するのである。したがってそこには、[悟りによって]更に付け加えるべきなにものもない。誤った心の動きを克服した境地というのは、ただ悟りにだけ結び付くからである。
◇◇◇
以上の部分は、<真如>は空であると言ったかと思うと次には不空であると説明しており、普通に考えると矛盾していて極めて難解だと思うが、筆者は次のように理解した。つまり起信論の著者(馬鳴)は、ここでは「空」という言葉を、実体或いは実在性を「否定」する意味合いで使っている。だから、如実空とは、「すべての現象は妄念の所産であって<空>すなわち真実においてはない」、即ち実在ではないという説明になる。それでは「不空」はどのように解釈すべきか。これは、空の前に不をもってきているので、実在性の「否定」の「否定」、即ち肯定である。随って、これは真如とは「実在」であるという意味になる。これを、「常住、堅固、不変であり、[悟りに伴う]清浄な徳相に満ち満ちている」と表現している。つまり<真如>=「空」=「実在」=ブラフマンということの説明である。
次に、起信論第二門、心の生滅するすがた(心生滅)を説明した部分の引用である。
◇◇◇
<心の現実の生滅する[すがた]>(心生滅)とここにいうのは、[上述の、心の真実のあり方―これを衆生心のうちに如来が隠されているという意味で<如来蔵>とよぶが、その]<如来蔵>という普遍的なあり方の上に[個別的な]現実に生滅をくりかえす心(生滅心)があるという構造を言う。換言すれば、不生不滅[なる真実のあり方]と生滅のある[現実の個別的すがた]とが結合(和合)した状態で、この両面は[あるべきあり方と現実のあり方という点で]同じではないが、[同じひとりの衆生の心である点では]別異のものでもない。[この両面を含んだ衆生一人ひとりの心のあり方を、ここでは]<阿頼耶識>とよぶ。
◇◇◇
ということで、ここで初めて如来蔵という考えが示されるのであるが、これは<心の真実のあり方>(心真如)と同じ意味であり、阿頼耶識の一面であることが説明されている。そしてその如来蔵の上に、「現実に生滅をくりかえす心(生滅心)がある」と言う。
続いて阿頼耶識の説明であるが、<さとり>としての内容に就いては、本章⑥でも引用している。
◇◇◇
この阿頼耶識は[機能上、善・不善、世俗・超世俗の]一切のもの(法)を包摂し、一切の現象を表し出す[ので、その名(アーラヤ、貯えるところ)があるが、]内容上、二種を含む。二種の内容とは何か。第一は<さとり>(覚)という内容、第二は<まよい>(不覚、即ち悟っていない状態)という内容である(即ち、阿頼耶識=心生滅は、覚と不覚との和合体)。
このうち<さとり>としての内容とは、心の本性[即ち<心の真実のあり方>(心真如)]が分別・思惟を離れていることをさす。分別・思惟を離れたすがたは、虚空界[がすべてのものに浸透している]ごとく、[すべての衆生に浸透していて]ゆきわたらざるところがない。それはすべてのものの根元(法界)として同一の相をもっている。またそれは、全ての如来に平等なる<法身>[すなわちさとりによって、ものの真実のすがたと一体となった仏、法そのものとしての仏]に他ならない。そして、まさにこの全ての如来の平等なる法身との関連で、[衆生の心の本性は]<本来のあり方としてのさとり>(本覚)と呼ばれる。何となれば、<本来のあり方としてのさとり>という意味は、<まよいからのさとり>(始覚)との対比で用いられるのであって、両者は<さとり>としては全く同じである。[それにもかかわらず、<さとり>に二つの名を区別するのは、]衆生はみな<さとり>を本来のあり方としている(本覚)のだが、現実には[そのことを]さとっていない(不覚)[すなわち<まよい>の状態にある]。この<まよい>があるから、[修行によって、その状態をひるがえし]はじめて覚る<始覚>ことが要請される。これが、<まよいからのさとり>(始覚)の意味である。なお、[「さとる」ということはわれわれの日常経験でも、色々の場合に言われることであるが、ここでいう<さとり>は]<心の生滅の根元>(心原=心源)をさとることであって、したがって、これを<究極のさとり>(究竟覚)とよぶ。[そのほかのさとりは]心の生滅の根元をさとるわけではないので、<非究極的なさとり>である。
◇◇◇
以上が、さとりとしての内容である。続いてまよい(無明)の構造に就いては、本章⑥にて、その基本的構造を“三細”として説明しているが、念の為筆者の解説と共に再掲する。
因みに、起信論では、これに続いてまよいの表層的現象を六麁として説明しているが、その詳しい説明はここでは割愛する。
◇◇◇
第一は<根元的な無知にもとづく業の相>(無明業相)である。[ここで「業」とは]真実を知らないこと(不覚=無明)にもとづいて、心に動きのあらわれることを<業>という。真実を知れば(さとれば)心の動きは止むが、心が動いている限り、苦が生ずる[すなわち、業は苦をひきおこす力をもつ]。結果は原因無しでは生じないからである。
第二は<主観としての相>(能見相)である。[真実を知らないために]心が動くと、[そこに主客の対立があらわれ、心は主観として対象を]認識、分別する。もし心の動きがなければ、心が主観として対象を見ることもない。
第三は<客観として現れる相>(境界相)である。心が動いて主観としてはたらくとき、真実に派存在しないのに対象がそこに現れる(妄現)。もし心が主観としてはたらくことがなければ、客観も成立しない。
◇◇◇
この第一の部分は、人が無明に基づいてカルマを作り続けている様子、第二の相は唯識で言うところの‘見分’であり、「自我」と言い換えても良いと思う。第三の相は、同じく‘相分’であり、自分の心に映じた対境である。起信論では‘妄現’と呼んでいるが、ヴェーダーンタなどで言う所の「マーヤ(幻影)」と言い換えても良いであろう。
次に、心生滅に就いてである。既に本章⑥で説明した阿頼耶識の機能に関する説明と重複するが、これも再掲する。
◇◇◇
また次に、<生滅をおこすもの>(生滅因縁)[すなわち、<まよい><さとり>をあらしめるもの]とは、すなわち、衆生は、心に基づいて[その]意と意識とが活動する、ということで[心とその活動とを意味する]。これはどういう意味か。[ここで<心>とは阿頼耶識のことで、]阿頼耶識に基づいて<根元的無知>があると[経典に]説かれているからである。[即ち](1)真実を悟らないので(不覚)[心(=阿頼耶識)に] 動きが起こり、(2)[対象を]見て、(3)[対象を]現わす。そして、(4)その対象を取って[弁別し]、(5)それに対して思い(念)を起こして持続させる。そこで[これら一連の過程の拠り所となっている点で、動く心を]<意>と名付ける。
◇◇◇
以上に続き、起信論では、この動く心<意>を、その活動する過程から説明している。
◇◇◇
この<意>にはまた[その活動する過程に応じて]五種の名がある。五種とは何か。
第一は<業としてはたらく識(こころ)>(業識)と呼ばれる。すなわち<根元的無知>の力で、まよいの心が動くからである。(これは基本的な心生滅の相のうちの第一、無明業相に対応する。)
第二は<主観としてはたらく識>(転識)と呼ばれる。動く心に基づいて、もののすがたを見るからである。(これは第二、能見相に対応する。)
第三は<対象として現れる識>(現識)と呼ばれる。すなわち、[この識が]あらゆる対象を表し出すことは、ちょうど澄んだ鏡にものの形や色がそのまま映し出されるようなものである。この識も同様に、[いろやかたち、おと、におい、味、触覚という]五種の対象のいずれかに触れるや、たちどころにそれらを映し出し、早い、遅いといった時間的前後の差異がない。何となれば、いつでも、努力を加えずとも、事前に生じては、常に姿を現わしているからである。(これは第三、境界相に対応する。)
第四の段階は<感知する識>(智識)と呼ばれる。すなわち[煩悩に]汚されたもの、汚されないものを[直観的に]弁別(分別)するからである。(これは六麁の第一、智相に対応する。随って、この「分別」は感官知であって概念知ではない。)
第五の段階は<[刹那ごとに]持続する識>(相続識)と名付けられる。何となれば、刹那とは間をおかずに起こり断絶無く持続するからである。[すなわち](イ)[この識は]過去の無量な生涯における善悪の行を保持して失わせないようにし、また、(ロ)現在追う呼び未来の苦楽等の果報(善業には楽果、悪業には苦果)を成熟させて違うことがない(ハ)[また、この識のはたらきで、衆生は]これまでに過ぎ去った出来ごとを不意に思いうかべたり、未来のことをしらずしらず空想したりする。
[三界唯心]それ故、三界に属するもの(すなわち輪廻生存のすがた)は全て虚妄であり、みな心のつくり出したものにすぎない。心と別に[いろかたち、おと、かおり、あじ、触れられるもの、ないしは概念という]六種の対象は存在しない。
◇◇◇
以上が、阿頼耶識の中の、生滅する相の説明であるが、ここにはヨーガ・スートラで言うところのカルマ・アーシャヤ(業の貯蔵庫)も含まれているので、サンスカーラ(佐保田鶴治先生の説では、業・煩悩・薫習などから構成される)の概念が含まれていると考えて良いと思う。
続いて如来蔵に就いて更に説明しておきたい。ここでは初めに「真如」の特質を次のように説明する。
◇◇◇
また次に、[大乗を構成する当体としての衆生たちの現実の心の動きに示現する]<真実のあり方>(真如)なるもの自体とその特質(相)とは、[次の通りである]。
すなわち、それは一切の凡夫、仏弟子の道や独自の道の修行者たち(声聞・縁覚)、菩薩及び諸仏を通じて、増減することなく、その生ずるはじめの際もなく、滅して終わる際もなく、畢竟じて常にありつづけ不変である。それはそもそもの最初から、本性として一切の徳相を満たしていて欠けるところがない。即ち(1)それ自体に大いなる智慧の光明を具えていることと、(2)[その智慧の光が]遍く一切の現象を照らし出すということと、(3)[その智慧には]ものの真実を知る働きがあるということと、(4)[それは衆生にあってはいわゆる]自性清浄心にほかならないことと、(5)[如来の徳性としての]常住・安楽・実在・清浄[という四種の究極的徳性]を具えていることと、(6)[涅槃の特質としての]清涼、不変、自在性[を具えていること]と、(7)[総じていえば]以上のような仏の諸徳性―その数はガンジス河の砂の数よりも多く、[さとりの智慧と]不離、不断、不異で、我々の思いはかりも及ばない―を完全に具えていて、何ら欠ける所が無い。こうした意味で、[この心の真実のあり方は、衆生にあっては]<如来蔵>(如来の諸徳をぞうするもの)と名付けられ、また、[如来に即していえば]如来の<法身>(諸徳性をその身体とするもの、或いは、法としての仏)と名付けられるのである。
◇◇◇
以上全てを簡単に纏めてみると、阿頼耶識の構造は大きく心真如(=如来蔵)と心生滅(まよいの相)の二つに分かたれるが、この内の如来蔵は「真如」の徳性を有しており、本来のあり方としての<さとり>そのものである。つまり、如来蔵は「一つの心」の特性の一部であるから、これは「真如」それ自体ではなく、我々全ての人の心の中に、「真如」の特性すなわち、変化せず、至福に満ちて、極めて清浄な部分が備わっていて、それを如来蔵と呼んでいるということである。つまり、如来蔵とは、あくまでも「真如」即ち「真我」の特性を反映している‘心の一部’であり、「真如」ではない。逆に言うと、阿頼耶識とは別に「真如」即ち「真我」(=アートマン)は在るということになる。
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先ずは、起信論第一門、正しい教えの提示(顕示正義)からの引用(岩波文庫)である。
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正しい教えの提示は、[まず衆生心という]一つの心なるもの(一心法)に関して、二つの部門に分かれる。二つとは、第一に<心の真実のあり方>(心真如)に就いて説く部門。第二に、<心の生滅するあり方>(心生滅)に就いて述べる部門である。この両部門はそれぞれに一切のもの(法)を包摂している。何となれば、[両部門は同じ一つの心の両面で、]相互に切り離せないから、[そして一切は唯心で、心の外に対象となるものが外界に実在することはないからである。]
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ということで、「一つの心」は、第一の<心の真実のあり方>(心真如)と第二の<心の生滅するあり方>(心生滅)に大きく分かれており、夫々は「一つの心」の両面であると述べている。
次に<心の真実のあり方>(心真如)の説明だが、以下の通りである。尚、この部分は本章⑥で既に引用されている。
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<心の真実のあり方>(心真如)とは、全てのものの共通の根元(一法界)、その全体に通じるすがた(大総相)であり、また、種々の教えの本体(法門体)である。すなわち、それは心の本性(心性)が、[生滅変化を越えて]不生不滅である点を指す。
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この部分だけ読むと、「心の本性」という言葉や、「共通の根元」、「教えの本体」といった表現が出てくるので、「心真如」とは「真我」或いは「真如」のことを指しているのではないかとも思ってしまうのであるが、もう暫く読み進めて行きたい。
次に「離言真如」ということが説明されている。
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けだし、全てのもの(法)、[すなわち我々の意識の対象として現れる現象]は、ただ、誤った心の動きによって種々の異なった相(すがた)をもって現れている。もし人がそのような[誤った]心の動きから離れられれば、あらゆる対象の[異なった]相は生滅するであろう。それ故、あらゆるものは本来、言葉で[種々に]表された相を離れ、名称・文字によって示された相を離れ、認識を起こす拠り所(心縁、即ち心の対象)としての相を離れており、徹底して[無差別]平等であり、変化することもなく、破壊することもできない。ただ、これすべて、心そのもの(一心)であるから、これを[心の]<真実なるあり方>(真如)と名付けるのである。しかし、あらゆる言語表現は便宜的な仮の表現(仮名:けみょう)にすぎず、[それに対応する]実体はない。それはただ誤った心の動き(妄念)に随って[生じた]にすぎず、[その実体は]知覚されえない。したがって、<真如>(真実のあり方)と呼んでも、[一切のものと同様、その名に対応するような]実体があるわけではない。いわば、[この名は]言語表現のぎりぎりのところで、言葉を用いて、他の[余分な、或いは誤った]表現を排除するのである。この<真如>という言葉の表すもの(体)は何ら否定すべきものではない。というのはすべてのもの(法)は[それ以外のあり方がないという意味で]<真>であるからである。また、新たに立てるべき何ものもない。というのは、すべてのものは平等に<如>(ありのまま)であるからである。こういう次第で、人はまさにこの点を良く知るべきである。すべてのものは言葉で表現できず、心に思い浮かべることもできないので、そのことをものの<真実のありのまま>(真如)と呼ぶのである。
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ここで説明された通り、「真如」とはどうやらブラフマンのことを指しているようなので、これを「真我」或いは「アートマン」と呼び変えても(筆者がこれまで主張してきた、真我=アートマン=ブラフマンという見解からすれば)差し支え無いと思う。然し、「心真如」と敢えて別の言葉を使っているからには、それには「真如」とは別の意味があるのではないかというのが、筆者の見解である。
次に、依言真如ということを説明している部分を起信論から引用する。
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また、遂に、[<真如>は右の如く、言葉で表現できず、ただ体得(悟入)すべきことであるが、]しばらく、言葉を借りて説明すると、真如ということには二つの意味がある。二つとは何か。
第一には、<ありのままに空>(如実空)ということ。[すべての現象は妄念の所産であって<空>すなわち真実においてはないということが]究極的なものの真実の相を示しているからである。
第二には、<ありのままに不空>(如実不空)ということ。[心の]真実のあり方自体には、煩悩に汚されていない[如来の]徳相が本来備わっている(不空=具足)からである。
ここでいう<空>とは、[心の真実のあり方にあっては]本来、すべての汚れたものがそこに結び付いていないことを言う。すなわち、[心の真実のあり方は]すべての現象の差別相を離れている。何となれば、そこでは虚妄な心の動きがないからである(空=妄念の欠如)。かくて<真如>の本性は有るとも、無いとも言えず、有ることも無いとも、無いのでもないとも言えず、有って、且つ無いとも言えない。また、同一とも、種々別異であるとも、同一でないとも、別異でないとも、同一にして別異とも言えないと知るべきである。これをまとめれば、要するに、全ての衆生は誤った心の動きが働くので、一瞬一瞬、分別して、[種々の差別相があると思うが、]そのような誤った心の動きは皆[心の真実のあり方と本来]結び付いていないので、その点を<空>というのである。したがって、もし誤った心の動きがなくなれば、[心の]真実のあり方自体には、最早否定し去るべき何ものも無い。
また<不空>というのは、上来すでに、ものの本性[すなわち真実のあり方]は空、[すなわち煩悩など]虚妄なものは存在しないことを顕かにしたが、それが真実なる心(真心)にほかならない。[この真実なる心(すなわち心真如)は、同時に、生滅に関わらない点で]常住、堅固、不変であり、[悟りに伴う]清浄な徳相に満ち満ちているので、[この満ちている点を]<不空>と表現するのである。したがってそこには、[悟りによって]更に付け加えるべきなにものもない。誤った心の動きを克服した境地というのは、ただ悟りにだけ結び付くからである。
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以上の部分は、<真如>は空であると言ったかと思うと次には不空であると説明しており、普通に考えると矛盾していて極めて難解だと思うが、筆者は次のように理解した。つまり起信論の著者(馬鳴)は、ここでは「空」という言葉を、実体或いは実在性を「否定」する意味合いで使っている。だから、如実空とは、「すべての現象は妄念の所産であって<空>すなわち真実においてはない」、即ち実在ではないという説明になる。それでは「不空」はどのように解釈すべきか。これは、空の前に不をもってきているので、実在性の「否定」の「否定」、即ち肯定である。随って、これは真如とは「実在」であるという意味になる。これを、「常住、堅固、不変であり、[悟りに伴う]清浄な徳相に満ち満ちている」と表現している。つまり<真如>=「空」=「実在」=ブラフマンということの説明である。
次に、起信論第二門、心の生滅するすがた(心生滅)を説明した部分の引用である。
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<心の現実の生滅する[すがた]>(心生滅)とここにいうのは、[上述の、心の真実のあり方―これを衆生心のうちに如来が隠されているという意味で<如来蔵>とよぶが、その]<如来蔵>という普遍的なあり方の上に[個別的な]現実に生滅をくりかえす心(生滅心)があるという構造を言う。換言すれば、不生不滅[なる真実のあり方]と生滅のある[現実の個別的すがた]とが結合(和合)した状態で、この両面は[あるべきあり方と現実のあり方という点で]同じではないが、[同じひとりの衆生の心である点では]別異のものでもない。[この両面を含んだ衆生一人ひとりの心のあり方を、ここでは]<阿頼耶識>とよぶ。
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ということで、ここで初めて如来蔵という考えが示されるのであるが、これは<心の真実のあり方>(心真如)と同じ意味であり、阿頼耶識の一面であることが説明されている。そしてその如来蔵の上に、「現実に生滅をくりかえす心(生滅心)がある」と言う。
続いて阿頼耶識の説明であるが、<さとり>としての内容に就いては、本章⑥でも引用している。
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この阿頼耶識は[機能上、善・不善、世俗・超世俗の]一切のもの(法)を包摂し、一切の現象を表し出す[ので、その名(アーラヤ、貯えるところ)があるが、]内容上、二種を含む。二種の内容とは何か。第一は<さとり>(覚)という内容、第二は<まよい>(不覚、即ち悟っていない状態)という内容である(即ち、阿頼耶識=心生滅は、覚と不覚との和合体)。
このうち<さとり>としての内容とは、心の本性[即ち<心の真実のあり方>(心真如)]が分別・思惟を離れていることをさす。分別・思惟を離れたすがたは、虚空界[がすべてのものに浸透している]ごとく、[すべての衆生に浸透していて]ゆきわたらざるところがない。それはすべてのものの根元(法界)として同一の相をもっている。またそれは、全ての如来に平等なる<法身>[すなわちさとりによって、ものの真実のすがたと一体となった仏、法そのものとしての仏]に他ならない。そして、まさにこの全ての如来の平等なる法身との関連で、[衆生の心の本性は]<本来のあり方としてのさとり>(本覚)と呼ばれる。何となれば、<本来のあり方としてのさとり>という意味は、<まよいからのさとり>(始覚)との対比で用いられるのであって、両者は<さとり>としては全く同じである。[それにもかかわらず、<さとり>に二つの名を区別するのは、]衆生はみな<さとり>を本来のあり方としている(本覚)のだが、現実には[そのことを]さとっていない(不覚)[すなわち<まよい>の状態にある]。この<まよい>があるから、[修行によって、その状態をひるがえし]はじめて覚る<始覚>ことが要請される。これが、<まよいからのさとり>(始覚)の意味である。なお、[「さとる」ということはわれわれの日常経験でも、色々の場合に言われることであるが、ここでいう<さとり>は]<心の生滅の根元>(心原=心源)をさとることであって、したがって、これを<究極のさとり>(究竟覚)とよぶ。[そのほかのさとりは]心の生滅の根元をさとるわけではないので、<非究極的なさとり>である。
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以上が、さとりとしての内容である。続いてまよい(無明)の構造に就いては、本章⑥にて、その基本的構造を“三細”として説明しているが、念の為筆者の解説と共に再掲する。
因みに、起信論では、これに続いてまよいの表層的現象を六麁として説明しているが、その詳しい説明はここでは割愛する。
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第一は<根元的な無知にもとづく業の相>(無明業相)である。[ここで「業」とは]真実を知らないこと(不覚=無明)にもとづいて、心に動きのあらわれることを<業>という。真実を知れば(さとれば)心の動きは止むが、心が動いている限り、苦が生ずる[すなわち、業は苦をひきおこす力をもつ]。結果は原因無しでは生じないからである。
第二は<主観としての相>(能見相)である。[真実を知らないために]心が動くと、[そこに主客の対立があらわれ、心は主観として対象を]認識、分別する。もし心の動きがなければ、心が主観として対象を見ることもない。
第三は<客観として現れる相>(境界相)である。心が動いて主観としてはたらくとき、真実に派存在しないのに対象がそこに現れる(妄現)。もし心が主観としてはたらくことがなければ、客観も成立しない。
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この第一の部分は、人が無明に基づいてカルマを作り続けている様子、第二の相は唯識で言うところの‘見分’であり、「自我」と言い換えても良いと思う。第三の相は、同じく‘相分’であり、自分の心に映じた対境である。起信論では‘妄現’と呼んでいるが、ヴェーダーンタなどで言う所の「マーヤ(幻影)」と言い換えても良いであろう。
次に、心生滅に就いてである。既に本章⑥で説明した阿頼耶識の機能に関する説明と重複するが、これも再掲する。
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また次に、<生滅をおこすもの>(生滅因縁)[すなわち、<まよい><さとり>をあらしめるもの]とは、すなわち、衆生は、心に基づいて[その]意と意識とが活動する、ということで[心とその活動とを意味する]。これはどういう意味か。[ここで<心>とは阿頼耶識のことで、]阿頼耶識に基づいて<根元的無知>があると[経典に]説かれているからである。[即ち](1)真実を悟らないので(不覚)[心(=阿頼耶識)に] 動きが起こり、(2)[対象を]見て、(3)[対象を]現わす。そして、(4)その対象を取って[弁別し]、(5)それに対して思い(念)を起こして持続させる。そこで[これら一連の過程の拠り所となっている点で、動く心を]<意>と名付ける。
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以上に続き、起信論では、この動く心<意>を、その活動する過程から説明している。
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この<意>にはまた[その活動する過程に応じて]五種の名がある。五種とは何か。
第一は<業としてはたらく識(こころ)>(業識)と呼ばれる。すなわち<根元的無知>の力で、まよいの心が動くからである。(これは基本的な心生滅の相のうちの第一、無明業相に対応する。)
第二は<主観としてはたらく識>(転識)と呼ばれる。動く心に基づいて、もののすがたを見るからである。(これは第二、能見相に対応する。)
第三は<対象として現れる識>(現識)と呼ばれる。すなわち、[この識が]あらゆる対象を表し出すことは、ちょうど澄んだ鏡にものの形や色がそのまま映し出されるようなものである。この識も同様に、[いろやかたち、おと、におい、味、触覚という]五種の対象のいずれかに触れるや、たちどころにそれらを映し出し、早い、遅いといった時間的前後の差異がない。何となれば、いつでも、努力を加えずとも、事前に生じては、常に姿を現わしているからである。(これは第三、境界相に対応する。)
第四の段階は<感知する識>(智識)と呼ばれる。すなわち[煩悩に]汚されたもの、汚されないものを[直観的に]弁別(分別)するからである。(これは六麁の第一、智相に対応する。随って、この「分別」は感官知であって概念知ではない。)
第五の段階は<[刹那ごとに]持続する識>(相続識)と名付けられる。何となれば、刹那とは間をおかずに起こり断絶無く持続するからである。[すなわち](イ)[この識は]過去の無量な生涯における善悪の行を保持して失わせないようにし、また、(ロ)現在追う呼び未来の苦楽等の果報(善業には楽果、悪業には苦果)を成熟させて違うことがない(ハ)[また、この識のはたらきで、衆生は]これまでに過ぎ去った出来ごとを不意に思いうかべたり、未来のことをしらずしらず空想したりする。
[三界唯心]それ故、三界に属するもの(すなわち輪廻生存のすがた)は全て虚妄であり、みな心のつくり出したものにすぎない。心と別に[いろかたち、おと、かおり、あじ、触れられるもの、ないしは概念という]六種の対象は存在しない。
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以上が、阿頼耶識の中の、生滅する相の説明であるが、ここにはヨーガ・スートラで言うところのカルマ・アーシャヤ(業の貯蔵庫)も含まれているので、サンスカーラ(佐保田鶴治先生の説では、業・煩悩・薫習などから構成される)の概念が含まれていると考えて良いと思う。
続いて如来蔵に就いて更に説明しておきたい。ここでは初めに「真如」の特質を次のように説明する。
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また次に、[大乗を構成する当体としての衆生たちの現実の心の動きに示現する]<真実のあり方>(真如)なるもの自体とその特質(相)とは、[次の通りである]。
すなわち、それは一切の凡夫、仏弟子の道や独自の道の修行者たち(声聞・縁覚)、菩薩及び諸仏を通じて、増減することなく、その生ずるはじめの際もなく、滅して終わる際もなく、畢竟じて常にありつづけ不変である。それはそもそもの最初から、本性として一切の徳相を満たしていて欠けるところがない。即ち(1)それ自体に大いなる智慧の光明を具えていることと、(2)[その智慧の光が]遍く一切の現象を照らし出すということと、(3)[その智慧には]ものの真実を知る働きがあるということと、(4)[それは衆生にあってはいわゆる]自性清浄心にほかならないことと、(5)[如来の徳性としての]常住・安楽・実在・清浄[という四種の究極的徳性]を具えていることと、(6)[涅槃の特質としての]清涼、不変、自在性[を具えていること]と、(7)[総じていえば]以上のような仏の諸徳性―その数はガンジス河の砂の数よりも多く、[さとりの智慧と]不離、不断、不異で、我々の思いはかりも及ばない―を完全に具えていて、何ら欠ける所が無い。こうした意味で、[この心の真実のあり方は、衆生にあっては]<如来蔵>(如来の諸徳をぞうするもの)と名付けられ、また、[如来に即していえば]如来の<法身>(諸徳性をその身体とするもの、或いは、法としての仏)と名付けられるのである。
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以上全てを簡単に纏めてみると、阿頼耶識の構造は大きく心真如(=如来蔵)と心生滅(まよいの相)の二つに分かたれるが、この内の如来蔵は「真如」の徳性を有しており、本来のあり方としての<さとり>そのものである。つまり、如来蔵は「一つの心」の特性の一部であるから、これは「真如」それ自体ではなく、我々全ての人の心の中に、「真如」の特性すなわち、変化せず、至福に満ちて、極めて清浄な部分が備わっていて、それを如来蔵と呼んでいるということである。つまり、如来蔵とは、あくまでも「真如」即ち「真我」の特性を反映している‘心の一部’であり、「真如」ではない。逆に言うと、阿頼耶識とは別に「真如」即ち「真我」(=アートマン)は在るということになる。
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