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ニグロ、ダンス、抵抗

2007年02月10日 | [特集] ダンス音楽 ブックレビュー

ガブリエル・アンチオープ (訳: 石塚道子)
ニグロ、ダンス、抵抗
17~19世紀カリブ海地域奴隷制史
人文書院, 2001





売りたし、肢体美麗なニグロ男性1名、年齢16歳程度、召使として良し、素直で従順、フランス語を話し、高度なダンス含めあらゆるダンス可。 ー 18世紀の新聞広告より ー


18世紀。ヨーロッパの宮廷で貴族たちが、きわめて様式的な「バロック・ダンス」を踊っているまさにその時、カリブ海の農園ではアフリカから拉致されてきた奴隷たちがダンスに情熱を傾けていた。

いかに多様な地域や様々な民族の出自であろうと、ひとたび奴隷船に乗せられたなら国籍は抹消され、単なる商品としての黒人=「ニグロ」と見なされる。人格もアイデンティティも、全てが剥奪される。

そうした苛烈な状況の中、ダンスだけは奴隷たちがアイデンティティを再構築し、維持していくために必要不可欠な、癒しと抵抗の身体空間であった。

本書は、様々な古文書や手記、新聞記事、聞き書きなどの稀少な資料を丹念に捜査し、これまで曖昧なイメージでしか語られてこなかったカリブ地域の奴隷制社会を、支配者と奴隷の双方を含めた一種の動的な経済=文化システムとしてリアルに描き出している。

とりわけ「奴隷のダンス」の起源や流行については、詳しく記述されている。

当時、支配階級である白人たちの人数は少なく、ニグロ奴隷たちの方が圧倒的多勢であった。たとえば18世紀のサン=ドマング島では、3万5千人の白人が50万人の奴隷を支配していた。そのため白人たちは、奴隷の抵抗や叛乱を何よりも恐れていた。

「気晴らしする民衆は陰謀を企てない」 と考えた彼らは、「もっとも優秀で規律正しいニグロは、規則的にダンスをしている者である」とし、公認のダンスという娯楽を与えることで、言わば奴隷たちの「ガス抜き」をはかった。

確かに、奴隷にとってのダンスは祝祭にほかならない。それは過酷な強制労働という日常の時間を切断し、現実からの逃避を可能にする娯楽であり、気晴らしであり、新鮮な空気穴であった。白人には信じがたい疲れ知らずのエネルギーと情熱をもって、彼らは一晩じゅう踊り続けたという。

また同時に、白人たちにとってもダンスは祝祭であった。なにしろ農園主たちの生活は実に単調なものだった。そのうえ彼らにはヨーロッパへの帰還願望やコンプレックスが強かったため、いわゆる宮廷ふうの舞踏会がたびたび催された。

そこでは、たとえば黒人奴隷が完璧なマナーでヨーロッパふうの宮廷ダンスを踊るといった倒錯的な光景もみられたという。

ダンスに長けた奴隷は注目を浴び、パフォーマーやダンス教師として活躍できた。また、そうした奴隷を抱えていることは農園主にも名声と副収入というメリットをもたらした。

だが同時に、こうした支配者のコントロールを逸脱して、定められた日以外に祭や会合の名目で奴隷が集まって踊ったり騒いだりすることは、死刑に値するほどの重罪とされた。

白人の目のとどかないところで行われる集会は、サボタージュや逃亡や叛乱につながる不穏な運動と考えられたのだ。ダンスを許可するのは、あくまでも農園主の「温情」にすぎなかった。

実際のところ、集合し、ダンスし、トランスする集団は、容易に「群衆でも大衆でもなく、集団としての明晰さを備えた活動グループとなり、共同の行動へ向かって進んでいく」存在となる。

そこでのダンスは、支配者との駆け引きによって得られるちっぽけな「制限つきの娯楽」などではなく、異議申し立てや反逆といった大義ある政治行動と同義語になりかねない。

支配者によって禁止され、厳罰が課されようと、夜の闇にまぎれて農園を脱出し、他の連中と合流して非合法のダンスに熱中する奴隷は、あとをたたなかったという。それは、「匿名のニグロ」から「本来の自分」へと、つかのまにして永遠の逃亡を果たすことができる場所、それこそがダンス空間だったからではないのか。


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