ジェイソン・トインビー (安田昌弘:訳)
ポピュラー音楽をつくる
ミュージシャン・創造性・制度
みすず書房, 2004
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テクノ、トランス、ジャングル、ガレージでは、物語を語ることなどよりも、気持ちのいい瞬間を創造することこそが全てなのである。
- J. Gilbert
昼間は肉体労働、夜はバンド演奏というセミプロのミュージシャン活動を40代まで続けた著者が、一念発起して研究者に転向した時の博士論文が、本書の原型だという。ポピュラー音楽およびミュージシャンの存在について、社会学、経済学、音楽学、美学、文学、現代思想…と膨大な文献を用いて分析論考。
その学際的な振り幅の広さと、インタビューや雑誌記事まで使って描写する音楽現場の具体例とのバランスは絶妙だ。中でも、ミュージシャンを食い物にするレーベルや企業の搾取構造について語る部分では、その舌鋒の鋭さに下積み積年の恨みを読み取るのは深読みだろうか(微笑)
「テクノロジー」の章では、マイクやマルチトラックレコーダーといった録音技術や放送メディアなどのテクノロジーによって、どのように音楽が「サウンド」化していったかというプロセスが詳細に検証されていて興味深い。
過去の歴史を眺めると、いかにも技術革新こそが時々の音楽を進化させてきたように思われがちだが、実際その時代の「リアルタイムな空気」としては、必ずしもテクノロジーがすんなり受け入れられてきたわけではない事がわかる。
たとえばレコーディングとは、長い間「ドキュメンタリー」であった。ステージで演奏する姿をあたかも客席で聴いているかのようにそのまま収録するのが理想だった。
だから、マイクが発達して生演奏では不可能な「ささやき声とオーケストラの共演」が可能になった時も、多重録音が可能になった時も、「そんなものは邪道だ」「虚像だ」と必ず反対の声があがった。
ポップス先進国のアメリカがそのような状況だったからこそ、後進国イギリスのビートルズなどは、売り込みのために次々とテクノロジーを用いた新しい手法を開発して付加価値を高めていくことができたのだという指摘は、なかなか新鮮だ。
そして著者は、ロックとはたかだかこの数十年流行した例外的なジャンルであると指摘する。より普遍的なポピュラー音楽のあり方は、むしろ「ダンス音楽」の方ではないか、と。こうして最終章は、ダンス・ミュージックの根拠と意義を解明する考察が展開される。
ロックの世界では、いまだにオリジナルで正統なスターの「神話」が煽られている。けれどもダンス・ミュージックの世界では、そのような神話よりもダンスという「機能」の方が重要だ。
無数の匿名的なシングル盤という他人の音源を選曲(=エディット)して人々をダンスさせる現代のDJは、無数のスタンダード・ナンバーという他人の曲を巧みに編曲(=エディット)して人々をダンスさせるスイングジャズ時代のビッグバンドと、実は近いポジションにいる。
どちらも、安易な「自己表現」の幻想を目的にすることなく、音楽の作り手と受け手を接続する「開かれたネットワーク」を提供する存在であり、そこにこそポピュラー音楽の新しい可能性がある…という本書の結論は、なかなか刺激的だ。
もちろん現実には、DJが新たなスターとしてロック同様、「神話」の捏造に一役買っている面もあるには違いないが。
ともあれ、SNSやクラウドの世界を挙げるまでもなくシェアの概念が急速に広まりつつある今日、本書が指摘するような音楽の「開かれたネットワーク」について、考えるべき点は多いはずだ。
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