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栄華のバロック・ダンス

2007年03月03日 | [特集] ダンス音楽 ブックレビュー

浜中康子
栄華のバロック・ダンス
―舞踏譜に舞曲のルーツを求めて
音楽之友社, 2001




王太子や何人かの男性は女装をし、ショールを巻き、髪型は黄色の髪でできたタワーのように高く作られた。またつけぼくろやパッチのついた黒や赤の小さな仮面をかぶって、高く蹴り上げるようなステップを踏んだり、わざとぶつかりあって突き飛ばされた伯爵が英国女王の足下に倒れこんだりすることもおこり、笑いの一幕を繰り広げた…

18世紀。カリブ海の農園で奴隷たちがダンスに情熱を傾け、過酷な現実から束の間の逃避を果たしていた頃、ヨーロッパの宮廷では、感情を極力排して調和と秩序を表現する、きわめて様式的な「イデオロギーとしてのダンス」が貴族たちによって踊られていた。いわゆる「バロック・ダンス」である。

バロック・ダンスは別名「ベル・ダンス(高貴なダンス)」とも呼ばれた。それらを大別すると、宮廷の舞踏会で貴族たちが踊るダンスと、宮廷や劇場のステージで専門のダンサーが踊るショーを眺めるものの、2種類に分けられる。前者は現在の社交ダンス、後者はバレエの源流となった。

もっともバレエは、カトリーヌ・ド・メディシス(1533年にイタリアからフランス王室に嫁いだ)が持ち込んだダンスが起源という説もある。

17世紀の国王ルイ14世は自ら踊り手としてバレエに熱中し、王立舞踏アカデミーを創立するほどのマニアだった。実際の宮廷では、社交ダンス的な舞踏とバレエ的な舞踏の間に、強い相互関係や影響があったと考えて良いだろう。

ともあれ、宮廷ダンスとは何よりもまず「儀礼」であった。王侯貴族の結婚や誕生、戦争の勝利、海外VIPの訪問など、およそあらゆるイベントのたびに「グラン・バル(舞踏会)」が開かれた。

たとえば、ある結婚祝いには7~800人が出席し、ヴェルサイユ宮殿「鏡の間」を会場に、専属楽団である「国王の24人のヴァイオリン」と12人のオーボエ奏者の伴奏で盛大な舞踏会が催されたという。

本書は、こうした背景の説明に続き、現存する「舞踏譜」とその説明によって、様々なバロック・ダンスをジャンルごとに紹介してくれる。

「舞踏譜」とは、ステップやダンスの詳細を平面上の時間軸移動図として詳細に示したものだ。ルイ14世のダンス教師でもあったボーシャン、そして1700年に舞踏記譜法の特許を取得したフイエらのシステムに基づき、数百種類現存している。

「音」そのものを保存する録音メディアのなかった時代、音楽は何よりも「譜面」として記録販売されていった。同じように、ダンスする身体という「映像」を保存するメディアのなかったこの時代には、様々なダンスの所作が「舞踏譜」として残されたわけだ。

本書は単に学究的な研究書というだけでなく、バロック音楽や古楽の演奏に携わる者にとっては、メヌエットだのガヴォットだのサラバンドといった「おなじみの舞曲スタイル」について、あらためてアクセントやダイナミックスやニュアンスを教えてくれる。

何より、特定の音楽ジャンルに固有の「グルーヴ」というものを、ステップやダンスの挙動によって伝えてくれる、またとない参考資料となるだろう。

実際、本書を一読した当方にはバロック舞曲の数々が、化石のような古い音楽ではなく、当時の超トレンディなダンス・ミュージックとして、あらためて立ち上がってくるように思えた。

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