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朝鮮通信使は牛窓にも寄港していたんだよ

2014年09月14日 00時00分00秒 | 芸術・工芸、民芸、資料館

 朝鮮通信使は牛窓にも寄港していたんだよ

岡山・瀬戸内市牛窓

 

 

 

 この建物は明治20年、警察署として建設され

今は

 江戸時代に寄港した朝鮮通信使の貴重な資料

 県指定有形民族文化財のだんじりなどを展示しています。

 また、港町として栄えた牛窓は

材木の流通も盛んで、江戸時代には造船業が発達しました。

その技術を今に伝えるために、木造船も展示していました。

 

 

牛窓のだんじりはすべて舟形をしています。

竜頭、獅子頭、麒麟頭、御召舟形などがあります。

いずれも江戸時代から明治にかけて造られたもので楠、欅造りです

 

御召舟をかたどった御船だんじり

文政元年(1818年)製作

牛窓ダンジリの中で一番古いものと思われる

 

牛窓秋まつり (10月第四日曜日)

だんじり 飛竜丸

明治8年 (1875年)

 

徳川幕府は17世紀前半の50年間に為政上の基本として

「幕藩体制」をきずいたが、

対外的には「通信の国」(外交関係の国)と

「通商の国」(貿易船渡来の国)に区分する体制を形づくった。

すなわち

朝鮮と琉球を「通信の国」

中国とオランダを「通商の国」とし、他の国との交渉を認めず、

日本人が海外に出ることを厳しく禁止した。

「鎖国」と呼ばれる体制である

徳川政権が豊臣秀吉の侵略戦争のあと、平和な国交の回復をはかったので

1607年(慶長12年)に初めて朝鮮の使節団が日本を訪れてきた。

この使節団は「朝鮮通信使」または「朝鮮信使」と呼ばれ

4~500名で組織されていた

その往復には5ヶ月~8ヶ月を費やし、

日本からは対馬藩から出した出迎えの船が朝鮮の釜山港までおもむき

対馬巌原に着くと、藩主の宗氏が随行して江戸まで往来し

途中は沿道の大名が海路は船を出し、陸路は人夫や馬を集めて迎送し、

旅館は宿駅や寺院などを用意した。

使節団は高位の官人を起用し、

随員の中にも学者、文人、書家、画家、などが多数選ばれ

正に一大文化使節団の観があった。

 

江戸までの経路

 

500人近い使節団であった。

 

正使、副使、寄港地を描いています

使節団の画家が書いたそうです

 

 

釜山港

 

対馬島芳浦瀬戸

 

牛窓

 

夜入大阪

 

朝鮮通信使行列人形

 

朝鮮通信使絵巻

 

珍しい楽器を手にしている楽隊がいます。

 

一番大事なものは朝鮮国王から徳川将軍にあてた国書

御輿に入れて運んだようです

 

正使や副使などの高官は御輿に乗っている

 

文化交流 教えてもらっている

日本人は文化程度も低く、野蛮な国と思われていた。

(豊臣秀吉の朝鮮侵攻が原因)

 

民衆も通信使に興奮し、通信使の絵を描いた絵馬を奉納しました。

 

乗ってきた船を描いています

 

正使、副使の衣装

 

唐子踊りの衣装

 

10月第4日曜日に疫神社の秋まつりに奉納されます

 

朝鮮人来朝図 (羽川藤永筆)

通信使一行を浮世絵の手法で描いている

 

通信使の船

 最後までご覧頂きましてありがとうございました。

     明日も 皆様のお越しをお待ちしております。

     



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