わたしの里 美術館

とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

顔の高さに 懐かしいわが家

2010-09-15 | ワイエス

 

 

 

 

 

                                
http://www.artscapes.ca/blog/2009/01/10/andrew-wyeth/

1965年の雑誌『ライフLIFE』紙のなかで、ワイエスが次のように、話しています。

"In the art world today, I'm so conservative I'm radical. Most painters don't care for me. I'm strange to them... A lot of people say I've brought realism back. They try to tie me up with Eakins and Winslow Homer. To my mind they are mistaken. I honestly consider myself an abstractionist. Eakins' figures actually breathe in the frame. My people, my objects breathe in a different way; there's another core -- an excitement that's definitely abstract." 

       拙訳は ワイエスのことばの訳 でお読み下さい。

 


http://www.dl.ket.org/webmuseum/wm/paint/auth/eakins/index.htm 

トマス・エイキンズ(Thomas Eakins,1844年-1916年) 
 The Biglen Brothers Racing
 1873年 ワシントン国立美術館(National Gallery of Art at Washington D.C. )

 

身も蓋もない云い方をすれば、描かれる対象が 中心から ズレている。

トマス・エイキンズのボートの絵では、Biglen Brothers が 画面のど真ん中にすえられている。たいして『石垣』の絵では、何がモチーフなのか曖昧。遠くの家なのか、それとも大きな木、あるいは手前の若木なのか。そして画題は「Stone Fence」つまり石垣である。

石垣を 描きた かった のか。本当に。

たしかに これは 石垣の絵だと、納得する 人は 少ない のでは なかろうか。普通ならば、視線は 遠くの家から はじまって、大きな木 そして手前の若木、そして最後には、根本は 画面から下に切れている、斜めの 鋭い線の 縦に伸びた 枝でとまる。

絵が壁に 掛けられていれば、鑑賞者の 目の高さの 位置が、遠くの家。この絵を近くで、正対して鑑賞するならば、かならずこうなる。しかし、絵の本来の目的は、部屋を飾るものであり、そこにあれば こころが 豊かに なるべきもの。ソファにかけてぼんやりと眺めるとか、ドアをあけて部屋に入ったとき一瞥をくれて、ちらりと見る。

ワイエスの絵の本質は、リリシズムであると思う。

悲しいのでもないし、嬉しいわけでもない。こころにぽかんと空いた、空き地。アンドリュー・ワイエス

( 鑑賞者が この絵に 面と向かって、見入るとき。ついには、手前の小枝を 避けながら、絵の中に 踏み込んでゆく。石垣の 破れ目から、空いた 草地に入り 込む。大きな 木のわきを、ずんずん進んでゆけば、懐かしい古い家が まっている。豊かに なりすぎた アメリカの 無くしたものが、そこにはある。 )

別に 悲しいわけ でもないのに、なきたくなる ような リリシズムが 其所にはある。古い 遠い わが家へと 誘う、そのような 仕掛けが、鋭い線と オブジェ によって 巧妙に そして、直裁的に 配置され ている。

 


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